□投稿者/ ザビビのふくろう -(2025/04/03(Thu) 23:46:46)
| 2025/04/04(Fri) 08:48:18 編集(投稿者) パニチェさん、こんばんは。 カメレスすみません。 書いていたら、どうしても長大になり終わりそうにないので、諦めて思い切って短く書いて見ました。 わかりにくかったらすみません。
■No41686に返信(パ二チェさんの記事) > 2025/04/02(Wed) 17:27:14 編集(投稿者) > > おはようございます、ザビビのふくろうさん。レスありがとうございます。 > > ■No41683に返信(ザビビのふくろうさんの記事) > >>上掲の『青色本』からの引用文読解の件ですが,パニチェさんの知りたいポイントがいまひとつわからなくて,どう書こうか迷ってたんですが,とりあえず,同じ箇所の別訳を載せてみます。 >>これ,訳文中に黒崎先生の解釈を補足として直接挿入してあるのですが,そのおかげで場合によっては(全集版と合わせれば)わかりやすいのではないかと思います。 >>参考になればいいのですが。 > > 引用もいただき、ありがとうございます。お手間かけました。 > 理論負荷性ではないのですが、まずは純粋にザビビのふくろうさんがどう読解するかを知りたかったのです。 > 私がヘタな質問してしまうと読解から外れてしまうような気もしましたので。。。 > >>*********************** >>私に「何であれ,それが見られる(本当に見られる)とき,それを見る者は常に私である」※と言わせる[独我論]の誘惑に,私は,「何であれ,それが見られる(本当に見られる)とき,その見られるものはこれである」と言うときにもまた,負けていたのである。なお,「これ」という語には私の視野[全体]を抱くような身振りを伴って,である。(しかし,「これ」という語によって私がその時点でたまたま見ている特定の対象を意味してはいない。)[独我論者である]人は,こう言うかもしれない。「私は視野を視野として指さしているのであって,視野の中にある何かを指さしているのではない。」※※そして,このように言う事は,「何であれ,それが見られる(本当に見られる)とき,それを見る者は常に私である」という[独我論の]表現は無意味である,という事を暴露するのに役立つだけである※※※。 > >>※104頁(『全集』p.112 ) >>※※『論考』の独我論を考えればよい。 >>※※※しかし,何故そうであるかは,後に112頁(『全集』p.126)で述べられる。 > >>そこで,[独我論を表す]我々の表現「何であれ,それが見られる(本当に見られる)とき,それを見る者は常に私である」の中の「常に」という語を取り除いてみよう。そうしても私は,私の[論じている]独我論を,「私が見る(或いは,今見る)もののみが,本当に見られるのである」と言って,表現する事が出来るのである。そして,ここにおいて私は,こう言いたくなる。「私は,「私」という語によって,L.W.を意味しはしないが,もしも今まさに私は事実としてL.W.であるならば,他人が[私の]「私」という語はL.W.を意味すると理解しても,それはそれでよい。」私が「私」という語について今言った事は、「私は[、L.W.ではないが、]生命の器である」と言って表現する事も出来よう。しかし、注意せよ。私がそういう相手は、誰も、[一般に]私[の言う事]を理解出来てはならないという事が本質的なのである。即ち、他人は[一般に]「私が本当に意味する事」を理解出来てはならないという事が本質的なのである。 > >>『『論考』『青色本』読解」』 ルードヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン 黒崎宏 訳・解説 p.109〜110 >>************************* > >>確か、パニチェさんは、 >>永井均著 『青色本』を掘り崩す――ウィトゲンシュタインの誤診 (講談社学術文庫) >>を持っておられたと思うのですが、上記引用の前半のパラグラフについて、永井は次のように述べていますよね。 >>******************* >>この段落でちょっとだけ出されている問題は、後に詳述されるが、ひとことで言えば、これは「独我論は語り得ぬ。」ということである。(永井均 前掲書 209頁) >>***************************************** >>ここに関してだけ言えば、私、同意です。 >>独我論者の用いる「私」「今」「ある」等々は無意味って話だと思います。 >> 私だけが存在する >>という独我論のテーゼそのものが無意味なわけです。 >>引用文の少し後の箇所で、「ベンチ」やチェスの冠の話が出てきますが、 >>まさに「〈私〉」のカギカッコについても、無意味だと言っていると解釈できるんじゃないでしょうか? > >>もう少し書こうと思ったのですが、都合で改めにさせてもらいます。 >>それと、やはり、パニチェさんが聞きたいポイントを説明してもらっていいですか? >>そのほうが、いいんじゃないかと思いますので、よろしくお願いします。 > > ありがとうございます。 > はい、私も永井均著 『青色本』を掘り崩す――ウィトゲンシュタインの誤診 (講談社学術文庫)』は持っています。 > では、今回はきわめて恣意的(笑)な質問をさせてもらいます。 > > ・上記のウィトゲンシュタインの言説は永井氏がテーマとしている〈私〉に関する「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」を示唆していると思われますか?
(順番を変えて、下の問いへの答えを先に読んでください)
この部分だけでそこまで言えるかは、ちょっと微妙です。 ただ強いて言えば、本来無意味で余計なものを有意味なものとして語るということは、「比類なき私」「絶対的私」を「ほかならぬ私」「相対的私」に頽落させることであり、これが無限後退の原因であることを示している、とは言えるかな?(笑)
> ・無意味とする根拠は人に伝わないということでしょうか?
いいえ、そうではありません。 永井の言い方を使って言えば、対比項を持たない「私」は論理文法的に無意味だからです。たとえば次の「私の」は無意味で余計です。 私は私の頭痛を感じる
>言葉では一時的に伝わらない対象を指し示すことには成功していると思われますか? >
この問いが、「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」が「一時的に伝わらない対象(〈私〉)を指し示すことに成功しているか」という問いであるのなら、 いいえ、思いません。 しかし、この「私の」が無意味で余計であるということは、痛みにとって「私のもの性」が本質であるということを示しているとは思います(もちろん、「私の世界」についても同様です)。
> > PS.先回りして言えばこのレス交換は私的言語を認めるか認めないかのテーマになるんだろうなぁ〜。ウィトゲンシュタインは否定的であり、永井均氏は肯定的。 >
議論を突き詰めていけば、そうならざるをえないと思いますが、 そうなると『探究』まで踏み込まざるをえませんし、『青色本』もぜんぜん消化できていないので、今のところはちょっとわたし的には無理かもです、すみませんm(__)m
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