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■4371 / inTopicNo.37)  言語化
  
□投稿者/ pipit -(2020/07/22(Wed) 00:10:29)
    するもの、されるもの

    の分節さえなくしたとき、

    それはなんだろね。

    主語の無い世界なのかな。


    (・・?)

    おやすみなさい ☆彡
引用返信/返信 削除キー/
■4370 / inTopicNo.38)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2020/07/21(Tue) 23:48:45)
    こんばんは

    pipitがスマホに文字を打つ。

    ここで悪魔ちゃんの言葉をpipitが解釈したものをコピペするね。


    1「するもの」→主語になるもの
    2「されるもの」→他動詞の目的語
    3「する(こと)」→動詞
    4「したもの」→1〜3によって生じたもの
    5「されたもの」→1〜3によって生じたもの
    6「させるもの」→原因
    7「ならしめるもの」→6により1〜3が生じ、1〜3により4.5が生じる。
    〈6〜1〜3〜4.5〉を各個別の要素としてパッケージしたものが7

    pipitがスマホに文字を打つ、時、
    pipitとスマホの関係は、

    pipitを主語にすれば、
    pipitが1、スマホが2。

    スマホを主語にすれば
    スマホが1、pipitが2。

    pipitを主語にすれば、スマホは6原因ともなる。

    ということ?

    何処からの視点で文章化するか、
    悪魔ちゃんの視点は、切り替え可能で視るのかな?








    No4362に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ■4319のつづき
    > 「私がパソコンのワードに文章を打ち込む」で、もうちょっと考えて見ます。
    >
    > 私が、たとえばパソコンのワードに、「私」って打ちこもうとします。
    >
    > 私は、キーボードのアルファベットのポッチを[w・a・t・a・s・i]の順で指先で押す。でもこれだけだと“ひらがな”で表示されるから、漢字の「私」にするに、他のポッチを押す。
    >
    > キーボドのアルファベットのならべられかたは、このパソコンを作った人によって決められているものよね。
    >
    > 私は私の指をパソコンのアルファベットの[w][a][t][a][s][i]の位置にもっていって、そこを押さなければならない。もし私が[w]の位置じゃなくて間違って[e]のとこを押しちゃったったとすると「えたし」って表示されちゃう。変換ポッチをおすと「得たし」ってなっちゃう。[w]という場所でなくちゃならない、他のとこじゃダメ。私が画面に「私」を表示するためには、私はそのパソコンの仕様に従わないといけない、っていうこと。
    >
    > こう考えて見ると、
    > 「するもの」である私は、「する(こと)」において、パソコンに「させられるもの」にもなっている。
    > パソコンは私において「されるもの」と思われたけど、パソコンは私にそう「させるもの」でもある。
    >
    > 私とパソコンのの関係において、私は「するもの」であると同時に「されるもの」でもある、っていうことになっちゃうと思うんだけど、どうかしら?
    >
    > つづく
    >
引用返信/返信 削除キー/
■4369 / inTopicNo.39)  knowing itselfさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/07/21(Tue) 23:18:25)
    こんばんは
    いつもありがとうございます。

    とても大切なことを書いてもらっていると感じてまして、
    また明日以降に、石川先生の本を読み返したり、調べたりしながら
    自分で考えて返信書こうと思います。

    なんか、『純粋理性批判』であまりに亀の歩みになってるので、
    はよ実践理性批判に行きなさい、と、何かに言われてる気にも、この頃なってます(^_^;)


    人生あっという間ですね。
    不思議な気分になります。

引用返信/返信 削除キー/
■4368 / inTopicNo.40)  minoriさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/07/21(Tue) 23:04:14)
    こんばんは!

    >竹田先生の『超解読 はじめてのカント 純粋理性批判』のp109のあたりを昨日読んでました。<

    あ、はやいなぁ
    私もminoriさんと一緒の本読もうと、ひっぱりだして、、、
    まだ全然読めてないです(^_^;)
    今、手に持ってp109みてます。
    竹田先生の章末解説ですね。


    >そして再確認みたいな感じで、p46あたりに戻って読んだりもしました。
    悟性のアプリオリな形式性として「カテゴリー」「先験的統覚」「図式」「原則」の4つがある、ということで。<

    >そのうちの「先験的統覚」というのは、「私がそれを判断し認識している」という意識のこと、なんですね。感性とは違って自発的な作用だとされる。
    そして、感性形式と悟性形式(カテゴリー)の統一を可能にしているものが「先験的統覚」だということ。<

    >「図式」というのは、感性と悟性の間にあってこれを架橋する「構想力」の働き。<

    >このへんのごく基本的なところは理解できたかな、という感じで。
    一つ一つ理解を進めていく、というのは楽しいですね(^O^)/、というのが言いたくなり、今、書いています。
    ようは、「ここわかったよ〜、嬉しい。よかった。」ということ書かせていただいてます。( ^)o(^ )<

    すごいですね〜
    よく読むの辛抱しましたねーT^T
    私はカント大好きだけど、、、
    正直、苦行に思えることもありますT^T


    >それで。p78には、「あるがままの私」(=物自体としての私)という記述があるんです。
    これってどういうものを意味しているんでしょう?
    この本もpipitさん、持ってらっしゃるとのことなので、よかったらいつでもいいので教えていただけたらありがたいです。<

    この本さえも通読できてないダメなわたし、、、
    そのうえ、ここはすごく複雑な箇所だとおもうのですが、
    今の時点での私の感想を書きますね。
    間違えてる可能性ありです。

    minoriさんは、物自体に触発されて人間は現象を得る、という構図は理解されてると思いますが、


    1・・・思惟する私、という意識
    2・・・1の意識により、客体としての私が思われる
    3・・・物自体の触発により人間に1→2が現れる、その物自体のこと

    で、ここでは、3のことを「あるがままの私」と表現してるのかな、と、思いました。

    p78には、
    2は、現象として認識されるものとありますね。
    認識対象としての「私」ですね。

    そして1は、
    客体としての「私」(現象としての私)でもなく、
    「あるがままの私」(物自体としての私)であるともいえない、
    とありますね。

    このような表現をカントもしてるのか、それとも、竹田先生の表現なのか私にはわかりませんが、竹田先生による文を、引用しますね。
    (一応、カント原文まとめや意訳文なのかな?)

    『超解読!はじめてのカント『純粋理性批判』竹田青嗣先生、講談社現代新書、p78.79より引用
    引用開始
    『こうして、われわれは三種類の「私」をよく区別しておく必要がある。
    一つは、「客体(現象)としての私」。
    一つは「思惟する私」という純粋な意識、
    そして最後に、「物自体としての私」である。
    われわれは、「客体(現象)としての私」は内感によって直観できるが、
    「思惟する私」はただ直接な意識としてある。
    そして、「物自体としての私」は決して認識できないのである。』
    引用終了

    ややこしいですよね。
    私たちが認識するものは現象で、物自体は認識できない。
    そのように、
    私たちが認識する「私」は現象で、物自体としての「あるがままの私」は認識できない。
    物自体のあるがままの私に触発されて、現象の私を得ているが、現象の私を得るためには、先験的統覚である「思惟する私」という純粋な意識が必要である、
    ということかな、と、考えています。

    ちなみにプチ情報なんですけど、
    仏教って解釈が割れたりする箇所も目にする気がしますよね。
    それと同様に、カント哲学の解釈もいまだにいろんな箇所で割れてるみたいです。


    なんにしろややこしいですよね〜



引用返信/返信 削除キー/
■4366 / inTopicNo.41)  Re[43]: 区別と関係
□投稿者/ pipit -(2020/07/21(Tue) 21:14:33)
    ごめん、入力ミスした。

    ドアかな、じゃなくて

    ドウかな、です。
引用返信/返信 削除キー/
■4365 / inTopicNo.42)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2020/07/21(Tue) 21:13:10)
    No4329に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > >もちろんいいよ< ありがと。
    >
    > ところで、「するもの」っていうの、「主体」とか「主観」っていうようには見えない?
    >
    > つづきはあしたにする。<

    こんばんは

    主体、も、現象と同じで、
    いろんな意味こめれそうだね。

    とりあえず、悪魔ちゃんの「するもの」は主体とか主観という意味を持つのかな?
    どあかな?と、思っておくね。




引用返信/返信 削除キー/
■4362 / inTopicNo.43)  Re[42]: 区別と関係
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/07/21(Tue) 19:27:13)
    ■4319のつづき
    「私がパソコンのワードに文章を打ち込む」で、もうちょっと考えて見ます。

    私が、たとえばパソコンのワードに、「私」って打ちこもうとします。

    私は、キーボードのアルファベットのポッチを[w・a・t・a・s・i]の順で指先で押す。でもこれだけだと“ひらがな”で表示されるから、漢字の「私」にするに、他のポッチを押す。

    キーボドのアルファベットのならべられかたは、このパソコンを作った人によって決められているものよね。

    私は私の指をパソコンのアルファベットの[w][a][t][a][s][i]の位置にもっていって、そこを押さなければならない。もし私が[w]の位置じゃなくて間違って[e]のとこを押しちゃったったとすると「えたし」って表示されちゃう。変換ポッチをおすと「得たし」ってなっちゃう。[w]という場所でなくちゃならない、他のとこじゃダメ。私が画面に「私」を表示するためには、私はそのパソコンの仕様に従わないといけない、っていうこと。

    こう考えて見ると、
    「するもの」である私は、「する(こと)」において、パソコンに「させられるもの」にもなっている。
    パソコンは私において「されるもの」と思われたけど、パソコンは私にそう「させるもの」でもある。

    私とパソコンのの関係において、私は「するもの」であると同時に「されるもの」でもある、っていうことになっちゃうと思うんだけど、どうかしら?

    つづく

引用返信/返信 削除キー/
■4361 / inTopicNo.44)  Re[41]: 詩
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/07/21(Tue) 19:17:28)
    おくったがわさん

    現象学についての本をもっているなんて、現象学について知ろうとしている人がいただけでもうれしい。

    引用の部分の『いわば内面的なものと外面的なものとの同一性が成り立つ場面なのである』のとこなんだけど、
    わたし「内面てきなもの」を〈精神〉と見て、「外面的なもの」を〈身体〉って見ちゃう。メルロは“結び目”を見ようとしてるとも思ってる。『同一性が成り立つ場』っていうのは「知覚」のことだと思う。精神と身体の結び目を「知覚」ってしてるんじゃないかしら?

    「ゲシュタルト」の意味をよく表している語として「分節」っていう語があると思う。

    日本語訳の「論」について
    『デカルト的省察』の訳注にこんなことが書いてありました。
    〔「自我論」と「独我論」はどちらも日本語では「…論」となってしまうが、前者は「自我についての研究・学問」の意であるのに対し、後者は「我一人のみが存在するという主張・考え方」の意であることに注意。ちょうど、例えば、認識論というのは認識についての研究・学問であるが、経験論というのは認識の根源は経験にあるという主張・考え方である(それゆえ、経験主義とも訳される)のと同様。…〕
    「観念論」は〈観念主義〉って見ておいうた方がよさそう。「実在論」っていうのはどうなのかしら?主義?それとも研究・学問の方に入るのかしら?よくわかんない。学者さん?たちって、なんかぬけてる気がする。

    おくったがわさん、詩なのね。わたし詩を書こうなんて思っても見なかった。
    ちょっとメルロ的?に詩を書いて見ます。

    わたしが見、触れるもの
    このことによってわたしは世界と通じていた
    見ることは触れることおんなじ
    わたしのはじめは言葉のない世界で世界と戯れていた
    いつのまにかわたしは言葉でしか世界と交わらなくなってしまった
    いや、それはもう言葉じゃなくて記号

    どう?どう?詩としてはどう?
    酷評おねがいします。

引用返信/返信 削除キー/
■4360 / inTopicNo.45)  Re[40]: 実践理性批判
□投稿者/ knowing itself -(2020/07/21(Tue) 18:43:19)
    > 蜜柑を喩えにして説明してみます。
    >
    >
    > 感性と悟性で、たとえば蜜柑にかかわるとき、現象としてある蜜柑に条件づけられる。「かたち」=アプリオリな形式としての時間と空間、悟性のカテゴリー、「なかみ」=蜜柑。
    >
    > 「いかなる状況にあろうと蜜柑を食べなさい」という格率=「かたち」に従おうとする場合、蜜柑=「なかみ」をめぐる状況に一切条件づけられず、健康を害しようが経済的に困窮しようが、必ずそのとおり行為する。

    もちろん、道徳法則は普通、蜜柑を問題にすることはないです。上記はあくまで説明の便宜。
    まじめに現実的に道徳法則に向かいあうなら、例えば、「生きとし生けるものを傷つけてはいけない」。
引用返信/返信 削除キー/
■4351 / inTopicNo.46)  Re[39]: 実践理性批判
□投稿者/ knowing itself -(2020/07/21(Tue) 14:41:51)
    蜜柑を喩えにして説明してみます。


    感性と悟性で、たとえば蜜柑にかかわるとき、現象としてある蜜柑に条件づけられる。「かたち」=アプリオリな形式としての時間と空間、悟性のカテゴリー、「なかみ」=蜜柑。

    「いかなる状況にあろうと蜜柑を食べなさい」という格率=「かたち」に従おうとする場合、蜜柑=「なかみ」をめぐる状況に一切条件づけられず、健康を害しようが経済的に困窮しようが、必ずそのとおり行為する。


引用返信/返信 削除キー/
■4348 / inTopicNo.47)  Re[38]: 実践理性批判
□投稿者/ knowing itself -(2020/07/21(Tue) 12:51:26)
    こんにちは pipitさん レスありがとうございます。


    > 一応、形式としては「君の格率が同時に普遍的な法則となるようにしなさい」とかが形式かな、
    > と、思ってます。
    > 違うのかな?

    そうだと思います。

    > 中身はそこに流しこめる具体的な内容となるのかな、と。

    理性認識の場合、中身は「現象」ですね。それは具体的な内容であって人間はそれに対して受動的である他ない。内容は条件を形成する。
    道徳律の場合、中身としての内容はない、というか仮に内容があってもそれに一切条件づけられない、そういう形式として屹立していると理解しています。

    > 未勉強のくせに、本当いい加減な記憶で書いて申し訳ないのですが、
    > 善と呼べるのは、善意志だけである、みたいな文言があったかも?

    わたしの方こそ、すべていい加減な記憶で書いているといって過言ではありません。間違いや出鱈目である可能性も受け入れて、思い切って自説を展開するのが、考える自由だと考えています。


    善意志については、石川文康「カント入門」のp140ー141にこの辺りのことに触れていました。
    「カントが唯一絶対として認めたのは、後にも先にも、この善意志だけである。」
    「善意志はわれわれにとって、唯一の到達可能なもの自体なのである。」

    >>カントの発想は基本的に、「かたち」と「なかみ」による分類かと思います。「かたち」といっても有形という意味ではなく、制約枠という感じです。アリストテレス的な形相と質料^の系譜にあることは間違いありません。
    >>
    >>感性の「かたち」が空間と時間で、「なかみ」が感覚入力素材
    >>
    >>認識の「かたち」がカテゴリーで、「なかみ」が感性体験
    >>
    >>以上に対して、道徳律がもつ特殊性は、そこには純粋な「かたち」だけがあるということでしょうか?「なかみ」に一切条件づけられずに、無条件の純粋な意志として「かたち」だけが現前している。
引用返信/返信 削除キー/
■4343 / inTopicNo.48)  なんとなく引用
□投稿者/ おくったがわ -(2020/07/21(Tue) 10:59:09)
    「現象学の思想」木田元 p109〜
    (メルロ=ポンティが、<構造>という概念を執拗に問い直すことによって何を目指していたのか)
    『構造というものは、即自的な客体的世界に位置づけたり、その存在を因果のカテゴリーによって説明できるものではないのである。構造とは、物理的出来事や、それに支えられた生理=心理的出来事の単なる結果ではない。といってまた、構造は、反省的分析によって辿り直せるような超越論的意識の綜合作用の所産でもない。構造の現象が出現するのは、コーギトに先立つわれわれの知覚においてであり、その文法さえも弁えているとは限らない話者のもとにおいてであり、われわれが作成する数学的モデルなど予想もできない未開社会の住民の生活の中でなのである。したがって、この構造を、記述する以外にはない原初的な存在と認めることによって、われわれは近代の思考を決定的な形で規定してきた主観-客観関係を乗り越え、客体的世界の手前にある<生きられる世界>へ立ちもどることができたはずであった。それは、人間が自らを世界へと疎外し、が同時にその運動を逆転すれば世界の人間への再統合が可能になるような、いわば内面的なものと外面的なものとの同一性が成り立つ場面なのである。』

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