| pipitさま、おはようございます。
■4175 ごめんなさい、ニーチェの『善悪の彼岸』の11じゃなくて、16でした。引用をできるだけしないようにして見たんだけど、やっぱ、意味が通じないので、16を書き写して見ます(【 】内がそうね)。
【16 いつでもなお無害な自己観察者がいて、「直接的確実性」が存在する、と信じている。例えば、「われは思う」だの、或いは、ショーペンハウアーの迷信だった「われは欲する」だのがそれである。いわば、ここでは認識が純粋に、赤裸々にその対象を「物自体」として把握しえられ、主観の側からも対象の側からも偽造が生じないかのようである。しかし「直接的確実性」も、「絶対的認識」や「物自体」も、同様にそれ自身のうちに《形容矛盾》(例えば「延長ある点」など)を含んでいる。このことを私は百篇でも繰り返すが、――何とかしてついにはこれらの言葉の誘惑から解放されなくてはならないのだ!認識とは究極まで知ることだ、と民衆は信じていようとも、哲学者は自らにこう言わなければならない。「われは思う」という命題に言い表されている過程を分析すれば、私は基礎づけることが困難な、恐らくは不可能な一連の大胆な主張に到達する。―― 例えば、われは思うものである。思うところの或るものが一般になければならない。思うとは原因と考えられる一つの存在体の側での一つの活動であり作用である。一つの「われ」なるものが存在する。最後に、思うと呼ばれるものはすでに確立している。―― 思うとは何であるのかを私は知っている。というのは、私がそれについてすでに私において決定ずみでないとしたら、いましも起こることがもしかすると「欲する」や「感じる」でないかどうかを何によって測るべきだろうか、などというような主張がそれである。ともかくも、あの「われは思う」は、私が私の現下の状態を、私が私において知る他の状態と比較して確定する、ということを前提にしているのである。このように現下の状態は他の時・所の「知識」と遡って関係づけられるから、それは私にとってとにかく直接的な確実性をもたない。―― このようにして、民衆が与えられた場合に信じるかもしれないあの「直接的確実性」の代わりに、哲学者は一連の形而上学的な問いを手に入れることになる。これらの問いこそはまさに知性の本来の良心的な問いであって、それは次のように問うのである。すなわち「どこから私は思うという概念を得るのであるか。何故に私は原因および結果を信じるのであるのか。何が私に一個のわれについて、しかも原因としての一個のわれについて、そしてついにはなお思想の原因としての一個のわれについて云々する権利を私に与えるのであろうか」と。認識の一種の直覚に訴えて、あの形而上学的な問いに直ちに答え、「われは思う、そして少なくとも真であり、現実であり、確実であることを知る」という者のするように、認識の一種の直覚に訴えてあの形而上学的な問いに直ちに答えようとする者、―― そういう者は、今日の哲学者たちのうちでは早くも一つの微笑と二つの疑問符とをもって迎えられるであろう。「貴君!」と哲学者は恐らく彼に仄めかすであろう、「貴君が誤っていないとも限るまい。しかし何故にまたあくまで真理がなければならないというのか」と。】
こう言っているニーチェに対して、わたしは言っているのです。 「ニーチェ君!」とニーチェ自身は恐らく彼に仄(ほの)めかすであろう、「貴君が誤っていないとも限るまい。しかし何故にまたあくまで真理は必要ないというのか」と。 ニーチェ自身がニーチェに問いかけてるっていう設定ね。自分(ニーチェ)が思ったことに対して省察はしないのかしら?っていう意味。
だから、わたし、 >ニーチェは真理なんか求めなくてもいい。だから、カントの試みも、ナンセンス、ってこと?< とは思っていないよ。
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