| こんばんは!
>竹田先生の『超解読 はじめてのカント 純粋理性批判』のp109のあたりを昨日読んでました。<
あ、はやいなぁ 私もminoriさんと一緒の本読もうと、ひっぱりだして、、、 まだ全然読めてないです(^_^;) 今、手に持ってp109みてます。 竹田先生の章末解説ですね。
>そして再確認みたいな感じで、p46あたりに戻って読んだりもしました。 悟性のアプリオリな形式性として「カテゴリー」「先験的統覚」「図式」「原則」の4つがある、ということで。<
>そのうちの「先験的統覚」というのは、「私がそれを判断し認識している」という意識のこと、なんですね。感性とは違って自発的な作用だとされる。 そして、感性形式と悟性形式(カテゴリー)の統一を可能にしているものが「先験的統覚」だということ。<
>「図式」というのは、感性と悟性の間にあってこれを架橋する「構想力」の働き。<
>このへんのごく基本的なところは理解できたかな、という感じで。 一つ一つ理解を進めていく、というのは楽しいですね(^O^)/、というのが言いたくなり、今、書いています。 ようは、「ここわかったよ〜、嬉しい。よかった。」ということ書かせていただいてます。( ^)o(^ )<
すごいですね〜 よく読むの辛抱しましたねーT^T 私はカント大好きだけど、、、 正直、苦行に思えることもありますT^T
>それで。p78には、「あるがままの私」(=物自体としての私)という記述があるんです。 これってどういうものを意味しているんでしょう? この本もpipitさん、持ってらっしゃるとのことなので、よかったらいつでもいいので教えていただけたらありがたいです。<
この本さえも通読できてないダメなわたし、、、 そのうえ、ここはすごく複雑な箇所だとおもうのですが、 今の時点での私の感想を書きますね。 間違えてる可能性ありです。
minoriさんは、物自体に触発されて人間は現象を得る、という構図は理解されてると思いますが、
1・・・思惟する私、という意識 2・・・1の意識により、客体としての私が思われる 3・・・物自体の触発により人間に1→2が現れる、その物自体のこと
で、ここでは、3のことを「あるがままの私」と表現してるのかな、と、思いました。
p78には、 2は、現象として認識されるものとありますね。 認識対象としての「私」ですね。
そして1は、 客体としての「私」(現象としての私)でもなく、 「あるがままの私」(物自体としての私)であるともいえない、 とありますね。
このような表現をカントもしてるのか、それとも、竹田先生の表現なのか私にはわかりませんが、竹田先生による文を、引用しますね。 (一応、カント原文まとめや意訳文なのかな?)
『超解読!はじめてのカント『純粋理性批判』竹田青嗣先生、講談社現代新書、p78.79より引用 引用開始 『こうして、われわれは三種類の「私」をよく区別しておく必要がある。 一つは、「客体(現象)としての私」。 一つは「思惟する私」という純粋な意識、 そして最後に、「物自体としての私」である。 われわれは、「客体(現象)としての私」は内感によって直観できるが、 「思惟する私」はただ直接な意識としてある。 そして、「物自体としての私」は決して認識できないのである。』 引用終了
ややこしいですよね。 私たちが認識するものは現象で、物自体は認識できない。 そのように、 私たちが認識する「私」は現象で、物自体としての「あるがままの私」は認識できない。 物自体のあるがままの私に触発されて、現象の私を得ているが、現象の私を得るためには、先験的統覚である「思惟する私」という純粋な意識が必要である、 ということかな、と、考えています。
ちなみにプチ情報なんですけど、 仏教って解釈が割れたりする箇所も目にする気がしますよね。 それと同様に、カント哲学の解釈もいまだにいろんな箇所で割れてるみたいです。
なんにしろややこしいですよね〜
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