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■4411 / inTopicNo.25)  Re[42]: pipitさまへ
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/07/23(Thu) 08:35:31)
    おはようございます。

    ■4401、 pipitさま、ありがと。

    今日から4連休。でも、コロナあるし、家で。

    いま[sunject]と[object]について調べてるところなんだけど。

    またここでわたしの物語、いい?ダメだったら言って。
引用返信/返信 削除キー/
■4410 / inTopicNo.26)  Re[42]: pipitさんへ
□投稿者/ おくったがわ -(2020/07/23(Thu) 08:32:25)
    >4027(純粋理性批判を読んでみる。7)

    おはようございます。遅ーいレスすみません。

    > それで、カントの場合は、
    > 時間空間の純粋直観は、形而上学にとってのアプリオリな総合判断のためには、絶対的に必要な要素ではあるけど、準備段階みたいな面もある感じに、今の時点での私は捉えています。
    > 純粋直観に純粋悟性概念を適用させる段階でも、アプリオリな総合判断は生まれる、とカントはしてるのかなと今の時点では捉えています。
    >
    > 数学のアプリオリな総合判断の根拠は、純粋直観だけでいいように思うのですけど、

    自分の見てたのは足し算の説明と純粋幾何学(?)のところだったから純粋直観だけだったんですね。

    > それに加えて、純粋自然科学の場でのアプリオリな総合判断や、
    > 形而上学のアプリオリな総合判断を可能にする人間の能力は、純粋直観と純粋悟性概念、そしてこれらを統一さしめる純粋統覚にある、みたいな感じかなー、と、思ってるけど、全然違ったらすみませんm(_ _)m

    ありがとうございます。純粋悟性概念は判断表のとこですね。それによって客観的な判断にすると。形而上学のアプリオリな総合判断を可能にする能力として重要そうですね。こちらこそ全然違ったらすみません。

    > 御子柴善之先生の『カント哲学の核心』めちゃめちゃいいですよね!
    > 私も御子柴先生の記述は個人的にすごく信頼しています。

    やっぱりそうですか! 自分もそう思ってました。

    これへのレスはお気遣いなく。
引用返信/返信 削除キー/
■4409 / inTopicNo.27)  pipitさんへ
□投稿者/ minori -(2020/07/23(Thu) 08:00:15)
    pipitさん、レスありがとうございます。

    > 自分の気持ちで読んでますので安心してくださいね

    それならよかったです。^^


    >>私のこの身体の例えば動きというのは、今、見えている知っているけれど、それは物自体から触発されての現象なのだ、ということ。
    >>(つまり、今、見えている知っている私の身体の動き、というのは物自体ではない。)
    >>触発されての私の身体の動きを知るには、先験的統覚である「思惟する私」という純粋な意識が必要である。<
    >
    > 私はカント哲学をきちんと把握できてなくて、あってるか否かわからないのですが、自分自身の中で整理するためにも、今思うことを書いてみますね。
    >
    > 第二版においては、
    > 感じたもの、を、思考して、ある対象として認識する、という構図を思想として採用してると思ってるんです。
    >
    > 最初に、感じたもの、があって、
    > これは五感によって得られた知覚ですよね。
    >
    > minoriさんもpipitも、「私」という認識対象を作るのは、やっぱり知覚からですよね?
    > 知覚、から、「私」という対象が作られてる。

    そうですね。知覚なしには「私」という対象は作られないです。

    > この知覚を、カントはもう物自体とイコールにはしないみたいです。
    > 知覚は主観的なものと捉えてる。

    はい。

    > だからminoriさんの言うように
    >>(つまり、今、見えている知っている私の身体の動き、というのは物自体ではない。)<
    > となる。
    >
    > それで
    >>触発されての私の身体の動きを知るには、先験的統覚である「思惟する私」という純粋な意識が必要である。<
    >
    > ここが微妙なとこなんですけど、
    > 意識が動きを知るというよりは、
    > 純粋意識が、次々に生じる個別の意識を、一つの対象としてまとめあげてるイメージじゃないかなぁと、間違ってるかもだけど、今のところ考えています。

    純粋意識に次々やってる現象を悟性を使って一つの対象としてまとめあげている、ということかな。


    > 私たちに瞬間に一つの知るが意識に現れてるとして、
    > それが継起してるわけじゃないですか。
    > その一つ一つの「知る」を、(思惟する私)という意識のもとに全部つながりをもたせて帰属させて、ある意味でのストーリーを作る。
    > そんなイメージを私は、根源的統覚に持っています。
    >
    > が、ややこしいとこなので、外してたらすみません。

    思惟する私という意識のもとに次々にやってくる現象、言い換えれば継起しているそれを、思惟する私という意識(根源的統覚)がつながりをもたせて帰属させて、ストーリーを作る。ということかな。


    カントがすごいな、と思うところは。
    認識の仕組みについて、現代人がおおよそのところで納得できるものを300年ぐらい前でしたっけ?に、もう知っていたということ。
    カントとは違う感覚での認識を行う現代人というのも、もしかしたらいるのかもしれないけど。


    > 私は、よく、やさしいみなさまから、盲目的カント信徒みたいになりがちなことを、やさしく諭されます (^_^;)
    > 感謝ですね。


    カントの次に、pipitさんが勉強してみたい西洋哲学者って誰かいますか?
    いたら教えてください。

引用返信/返信 削除キー/
■4402 / inTopicNo.28)  Re[43]: 実践理性批判
□投稿者/ pipit -(2020/07/22(Wed) 21:50:37)
    knowing itselfさん、こんばんは!

    > 少しだけ付け加えますが、「かたち」と「なかみ」に関しては次のように考えます。感性と悟性についての「なかみ」は現象ですが、物自体の世界にあるということは、それは現象ではありえないということです。現象をつかんだら、その時点で物自体ではない。善意志は純粋な「かたち」だけであって、現象界に帰属する「なかみ」とは無関係だとは、そういう意味で捉えていました。善意志だけが唯一の到達可能な物自体ですね。
    >
    >
    > 石川文康さんの同書、p137の図5も理解の参考になると感じています。いい図ですね。<

    実は、私、まだよくわからない分野だな、と、さーっと読んだだけで、
    図も、わからないな、と、スルーしてたんです。

    わからないな、というか、怠けゆえに、わかろうとする気もちを生じさせてなかったんですね。

    今はきちんと理解したいと思うので、明日以降(怠け!)
    理解しようと努めて、図を含めた該当箇所を読んでみます

    新しい分野をありがとうございます!
引用返信/返信 削除キー/
■4401 / inTopicNo.29)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2020/07/22(Wed) 21:43:57)
    おつかれさま!
    全然使って〜
    私自身何処かで見てるかもしれないし、
    多分、使ってる人いっぱいいるかもやけど、
    とりあえずは、悪魔ちゃんとの対話で私が思った気持ちの表言だよ!
    まったくpipitに関係なく好きに使って、わたしもそう表言したい気持ちになったらまた使うかも!


    No4388に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ■4371
    > >主語の無い世界なのかな<
    > この表言、いいかも。
    >
    > pipitさま、
    > 「主-語のない世界」として、使わせてもらっていいですか?
引用返信/返信 削除キー/
■4398 / inTopicNo.30)  Re[42]: 区別と関係
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/07/22(Wed) 20:12:39)
    きりのいいところまで書いとく。

    「私がパソコンのワードに文章を打ち込む」ときの
    「私」について考えたものを。

    キーボードのポッチを押す。画面に表れた文字を見る。この「する(こと)」をしているのは、私の指、目。もっとも指や目だけじゃないけど。
    これって、私の身体よね?
    このばあいの「させるもの」は、私の意志(意識とか精神)になるのかな?
    精神から見たら身体は「されるもの」ってなるよね?

    メルロはこんなこと言っている
    【〈身体の媒介〉というものは、たいていのばあい、私によって見逃されているものである】って。

    いずれにせよ、「私」においても「するもの」と「されるもの」が同居してるんじゃないかしら?

    ひとまずわたしの物語りは終わりにするね。








引用返信/返信 削除キー/
■4396 / inTopicNo.31)  物自体の存在への確信
□投稿者/ knowing itself -(2020/07/22(Wed) 20:08:24)
    こんばんは。

    カント哲学は物自体の存在を当然のごとく前提にしていると思います。あるかないかわからないが信じようとか、わけがわからないけど道徳だけ一生懸命やって物自体に縋りつこうとか、厳しい道徳に励んでもこの世では幸福になれないけど、不安だから来世の存在は要請しておこうとか、ではまったくない。すべて哲学的に考え抜いている感じ。

    物自体の触発に対して時間と空間の形式を通してつかむのが現象だという時点で、時間と空間の外に出れば、そこには物自体が存在してきることを匂わせています。人間の本来の場所がそこであることにカントは確信をもっていたと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■4389 / inTopicNo.32)  Re[42]: 実践理性批判
□投稿者/ knowing itself -(2020/07/22(Wed) 19:22:08)
    こんばんは pipitさん レスありがとうございます。

    投稿していただいた内容にはだいたい同意します。

    少しだけ付け加えますが、「かたち」と「なかみ」に関しては次のように考えます。感性と悟性についての「なかみ」は現象ですが、物自体の世界にあるということは、それは現象ではありえないということです。現象をつかんだら、その時点で物自体ではない。善意志は純粋な「かたち」だけであって、現象界に帰属する「なかみ」とは無関係だとは、そういう意味で捉えていました。善意志だけが唯一の到達可能な物自体ですね。


    石川文康さんの同書、p137の図5も理解の参考になると感じています。いい図ですね。
引用返信/返信 削除キー/
■4388 / inTopicNo.33)  Re[41]: pipitさまへ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/07/22(Wed) 18:41:05)
    ■4371
    >主語の無い世界なのかな<
    この表言、いいかも。

    pipitさま、
    「主-語のない世界」として、使わせてもらっていいですか?
引用返信/返信 削除キー/
■4387 / inTopicNo.34)  minoriさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/07/22(Wed) 16:41:57)
    minoriさん、こんにちは!

    > お手数おかけしてすみませんでした。
    > はやくないですよ〜。だって今、その本しか基本、読んでないですもの。
    > pipitさん、違うとは思うけど、もし私のために竹田先生の本を継続して読もうとされてるというのが少しでもあるとしたら申し訳なさすぎるので、それはなさらないでくださいね。
    > 中島先生の本と基本的には被るでしょうし、他にも読みたいものがたくさんあると思いますし、なによりお忙しいのですから<

    いつもやさしい気遣いをありがとうございます(*^^*)
    自分の気持ちで読んでますので安心してくださいね
    全体を通しての理解をしておくというのは、とても有益なことと思ってるのですが、堪え性がなくて途中で置いてしまってて、minoriさんをきっかけにまたチャレンジしようとしてるとこです。
    (もちろんminoriさんもお好きにされてくださいね)


    > 私のこの身体の例えば動きというのは、今、見えている知っているけれど、それは物自体から触発されての現象なのだ、ということ。
    > (つまり、今、見えている知っている私の身体の動き、というのは物自体ではない。)
    > 触発されての私の身体の動きを知るには、先験的統覚である「思惟する私」という純粋な意識が必要である。<

    私はカント哲学をきちんと把握できてなくて、あってるか否かわからないのですが、自分自身の中で整理するためにも、今思うことを書いてみますね。

    第二版においては、
    感じたもの、を、思考して、ある対象として認識する、という構図を思想として採用してると思ってるんです。

    最初に、感じたもの、があって、
    これは五感によって得られた知覚ですよね。

    minoriさんもpipitも、「私」という認識対象を作るのは、やっぱり知覚からですよね?
    知覚、から、「私」という対象が作られてる。

    この知覚を、カントはもう物自体とイコールにはしないみたいです。
    知覚は主観的なものと捉えてる。

    だからminoriさんの言うように
    > (つまり、今、見えている知っている私の身体の動き、というのは物自体ではない。)<
    となる。

    それで
    > 触発されての私の身体の動きを知るには、先験的統覚である「思惟する私」という純粋な意識が必要である。<

    ここが微妙なとこなんですけど、
    意識が動きを知るというよりは、
    純粋意識が、次々に生じる個別の意識を、一つの対象としてまとめあげてるイメージじゃないかなぁと、間違ってるかもだけど、今のところ考えています。

    私たちに瞬間に一つの知るが意識に現れてるとして、
    それが継起してるわけじゃないですか。
    その一つ一つの「知る」を、(思惟する私)という意識のもとに全部つながりをもたせて帰属させて、ある意味でのストーリーを作る。
    そんなイメージを私は、根源的統覚に持っています。

    が、ややこしいとこなので、外してたらすみません。

    >>ちなみにプチ情報なんですけど、
    >>仏教って解釈が割れたりする箇所も目にする気がしますよね。
    >>それと同様に、カント哲学の解釈もいまだにいろんな箇所で割れてるみたいです。
    >>
    >>
    >>なんにしろややこしいですよね〜
    >
    >
    > そうなんですか、カント哲学も。 まさに物自体になっちゃってるわけですね。
    > なんかおもしろいです。( ´艸`)<

    あは、面白い表現ですね!
    まあ、ボロボロにたたかれたり、カント教みたいになってたり、と、議論が分かれる以外にも様々な様子みたいです。

    私は、よく、やさしいみなさまから、盲目的カント信徒みたいになりがちなことを、やさしく諭されます (^_^;)
    感謝ですね。

    おつかれさまです (^O^)/
引用返信/返信 削除キー/
■4380 / inTopicNo.35)  pipitさんへ
□投稿者/ minori -(2020/07/22(Wed) 11:25:45)
    pipitさん、レスありがとうございました。


    > あ、はやいなぁ
    > 私もminoriさんと一緒の本読もうと、ひっぱりだして、、、
    > まだ全然読めてないです(^_^;)
    > 今、手に持ってp109みてます。
    > 竹田先生の章末解説ですね。


    お手数おかけしてすみませんでした。
    はやくないですよ〜。だって今、その本しか基本、読んでないですもの。
    pipitさん、違うとは思うけど、もし私のために竹田先生の本を継続して読もうとされてるというのが少しでもあるとしたら申し訳なさすぎるので、それはなさらないでくださいね。
    中島先生の本と基本的には被るでしょうし、他にも読みたいものがたくさんあると思いますし、なによりお忙しいのですから。


    >>それで。p78には、「あるがままの私」(=物自体としての私)という記述があるんです。
    >> これってどういうものを意味しているんでしょう?
    > >この本もpipitさん、持ってらっしゃるとのことなので、よかったらいつでもいいので教えていただけたらありがたいです。


    > minoriさんは、物自体に触発されて人間は現象を得る、という構図は理解されてると思いますが、


    あ〜、そこですね。感性だ悟性だ、というところに目が行って今度はそちらが抜けてしまってました。
    >
    > 1・・・思惟する私、という意識
    > 2・・・1の意識により、客体としての私が思われる
    > 3・・・物自体の触発により人間に1→2が現れる、その物自体のこと
    >
    > で、ここでは、3のことを「あるがままの私」と表現してるのかな、と、思いました。


    なるほど。物、事象などだけでなく、自分(私)ももちろん、「物自体の触発により表れてくるもの」とカントは言うわけですね。
    ここの観点が私(minori)は抜けてました。
    なのでわからなかったのだと気づきました。

    > p78には、
    > 2は、現象として認識されるものとありますね。
    > 認識対象としての「私」ですね。
    >
    > そして1は、
    > 客体としての「私」(現象としての私)でもなく、
    > 「あるがままの私」(物自体としての私)であるともいえない、
    > とありますね。
    >
    > このような表現をカントもしてるのか、それとも、竹田先生の表現なのか私にはわかりませんが、竹田先生による文を、引用しますね。
    > (一応、カント原文まとめや意訳文なのかな?)
    >
    > 『超解読!はじめてのカント『純粋理性批判』竹田青嗣先生、講談社現代新書、p78.79より引用
    > 引用開始
    > 『こうして、われわれは三種類の「私」をよく区別しておく必要がある。
    > 一つは、「客体(現象)としての私」。
    > 一つは「思惟する私」という純粋な意識、
    > そして最後に、「物自体としての私」である。
    > われわれは、「客体(現象)としての私」は内感によって直観できるが、
    > 「思惟する私」はただ直接な意識としてある。
    > そして、「物自体としての私」は決して認識できないのである。』
    > 引用終了
    >
    > ややこしいですよね。
    > 私たちが認識するものは現象で、物自体は認識できない。
    > そのように、
    > 私たちが認識する「私」は現象で、物自体としての「あるがままの私」は認識できない。

    ・・・・
    > 物自体のあるがままの私に触発されて、現象の私を得ているが、現象の私を得るためには、先験的統覚である「思惟する私」という純粋な意識が必要である、
    > ということかな、と、考えています。
    ・・・・
    なるほど。↑ 理解できたと思います。

    私のこの身体の例えば動きというのは、今、見えている知っているけれど、それは物自体から触発されての現象なのだ、ということ。
    (つまり、今、見えている知っている私の身体の動き、というのは物自体ではない。)
    触発されての私の身体の動きを知るには、先験的統覚である「思惟する私」という純粋な意識が必要である。

     こんな理解で合ってますか? 違う時は遠慮せずに言ってくださいね。



    > ちなみにプチ情報なんですけど、
    > 仏教って解釈が割れたりする箇所も目にする気がしますよね。
    > それと同様に、カント哲学の解釈もいまだにいろんな箇所で割れてるみたいです。
    >
    >
    > なんにしろややこしいですよね〜


    そうなんですか、カント哲学も。 まさに物自体になっちゃってるわけですね。
    なんかおもしろいです。( ´艸`)
引用返信/返信 削除キー/
■4379 / inTopicNo.36)  Re[41]: 実践理性批判
□投稿者/ pipit -(2020/07/22(Wed) 10:58:45)
    knowing itselfさん、こちらは今日は暑いです、こんにちは!

    > 理性認識の場合、中身は「現象」ですね。それは具体的な内容であって人間はそれに対して受動的である他ない。内容は条件を形成する。<

    否応なしに現れる。
    そこに自由はない。
    ここに来てくれてる悪魔ちゃんは、オートマティック性という秀逸な表現で、認識の形式を表してくれました。


    > 道徳律の場合、中身としての内容はない、というか仮に内容があってもそれに一切条件づけられない、そういう形式として屹立していると理解しています。<

    認識の形式はオートマティック性を強いるものであるのに反して、
    道徳律という形式は、オートマティック性で内容を規定するのではない。
    形式による内容を表すのは、自らの自由意志であり、
    形式がオートマティック性を持つのではなく、形式に当てはめさせることが道徳だと、
    そのような感想を持ちました。


    > 善意志については、石川文康「カント入門」のp140ー141にこの辺りのことに触れていました。<

    ありがとうございます。該当ページを読みました。
    なんか感動します。

    石川文康先生著、『カント入門』ちくま新書、p163〜167から抜粋引用します。

    『(略)そのためにカントは道徳法則を唯一の表現に定式化する(「唯一」と言いながら、合計四つの方式にまとめあげるのだが、残りの三つは根本方式のヴァリアントと言ってよい)。すなわち、

    「汝の意志の根本指針がつねに同時に普遍的立法の原理となるように行為せよ」
    (定言命法の根本方式)。
    (略)

    「汝の行為の根本指針が、汝の意志によって、あたかも普遍的自然法則となるかのように行為せよ」
    (定言命法の第一方式)。
    (略)

    「汝自身の人格にある人間性、およびあらゆる他者の人格にある人間性を、つねに同時に目的として使用し、けっして単に手段として使用しないように行為せよ」
    (定言命法の第二方式)。
    (略)

    「意志が・・・・・・自己自身を同時に普遍的に立法的と見なしうるような、そのような根本指針にのみしたがって行為せよ」
    (定言命法の第三方式)。
    これは通常「自律の方式」と呼ばれており、カント倫理学のいわば回転軸である「自由」の概念につながる重要なものである。
    (略)』
    引用終了


    前にknowing itselfさんがコメントくださった

    >>感性の「かたち」が空間と時間で、「なかみ」が感覚入力素材
    >>認識の「かたち」がカテゴリーで、「なかみ」が感性体験
    >>以上に対して、道徳律がもつ特殊性は、そこには純粋な「かたち」だけがあるということでしょうか?「なかみ」に一切条件づけられずに、無条件の純粋な意志として「かたち」だけが現前している。<<

    純粋な善意志としてのかたちだけが現前している。。。
    形式だけがそこにある。。。

    はじめに読んだ時には、knowing itselfさんのおっしゃりたいことがわからなかったのが、今は、おぼろげながらでも、こういう感じのことかな?と思えてきました。


    >>蜜柑を喩えにして説明してみます。
    >>
    >>
    >>感性と悟性で、たとえば蜜柑にかかわるとき、現象としてある蜜柑に条件づけられる。「かたち」=アプリオリな形式としての時間と空間、悟性のカテゴリー、「なかみ」=蜜柑。
    >>
    >>「いかなる状況にあろうと蜜柑を食べなさい」という格率=「かたち」に従おうとする場合、蜜柑=「なかみ」をめぐる状況に一切条件づけられず、健康を害しようが経済的に困窮しようが、必ずそのとおり行為する。
    >
    > もちろん、道徳法則は普通、蜜柑を問題にすることはないです。上記はあくまで説明の便宜。
    > まじめに現実的に道徳法則に向かいあうなら、例えば、「生きとし生けるものを傷つけてはいけない」。<<

    初期仏教の考え方などを完璧に実行しようとすると、どうしても彼岸という考え方が頭に浮かびますよね。(私が至らないから浮かぶ思考かもしれませんが。)
    弱肉強食の残酷な世界で戒を遵守するには、解決は、もう生まれてこないことだ、と。
    そのように、カントの考える道徳を完成させるには、あまりに厳格なため、その思想の中に、彼岸的なものを要求せざるを得ないのかもしれないな、との、感想を持ちました。

    理解の幅が広がった気持ちになります。
    本当にいつもありがとうございます!!
引用返信/返信 削除キー/

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