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■4517 / inTopicNo.1)  悪魔ちゃんへ
  
□投稿者/ pipit -(2020/07/25(Sat) 08:25:35)
    悪魔ちゃん、おはよう!

    > わたし「物自体」っていうのな〜んか気になるのね。
    > ちょっと、わたしのを書いてみますね<

    うん。


    > 世界の内に私を縁取るとき、外界と内界が発生する。<

    うん。

    > わたしの外にあるものもの。ここでは「物」って訳してあるから、「物体」ってして見ますね。<

    うん。
    世界というものの中に「私」を縁取るとき、
    「私」の外にあるもの、が、物体。
    「私」の内にあるもの、が、◯◯

    > わたしの前にはパソコンがあるけど、その横にワインが入ってるワイングラスがある。ごめんね、わたしがそのワインを飲んでないはずがないから、ちょっと酔ってるかも。ごめんだけど。
    > このワイングラスを「物」ってするね。<

    うん、pipitの前には、スマホの横に、シーサーの絵のマグカップにコーヒー入ってるから、それで考えてみるね。

    > このワイングラスっていう物そのもの、物自体はわたしの中には存在してない。<

    私で言えば、
    シーサーの絵のマグカップそのもの、は、pipitの中には存在してないね。


    >わたしの体の中のどこか、たとえば胃とか心臓とか脳には存在しえないよね(もっともワインはわたしの体の中に入ってきてるけど、でもそれはもうわたしにとってはワインじゃなくじゃない)。<

    ちょっとワイン、とか、コーヒーは横に置こうか。
    少なくとも
    悪魔ちゃんにとってのワイングラスとpipitにとってのマグカップは、
    それぞれの胃などには入ってないよね。



    > このワイングラスっていう物自体はわたしのうちのどこにあるのかしら?って思っちゃうのね。
    >
    > あ、きょうはもうやめる。<

    うん。

    最初に、悪魔ちゃんは
    世界の内に私を縁取ったんだよね。

    その設定で言えば、
    世界の内に、ワイングラスも縁取ったんじゃないの?

    そうは考えないの?
引用返信/返信 削除キー/
■4515 / inTopicNo.2)  minoriさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/07/25(Sat) 08:07:39)
    minoriさん、ありがとう〜(^O^)/

    私でよければ、いつでも一緒に考えさせてください!

    関連本は棚に蓄積されていってますから〜 (T ^ T)
    本当に勉強になります、ありがとうです!
引用返信/返信 削除キー/
■4512 / inTopicNo.3)  パニチェさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/07/25(Sat) 07:57:55)
    おはようございます
    レス嬉しいです、ありがとうございます。

    久々に、『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』中村元先生訳、
    岩波文庫、を全部通して読みました。

    自洲法洲とは、、、言葉がでてこないけど、、なんと力強い教えか、と改めて思いました。
    稀有に思えます。

    絶対的孤独を智慧で知り、
    もし、他者の存在の是非も智慧で知ることができたなら、
    その人の全てに対する優しさは、慈しみ、という言葉が、私の今の頭に浮かびます。

    パニチェさん、ありがとうございます。

    自分にできると思うことをがんばってみます。



    > 以下は確信があっての返信ではなく可能性があるかもしれないというレベルのレスです。^^
    >
    > 死が新たなる目覚めである可能性もゼロではないと考えています。
    > このことは「この世界の全てが夢幻であっても」そこを突き進んで自己を探究すれば、生に伴う苦悩や人間としてあって当然の弱さの克服や軽減になりえる道もある。
    >
    > これは仏教的というか禅的な道だとは思いますが、行きつく先は、釈尊の遺言とも伝えられている「自洲・法洲(自灯明・法灯明)」です。
    >
    > 人は絶対的に孤独であるからこそ他者に優しくなるってのがパニチェ的な慈悲の解釈です。
    > 死ぬ時はどれだけ周りに多くの人に見守られていようが一人孤独に死んでいく。
    > そう考えた時には拠りどころを自・法とした方が楽なんじゃないかな、とも思ったりしてます。
    >
    > 上記はスルーでも結構です。返信はお気遣いなく。^^
引用返信/返信 削除キー/
■4497 / inTopicNo.4)  Re[46]: 物自体
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/07/24(Fri) 19:36:20)
    pipitさま、4437、ありがと。
    「主-体(観)と客-体(観)」についてのわたしの物語りについては後で書かせてもらうとして。

    わたし「物自体」っていうのな〜んか気になるのね。

    ちょっと、わたしのを書いてみますね

    世界の内に私を縁取るとき、外界と内界が発生する。
    わたしの外にあるものもの。ここでは「物」って訳してあるから、「物体」ってして見ますね。

    わたしの前にはパソコンがあるけど、その横にワインが入ってるワイングラスがある。ごめんね、わたしがそのワインを飲んでないはずがないから、ちょっと酔ってるかも。ごめんだけど。

    このワイングラスを「物」ってするね。
    このワイングラスっていう物そのもの、物自体はわたしの中には存在してない。わたしの体の中のどこか、たとえば胃とか心臓とか脳には存在しえないよね(もっともワインはわたしの体の中に入ってきてるけど、でもそれはもうわたしにとってはワインじゃなくじゃない)。

    このワイングラスっていう物自体はわたしのうちのどこにあるのかしら?って思っちゃうのね。

    あ、きょうはもうやめる。






引用返信/返信 削除キー/
■4488 / inTopicNo.5)  Re[45]: 詩
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/07/24(Fri) 14:17:34)
    ■4481
    こんにちは、おくったがわさま
    わたしの詩、良かったと言ってくれて、うれしい。ありがと。

    わたしメルロの文章を真似したいのかも。
    なんか哲学者のって、難しい語を使ったり、かたく書いてるイメージがあったけど、メルロの『知覚の現象学』の文章はそういうイメージがないのね。
    ちょっと抜粋して見ます。

    【私はデカルトのコギトに想いを馳せている。私はこの著作を終えたいと思う。私は手の下の紙の新鮮さを感ずる。私は窓から大通りの並木を見る。私の生はたえず超越的な事物に向って突進し、全くおのれの外部で経過している。コギトとは、三世紀以前にデカルトの精神のなかで形成されたあの思想であるか、それとも彼がわれわれに残したさまざまなテキストの意味であるか、あるいはまた、それらを貫いて現れる永遠の真理であるか、いずれにせよ、私の思惟が捉えようとするとうよりも、むしろ、なじみ深い環境において私の身体がもろもろの事物のさなかにあって、これらの事物をはっきりと表象するまでもなく、おのずと方向をとって進んでゆくのと同じように、私の思惟が向かってゆくところの、一個の文化的存在なのである。書きかけのこの書物はもろもろの観念のある集まりではない。それは私にとって、一つの開かれた状況を構成しており、私はこの状況を言い表す複雑な定式を提供することはできないだろう。それは、もろもろの思想と語とがあたかも奇蹟によるかのようにおのずと組織されるに至るまで、私がそこで盲目的にもがき続けるところの状況なのである。まして私をとりまく感性的存在、私の手の下の紙、眼前の樹木は、私におのれの秘密を手渡すはずがない。私の意識が自己を脱し、それらにおいて、自己を忘れるのである。実在論が世界と諸観念の事実的な超越性とそれ自体における存在とを主張することによって、説明しようとした発端の状況は、以上の通りである。】

    内容はけっこう哲学的なことを言ってると思うんだけど、わたし、なんかこういう表現、好み。もっとも訳し方がお上手なのかもしれないけど。
引用返信/返信 削除キー/
■4481 / inTopicNo.6)  Re[42]: 詩
□投稿者/ おくったがわ -(2020/07/24(Fri) 12:03:31)
    No4361に返信(悪魔ちゃんさんの記事)

    悪魔ちゃん、こんにちは。

    > 現象学についての本をもっているなんて、現象学について知ろうとしている人がいただけでもうれしい。

    昔〜し、はじめて哲学関係の本を買ってみた何冊かの中の1冊がその本で。たぶん理解もできなったし現象学についてはそのままになっていました。が、今かなり興味が湧いてる。

    > 引用の部分の『いわば内面的なものと外面的なものとの同一性が成り立つ場面なのである』のとこなんだけど、
    > わたし「内面てきなもの」を〈精神〉と見て、「外面的なもの」を〈身体〉って見ちゃう。メルロは“結び目”を見ようとしてるとも思ってる。『同一性が成り立つ場』っていうのは「知覚」のことだと思う。精神と身体の結び目を「知覚」ってしてるんじゃないかしら?

    すると、精神と(観察される側として)切り離される身体が一体化する場・結び目を見ようとしている、かな? 全然違ってたらすいません。
    しかし、自分は勝手に納得してしまった。このところ、主観側と身体の関係が自分にとって問題になっているので。
    悪魔ちゃん、さすがだなー。

    > 「ゲシュタルト」の意味をよく表している語として「分節」っていう語があると思う。

    そう考えると「ゲシュタルト」の意味とか価値が分かりやすい気がした。すごいですね。

    > 日本語訳の「論」について
    > 『デカルト的省察』の訳注にこんなことが書いてありました。
    > 〔「自我論」と「独我論」はどちらも日本語では「…論」となってしまうが、前者は「自我についての研究・学問」の意であるのに対し、後者は「我一人のみが存在するという主張・考え方」の意であることに注意。ちょうど、例えば、認識論というのは認識についての研究・学問であるが、経験論というのは認識の根源は経験にあるという主張・考え方である(それゆえ、経験主義とも訳される)のと同様。…〕
    > 「観念論」は〈観念主義〉って見ておいうた方がよさそう。「実在論」っていうのはどうなのかしら?主義?それとも研究・学問の方に入るのかしら?よくわかんない。学者さん?たちって、なんかぬけてる気がする。

    だいたいは「実在する」という主義・主張の方じゃないかな。ただ、これカントの話でしたか? カントの「超越論的〜論」という場合は「〜についての研究・学問」かな…。しかし他者が「カントの〇〇論」という言い方でカントの主張として表現することはあるのかな…。

    > おくったがわさん、詩なのね。わたし詩を書こうなんて思っても見なかった。
    > ちょっとメルロ的?に詩を書いて見ます。
    >
    わたしが見、触れるもの
    このことによってわたしは世界と通じていた
    見ることは触れることおんなじ
    わたしのはじめは言葉のない世界で世界と戯れていた
    いつのまにかわたしは言葉でしか世界と交わらなくなってしまった
    いや、それはもう言葉じゃなくて記号
    <
    > どう?どう?詩としてはどう?
    > 酷評おねがいします。

    良いと思うし好きです。
    評をできる立場じゃないし、もともと詩については良いと思うか思わないか、好きか好きでないか(嫌いと感じることはほぼない)しか言えない、それ以上説明するのは苦手な人間なのです。子供のころ感想文が苦手だった。
    それで、上の悪魔ちゃんの詩は、良いと思うし好きです。詩心を感じます。書こうと思ったこともないって、パッとこれを書けるのはすごい。
    そういえば、もともと悪魔ちゃんの文章には詩心があると思う。神秘性。
引用返信/返信 削除キー/
■4474 / inTopicNo.7)  Re[43]: pipitさんへ
□投稿者/ minori -(2020/07/24(Fri) 10:36:34)
    pipitさん、おはようございます。
    湿度のある暑さ、これ、私は一番の苦手です。。。
    pipitさんのところは今日は涼しいとのことで、よかったですね。^^

    >>思惟する私という意識のもとに次々にやってくる現象、言い換えれば継起しているそれを、思惟する私という意識(根源的統覚)がつながりをもたせて帰属させて、ストーリーを作る。ということかな。<
    >
    > 第二版で、カントは記述の修正や追加・削除を行ったのですが、
    > 大枠は変わってない、と評価する方と、
    > めちゃくちゃ変わった、と評価する方と、いろいろみたいです。
    > しかも、初版推しの人もいるし、
    > 第二版推しの人もいます。
    > 竹田先生のは第二版の意訳をされてるのだと思います。
    > この統覚にしても、いろいろあるみたいで、すみません、これから書くことはpipitの推測と私見になります。

    はい。

    > ストーリーもそうなのですが、対象を作るのでさえ、私たちは情報を総合してますよね。
    > 知覚から対象を作るにしても、見る、触る、など一瞬一瞬で得られる情報を総合して、一つの対象を作る。

    言われてみればそうですね。

    > 私の感触で、間違えてるかもしれませんが、初版では、この一つの対象を作るのは構想力で、統覚よりも構想力が先行する、すべての認識の源が構想力としてるのかな?と想像してるのですが、
    > 書き換えられた第二版では、統覚からすべての認識のコントロール(?)が出てるのかな?
    > と思ってますが、
    > 思ってるレベルなので、全然違うかもですm(_ _)m


    感性と悟性を架橋する構想力の働きがあり、一つの認識としてまとめられていく、というのが私もイメージできます。
    一方というか、竹田先生の本は第二版にあたるとのことですね。
    たしかに、構想力という文字はそのあたりには出てないんです。

     いっしょに考えていただいてありがとうございました。
    お手数をおかけしました。


    > ということで、私の力不足のため、minoriさんの考え方でいいように思うのですが、私にはキチンと判断することができません。
    > わからなくてすみません〜( ; ; )
    > でもこうして、会話してもらうことは、とても勉強になっています。
    > 自分はわかってないことがわかります(o^^o)


    いえいえ、とんでもないです。カント哲学わからなすぎの私ですので、それに対しての自分の考えなんていうものはないんです。
    カントがどう伝えようとしていたのかを知ることもなかなかままならないでいます。
    pipitさんは、言葉の表現が的確かつ細やかなので、テキストだけでは理解できなかったところも理解できました。


    > 私見ですが、カントは自分の認識を観察しても書いてるのかなと思って、だから認識の過程の一部分については、結局は私たちにもわかる当たり前のことを書いてるのかな、と思うこともあります。

    やはりそう思いますか。私もそんなふうに思ってました。

    > 中島義道先生の本『カントの読み方』ちくま新書、p16より引用します。
    > 『(略)カントは、当たり前のことをきわめて正確に精緻に語っているだけ。(略)』
    >
    > その観察した認識システムを、どういうふうに使用していくか、の、モデルを示す部分が、ちょっと当たり前ではないのかもですけどね。
    > よくあんなに考えて、いやにならないな、と思ってます(・・;)


    悟性のカテゴリー表(でいいのかな)とか、私は飛ばし気味に読みました。
    なんとなく言いたいことはわかるし、それでいいかなカント先生。。みたいに。


    > 現在、心に一番に浮かぶのは、ロールズです。
    >
    > wikiより抜粋引用します。
    > 『ジョン・ボードリー・ロールズ(John Bordley Rawls、1921年2月21日 - 2002年11月24日)は、アメリカ合衆国の哲学者。主に倫理学、政治哲学の分野で功績を残し、リベラリズムと社会契約の再興に大きな影響を与えた。』


    名前で検索してちょっとだけ見てみました。
    格差、差別の問題が世界にはありますし、そうした問題を考える時のヒントを与えてくれる哲学があるというのは、胸が熱くなる思いがします。

    VRのようでもある、というのは言える世界。
    そのような観方もできる、というところから物質だけが人間を満たすものではないということに繋げ、それが良い方向で意識改革がみたいになって、誰もが暮らしやすい社会が形成されたらいいなと。
    私はそっち方向から考えたりしてます。
    実は目指したいものは似ているかもしれません。
引用返信/返信 削除キー/
■4473 / inTopicNo.8)  Re[44]: 自己レス
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/24(Fri) 10:23:12)
    2020/07/24(Fri) 10:34:10 編集(投稿者)

    自己レスへの横レスをお許し下さい。

    No4472に返信(pipitさんの記事)
    >>昔から、すべては幻想のこともあり得る、と心の片隅で思ってた私が、
    >>カントに強く惹かれたのは、
    >>超越論的観念論を唱えながらも
    >>しっかりと経験的実在論を主張し、
    >>理論理性よりも実践理性の優先を説いていたところも
    >>一要因だったのかもな、と、自分では思っています。<

    > ここは、個人的な心の動きに関しては、私の心の弱さのあらわれでもある。
    > われひとりで引き受けるだけの強さが、覚悟が、ないともいえる
    > わたしのなかにある
    > 依存心の強さ、を、意識させられる箇所でも、ある。

    以下は確信があっての返信ではなく可能性があるかもしれないというレベルのレスです。^^

    死が新たなる目覚めである可能性もゼロではないと考えています。
    このことは「この世界の全てが夢幻であっても」そこを突き進んで自己を探究すれば、生に伴う苦悩や人間としてあって当然の弱さの克服や軽減になりえる道もある。

    これは仏教的というか禅的な道だとは思いますが、行きつく先は、釈尊の遺言とも伝えられている「自洲・法洲(自灯明・法灯明)」です。

    人は絶対的に孤独であるからこそ他者に優しくなるってのがパニチェ的な慈悲の解釈です。
    死ぬ時はどれだけ周りに多くの人に見守られていようが一人孤独に死んでいく。
    そう考えた時には拠りどころを自・法とした方が楽なんじゃないかな、とも思ったりしてます。

    上記はスルーでも結構です。返信はお気遣いなく。^^
引用返信/返信 削除キー/
■4472 / inTopicNo.9)  自己レス
□投稿者/ pipit -(2020/07/24(Fri) 09:25:32)
    > 昔から、すべては幻想のこともあり得る、と心の片隅で思ってた私が、
    > カントに強く惹かれたのは、
    > 超越論的観念論を唱えながらも
    > しっかりと経験的実在論を主張し、
    > 理論理性よりも実践理性の優先を説いていたところも
    > 一要因だったのかもな、と、自分では思っています。<

    ここは、個人的な心の動きに関しては、私の心の弱さのあらわれでもある。

    われひとりで引き受けるだけの強さが、覚悟が、ないともいえる

    わたしのなかにある

    依存心の強さ、を、意識させられる箇所でも、ある。


引用返信/返信 削除キー/
■4470 / inTopicNo.10)  Re[45]: 物自体の存在への確信
□投稿者/ pipit -(2020/07/24(Fri) 09:10:12)
    knowing itself さん、おはようございます(^∇^)

    >現象は、物自体から根拠を与えられるのだと思います。物自体がリアリティを与えるので、現象はたんなる主観的な妄想・ファンタジーでないことが保証される。<

    私もそう思ってます。
    カントの思想内では、物自体の存在が、私たちが主観的でありながらも、経験の一部分の要素を共有できる現象(客観に妥当する認識)の根拠になっていると、私は考えています。


    >現象をとおして、かろうじて物自体のリアリティを間接的に触知できるような。<

    私もそう思ってます。



    >現象のリアリティを容認することは、現象に根拠を与える物自体のより強力なリアリティを容認することなのだと思います。<

    まだ不勉強なのですが、カントは自分の立場を、

    超越論的観念論者は矛盾することなく経験的実在論者たりうる、と言ってるそうです。

    飯野由美子さんという方の論文『「観念論論駁」におけるカントの論証』がネットにあるので、冒頭部分を引用させていただいて、論文のPDFをダウンロードできるアドレスを貼ります。

    飯野由美子さんの論文より引用
    『実在をめぐる問題についてのカントの解答は、いわゆる実在論・観念論のどちらの主張にも組せず、むしろ両者とも同じ誤り、現象を物自体と取り違えるという誤りから発していることを示すというものである。
    カントによれば、一見対立しているかのように見える両者は、実は超越論的実在論と経験的観念論として容易に手を結び合う。
    これに対してカントの立場は「超越論的観念論」であり、超越論的観念論者は矛盾することなく経験的実在論者たりうると言う(Vgl.A369-373)
    (略)』
    引用終了


    https://www.jstage.jst.go.jp/article/kisoron1954/21/2/21_2_71/_article/-char/ja/



    昔から、すべては幻想のこともあり得る、と心の片隅で思ってた私が、
    カントに強く惹かれたのは、
    超越論的観念論を唱えながらも
    しっかりと経験的実在論を主張し、
    理論理性よりも実践理性の優先を説いていたところも
    一要因だったのかもな、と、自分では思っています。

    knowing itself さん、様々な観点からの提示を、本当にありがとうございます!
引用返信/返信 削除キー/
■4466 / inTopicNo.11)  minoriさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/07/24(Fri) 08:18:23)
    minoriさん、おはようございます!
    今日も涼しいのでありがたいですけど、やっぱり天候が昔よりなんか変になってきてるように感じます。
    生きてる世界は盤石なものではなかったんだな、と、軟弱な私としては、あぁいやだなー、と思うときもあります。


    > 思惟する私という意識のもとに次々にやってくる現象、言い換えれば継起しているそれを、思惟する私という意識(根源的統覚)がつながりをもたせて帰属させて、ストーリーを作る。ということかな。<

    第二版で、カントは記述の修正や追加・削除を行ったのですが、
    大枠は変わってない、と評価する方と、
    めちゃくちゃ変わった、と評価する方と、いろいろみたいです。
    しかも、初版推しの人もいるし、
    第二版推しの人もいます。
    竹田先生のは第二版の意訳をされてるのだと思います。
    この統覚にしても、いろいろあるみたいで、すみません、これから書くことはpipitの推測と私見になります。

    ストーリーもそうなのですが、対象を作るのでさえ、私たちは情報を総合してますよね。
    知覚から対象を作るにしても、見る、触る、など一瞬一瞬で得られる情報を総合して、一つの対象を作る。

    私の感触で、間違えてるかもしれませんが、初版では、この一つの対象を作るのは構想力で、統覚よりも構想力が先行する、すべての認識の源が構想力としてるのかな?と想像してるのですが、
    書き換えられた第二版では、統覚からすべての認識のコントロール(?)が出てるのかな?
    と思ってますが、
    思ってるレベルなので、全然違うかもですm(_ _)m

    ということで、私の力不足のため、minoriさんの考え方でいいように思うのですが、私にはキチンと判断することができません。
    わからなくてすみません〜( ; ; )
    でもこうして、会話してもらうことは、とても勉強になっています。
    自分はわかってないことがわかります(o^^o)


    > カントがすごいな、と思うところは。
    > 認識の仕組みについて、現代人がおおよそのところで納得できるものを300年ぐらい前でしたっけ?に、もう知っていたということ。
    > カントとは違う感覚での認識を行う現代人というのも、もしかしたらいるのかもしれないけど。<

    私見ですが、カントは自分の認識を観察しても書いてるのかなと思って、だから認識の過程の一部分については、結局は私たちにもわかる当たり前のことを書いてるのかな、と思うこともあります。

    中島義道先生の本『カントの読み方』ちくま新書、p16より引用します。
    『(略)カントは、当たり前のことをきわめて正確に精緻に語っているだけ。(略)』

    その観察した認識システムを、どういうふうに使用していくか、の、モデルを示す部分が、ちょっと当たり前ではないのかもですけどね。
    よくあんなに考えて、いやにならないな、と思ってます(・・;)



    > カントの次に、pipitさんが勉強してみたい西洋哲学者って誰かいますか?
    > いたら教えてください。<

    現在、心に一番に浮かぶのは、ロールズです。

    wikiより抜粋引用します。
    『ジョン・ボードリー・ロールズ(John Bordley Rawls、1921年2月21日 - 2002年11月24日)は、アメリカ合衆国の哲学者。主に倫理学、政治哲学の分野で功績を残し、リベラリズムと社会契約の再興に大きな影響を与えた。』

    minoriさん、書き込みありがとうございます(^O^)/
引用返信/返信 削除キー/
■4463 / inTopicNo.12)  Re[44]: 実践理性批判
□投稿者/ knowing itself -(2020/07/24(Fri) 05:53:53)
    おはようございます pipitさん

    >>石川文康さんの同書、p137の図5も理解の参考になると感じています。いい図ですね。<
    >
    > 該当箇所を読んで、図を見ました。
    > ダンマパダ 160が頭に浮かびますね〜
    >
    > 『己を以て主とす 、他に何ぞ主あらんや 、己を善く調めぬれば能く得難き主を得 。』
    > 荻原雲來さん訳、青空文庫より引用
    >
    > とてもいい絵ですね!
    > 別箇所の自律の原理での記述ですが、この絵と直接つながるような文章をみつけたので、引用します。
    >
    > 石川文康先生著、『カント入門』ちくま新書、p173、174より引用
    > 『(略)、自律とは自由の別名とされ、人間が一方では英知界に属する存在者として、自由の主体と見なされ、もう一方では感性的存在者と見なされ、両方の性格が相和するところに総合が成り立つのである。

    p137の図とこの記述から思ったのですが、禅の「修証一如」の本質・意味がカントによって鮮やかに照らし出されるようです。道元は日本の大乗仏教では珍しく(失礼!)道徳倫理に異常なまでに潔癖な人でしたが、カントと繋がるかもしれません。

    この投稿、もちろんスルーされて結構です。pipitさんみなさん、朝から思いつきをすみません。


引用返信/返信 削除キー/

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