TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 親記事をトピックトップへ ]

このトピックに書きこむ

■36936 / inTopicNo.49)  『ノコギリのたとえ』
  
□投稿者/ knowingitself -(2024/03/26(Tue) 18:42:33)
    pipitさん 返信ありがとうございます

    悪をなされた場合についてのお経ですが、

    スマナサーラ長老による、「怒りの無条件降伏 中部経典『ノコギリのたとえ』を読む」という著書がありましたね。所持していますが、さすがという内容です。
引用返信/返信 削除キー/
■36928 / inTopicNo.50)  pipitさんへ
□投稿者/ 時 -(2024/03/26(Tue) 00:08:54)
    pipitさんへ。こんばんは。返信をありがとうございます。

    No36922に返信(pipitさんの記事)

    > なるほどー
    > なんにしろ『見解』にしてはならない、ということかなーと思いました。

    はい。そういう事ですね。論の中での見解は、何かを主張するという事になりそうです。何かを主張するという事は、何かに対する固執があります。何かの固執があるという事は、その近くには貪りがあります。貪りがあるという事は苦からの解放はありえません。ですので、仏陀たちは、見解としての主張の仕合いとしての議論をしませんとなるのですね。勿論、私の理解ではですが。

    > あと、アーナパーナサティスッタも知らないながらも興味はあるんですよねー。

    出入息念の事でしょうか。もしもpipitさんが原始仏典に拘られるのであれば、中部経典62経「大ラーフラ教誡経」が参考になると思いますよ。

    > どうなるかまだわかりませんが、今のところダンマパダを読んでいきますね。

    はい。今は、ダンマパダをおすすめください。ご返信は不要です。
引用返信/返信 削除キー/
■36923 / inTopicNo.51)  knowingitselfさんへ
□投稿者/ pipit -(2024/03/25(Mon) 16:40:13)
    No36920-36921
    knowingitselfさん、返信ありがとうございます!

    > 私の理解では「怒らないこと」が何をおいても優先されるのだと捉えています。
    > スマナサーラ長老の「怒らないこと2」にかなりの影響を受けています。これは素晴らしい書です。
    > 同書は私にとっては仏教開眼の一つといっていいくらい。とくに、第二部第二章の「怒りの種類」。
    > ドーサという基本の怒りとその変形である9種、全部で10種類の怒りが人間の苦しみの原因になるという。
    >
    > 現代日本の文脈における「怒り」ではなかなか本質をつかめないと感じていますが。
    > やはり「ドーサ」というのがピンとくる。<

    そうだったんですね!
    私も(?)仏教の物の見方はとてもおもしろく、役に立っているように感じています。


    No36921
    > ダンマパダ125は自ら悪をしないようにというお経であって、他人から悪をなされた場合の対応法を語っているのではないと読めます。
    >
    > それでは、まさしく他人から悪をなされたときは?
    >
    > この点について興味深いのは、たとえば、新約聖書です。
    >
    > 「右の頬を打つ者には、ほかの頬も向けなさい」マタイ福音書5・39
    >
    > これはキリスト教だけの教えというより、霊的な普遍の真理を表現していると思う。釈迦の掴んだ真理と矛盾しているはずはないと思います。<

    悪をなされた時は?でpipitが思い出すのは、サーリプッタ尊者のお話です。

    『マンガ原始仏典・ブッダの教え』より

    https://buddha.pink/setuwa/96/

    スマナサーラ長老のサーリプッタ尊者についての法話

    https://j-theravada.com/dhamma/kantouhouwa/kantou242/

    knowingitselfさんは本当に博識ですね!
    書き込みありがとうございます(^○^)♪
引用返信/返信 削除キー/
■36922 / inTopicNo.52)  時さんへ
□投稿者/ pipit -(2024/03/25(Mon) 16:14:09)
    No36919
    兄上さま、返信ありがとうございます(^ ^)

    >>兄上のおっしゃる通り、実践や理論的なことは『長部』や『中部』の方がものすごく具体的に説かれているようですね!<<

    > はい。といいましても、細かいことになるのですが、それを理論的なことと捉え(理解し)てしまわれない方が良いと思います。理論と捉え(理解し)てしまうと、常見や断見に陥りやすいからですね。ですので、中部や長部には、その実践とその論理(道理)が説かれてるようですよ。<

    なるほどー
    なんにしろ『見解』にしてはならない、ということかなーと思いました。

    > pipitさんが怒っている姿が、全く想像できません(笑)
    > 過去、仏教を学ぶ以前のお話ですが、仕事先等で怒っているお相手のお話を聞いていると、論理破綻しているのが一瞬でわかったりしたのですね。あるときは堂々と、あるときは恐る恐る論理破綻の箇所を尋ねてみたことがありますが、、どちらにしても火に油がほとんどでしたので、現在では、その個所が分かったとしても、ほぼほぼ尋ねずにスルーしていますかね(笑)<

    小さな会社なので、働く人も家族的になって、私もその上司に「お父さん、」などと間違えて言ってしまいそうになるくらいなので、結局は甘えてるんだと思います
    (ーー;)
    やさしい人にはみんな甘えてわがまま言ったり理不尽な八つ当たりしたりなりがちなように思います..
    反省です...

    > はい。大念処経も押さえておいた方が良い経典の中の一つですね。<

    すごく網羅的に記述されてますよね。
    あと、アーナパーナサティスッタも知らないながらも興味はあるんですよねー。

    ↓検索してでてきたブログ

    https://search.yahoo.co.jp/amp/s/clover.fcg.world/2016/10/10/7053/%3Famp%3D1%26usqp%3Dmq331AQGsAEggAID

    どうなるかまだわかりませんが、今のところダンマパダを読んでいきますね。
    ありがとうございます♪
引用返信/返信 削除キー/
■36921 / inTopicNo.53)  Re[22]: ダンマパダ第九章『悪』・125
□投稿者/ knowingitself -(2024/03/25(Mon) 15:16:26)
    ダンマパダ125は自ら悪をしないようにというお経であって、他人から悪をなされた場合の対応法を語っているのではないと読めます。

    それでは、まさしく他人から悪をなされたときは?

    この点について興味深いのは、たとえば、新約聖書です。

    「右の頬を打つ者には、ほかの頬も向けなさい」マタイ福音書5・39

    これはキリスト教だけの教えというより、霊的な普遍の真理を表現していると思う。釈迦の掴んだ真理と矛盾しているはずはないと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■36920 / inTopicNo.54)  Re[21]: ダンマパダ第九章『悪』・125
□投稿者/ knowingitself -(2024/03/25(Mon) 13:45:17)
    pipitさん 返信ありがとうございます

    >やはり実践者の心の清浄行が焦点になってるのかなぁという感想です。

    >ダンマパダ125の解説を二つ見てみました。

    >テーラワーダ仏教のスマナサーラ長老
    https://j-theravada.com/dhamma/kantouhouwa/kantou050/

    >ココロとカラダのセルフケアさん

    https://north-market.com/care/dhammapada-contents/9-evil/

    >どちらの解説も、『実践者が怒らない』ことをメインに説かれています。
     
    そうだと思います。


    私の理解では「怒らないこと」が何をおいても優先されるのだと捉えています。
    スマナサーラ長老の「怒らないこと2」にかなりの影響を受けています。これは素晴らしい書です。
    同書は私にとっては仏教開眼の一つといっていいくらい。とくに、第二部第二章の「怒りの種類」。
    ドーサという基本の怒りとその変形である9種、全部で10種類の怒りが人間の苦しみの原因になるという。

    現代日本の文脈における「怒り」ではなかなか本質をつかめないと感じていますが。
    やはり「ドーサ」というのがピンとくる。

引用返信/返信 削除キー/
■36919 / inTopicNo.55)  pipitさんへ
□投稿者/ 時 -(2024/03/25(Mon) 12:42:54)
    pipitさんへ。こんにちは。返信をありがとうございます。

    No36918に返信(pipitさんの記事)

    > 自分以外の人のお役に立ったなら、もっのすごく嬉しいですが、それは不確かで、
    > でも私が読んでることは私には確実なので、
    > 『最低私1人のためにだけでも役に立つような記事にしよう。』と、上記の気持ちで日訳しています。

    なるほど。pipitさんのご認識は了解しました。

    > だからこうして兄上に書き込んでもらえるのは、『望外の喜び』なのです(o^^o)v

    それはそれは、光栄なことですね(^^)v

    > 最近読んだ『ブッダという男---初期仏典を読みとく』清水俊史さん著、ちくま新書では、これまで通説とされてきた説への別の捉え方が提示されていました。(p32- 韻文優先説と人間ブッダ )
    > よく『ダンマパダ』や『スッタニパータ』が古い、と言われますが、その並行句がジャイナ教などの聖典にも確認されているそうです。
    > また、『ダンマパダ』や『スッタニパータ』などの韻文の経典は初期の三蔵に入ってなかったけど、途中で三蔵に組み込まれたという考えを清水先生は述べられていました。

    > 抜粋引用します。
    > 『したがって、仏典の編纂者たちは、ジャイナ教などの沙門宗教と共通の基盤を持ち、多くの詩を共有していたことを自覚していた。このような事情から、当初の仏教教団において、韻文資料は傍系のものと見なされ、聖典(三蔵)として認められていなかったのだと考えられる。
    >  以上の二つの問題点を踏まえるならば、仏教のエッセンスは、韻文資料ではなく、散文資料にこそ求められることになる。近年では、このような理解をもとに、韻文資料を捨象し、散文資料によってのみ初期仏教を描こうとした概説書も現れている。
    > しかし、韻文資料も部派を超えて教団内に伝承され最終的に初期仏典(三蔵)としての権威が認められた事実は重んじられるべきである。そこで本書においては、散文資料と韻文資料の両方を用いながら、ブッダの先駆性を歴史の中に位置づけていく。』
    > ((ブッダという男---初期仏典を読みとく』清水俊史さん著、p36より引用)

    引用をありがとうございます。
    過去、何時頃だったかは忘れましたが、小部経典は、他経典とは別物だという事をどこかで読んだような気がします。

    ジャイナ教といいますと苦行という言葉が思い浮かびますが、原始の中には、仏陀が法を説いた、裸行者や木の樹皮をまとった行者、犬行に励む修行者等が出てきますが、多分ですが、これらの行者の事なのでしょうね。

    > いろんな考え方があると思うのですが、pipit的には、その当時にあった句を釈尊や兄弟子がアレンジして修行中の弟子に授けていた可能性もあるなぁと想像(妄想)しています。

    当時、ジャイナ教などの沙門宗教と共通の基盤を持っていたのであれば、その可能性は大いにありそうですね。そして多分ですが、当時の他沙門集団と決定的に違ったのが、四禅定の行のあるなしだと思います。

    > 兄上のおっしゃる通り、実践や理論的なことは『長部』や『中部』の方がものすごく具体的に説かれているようですね!

    はい。といいましても、細かいことになるのですが、それを理論的なことと捉え(理解し)てしまわれない方が良いと思います。理論と捉え(理解し)てしまうと、常見や断見に陥りやすいからですね。ですので、中部や長部には、その実践とその論理(道理)が説かれてるようですよ。

    >>現実に私ごときがそれをやろうとすると、火に油だと思いますので、その例えの意味するところやその道理は理解できたとしても、同じようなこと(お相手に対する言葉としての例え)は、よほどでない限りは行いませんかね。ただ、怒りの言葉に対して怒りの言葉で返さず、その場から自然に離れることでしょうか。(過去、実際に何度かその道理を説明したことがあるのですが、ほとんど誰もそれへの理解には至りませんでした)<

    > はい、私も自分の心で思ってるだけですが、上司が怒ってたら、内容の感情は受け取らず論理だけ受け取るように心掛けます。。。

    > が、めったに怒られない上司に少し感情的に怒られたときは、実際は、『上司に簡単に返事をしない刑』を一日近く実行しました。。。(怒ってますー 未熟者pipitですー)

    pipitさんが怒っている姿が、全く想像できません(笑)
    過去、仏教を学ぶ以前のお話ですが、仕事先等で怒っているお相手のお話を聞いていると、論理破綻しているのが一瞬でわかったりしたのですね。あるときは堂々と、あるときは恐る恐る論理破綻の箇所を尋ねてみたことがありますが、、どちらにしても火に油がほとんどでしたので、現在では、その個所が分かったとしても、ほぼほぼ尋ねずにスルーしていますかね(笑)

    > 仏教(とカント哲学)に出会えてよかったなーと個人的には実感しています
    > (#^.^#)♪♪

    カント哲学も私は全く知らないのですが、pipitさんが出会えて良かったとお感じになられているのであれば、喜ばしいことですね。^^

    > 兄上の書き込みなどから影響を受けて、中部の『大念処経』の英訳を日訳してみてもいいかなぁとか思いつつもあります。

    はい。大念処経も押さえておいた方が良い経典の中の一つですね。

    > いつも本当にありがとうございます!!

    こちらこそ、いつもお付き合いをありがとうございます。
引用返信/返信 削除キー/
■36918 / inTopicNo.56)  時さんへ
□投稿者/ pipit -(2024/03/25(Mon) 10:08:15)
    2024/03/25(Mon) 10:40:39 編集(投稿者)

    兄上、おはようございます!

    No36912
    >>ダンマパダの英訳を日訳してる時、お釈迦さまからpipitへ諭すことばとして訳しています。<<

    > なるほど、これならば納得できそうです。私の想いとして、なぜ、現行で日本語に訳されているものがあるのに、パーリから英文訳にされたものをpipitさんは、時間をかけて日本語訳にされているのかが不思議だったのです。仏陀の説いた各種の実践の方法等ならば、中部経典、長部経典でほぼ事足りるように思っていたからです。なるほど、仏陀の言葉をpipitさんへの諭す言葉として訳されていたのですね。(^^)<

    自分以外の人のお役に立ったなら、もっのすごく嬉しいですが、それは不確かで、
    でも私が読んでることは私には確実なので、
    『最低私1人のためにだけでも役に立つような記事にしよう。』と、上記の気持ちで日訳しています。

    だからこうして兄上に書き込んでもらえるのは、『望外の喜び』なのです(o^^o)v

    仏教らしさ満開なのは『長部経典』や『中部経典』かもしれませんね。

    最近読んだ『ブッダという男---初期仏典を読みとく』清水俊史さん著、ちくま新書では、これまで通説とされてきた説への別の捉え方が提示されていました。(p32- 韻文優先説と人間ブッダ )
    よく『ダンマパダ』や『スッタニパータ』が古い、と言われますが、その並行句がジャイナ教などの聖典にも確認されているそうです。
    また、『ダンマパダ』や『スッタニパータ』などの韻文の経典は初期の三蔵に入ってなかったけど、途中で三蔵に組み込まれたという考えを清水先生は述べられていました。

    抜粋引用します。
    『したがって、仏典の編纂者たちは、ジャイナ教などの沙門宗教と共通の基盤を持ち、多くの詩を共有していたことを自覚していた。このような事情から、当初の仏教教団において、韻文資料は傍系のものと見なされ、聖典(三蔵)として認められていなかったのだと考えられる。
     以上の二つの問題点を踏まえるならば、仏教のエッセンスは、韻文資料ではなく、散文資料にこそ求められることになる。近年では、このような理解をもとに、韻文資料を捨象し、散文資料によってのみ初期仏教を描こうとした概説書も現れている。
    しかし、韻文資料も部派を超えて教団内に伝承され最終的に初期仏典(三蔵)としての権威が認められた事実は重んじられるべきである。そこで本書においては、散文資料と韻文資料の両方を用いながら、ブッダの先駆性を歴史の中に位置づけていく。』
    ((ブッダという男---初期仏典を読みとく』清水俊史さん著、p36より引用)

    いろんな考え方があると思うのですが、pipit的には、その当時にあった句を釈尊や兄弟子がアレンジして修行中の弟子に授けていた可能性もあるなぁと想像(妄想)しています。
    馴染みのある句を仏教的に組み替えてしまうと、馴染みあるので心にも覚えやすく入りやすい、かな、とか....
    特にダンマパダは『心構え集』みたいな(^◇^;)

    兄上のおっしゃる通り、実践や理論的なことは『長部』や『中部』の方がものすごく具体的に説かれているようですね!

    > No36904
    > >罵った方は、
    > >『すばらしいことです。ゴータマさん!』と出家して阿羅漢になったとのことです。<<

    > そうなのです。記憶の中での多くの仏典内では、大抵がこのような表現がされてるのですね。私が感じましたのは、当時の人々は、不善人でもかなり素直な人が多かったのだろうか?とか、上手く仏陀の元に出家した人々の事だけが書かれているのだろうか?とか、相手が仏陀たちだからなのか?とかいろいろと思うところがありました。まぁ、当時のインドの文化と現代の日本の文化の背景の違いもあるように思いますしね。(笑)<

    はい。2500年前のインドですもんね。


    > 現実に私ごときがそれをやろうとすると、火に油だと思いますので、その例えの意味するところやその道理は理解できたとしても、同じようなこと(お相手に対する言葉としての例え)は、よほどでない限りは行いませんかね。ただ、怒りの言葉に対して怒りの言葉で返さず、その場から自然に離れることでしょうか。(過去、実際に何度かその道理を説明したことがあるのですが、ほとんど誰もそれへの理解には至りませんでした)<

    はい、私も自分の心で思ってるだけですが、上司が怒ってたら、内容の感情は受け取らず論理だけ受け取るように心掛けます。。。

    が、めったに怒られない上司に少し感情的に怒られたときは、実際は、『上司に簡単に返事をしない刑』を一日近く実行しました。。。(怒ってますー 未熟者pipitですー)


    > No36771
    > >実際に私も過去、このようなことを経験していますが、互いの見解の主張の仕合から口論となり、やがては怒りに任せて・・喧嘩別れなどという事はよくありそうです。しかしこの段階で現代でいうところのスルースキル、そのお相手との同じ土俵に上がらないという事がもしも自然に日常的にできたとしたら、自らは悩まず苦しみませんね。<

    仏教(とカント哲学)に出会えてよかったなーと個人的には実感しています
    (#^.^#)♪♪

    > という事で、日本語訳、今後もお励みくださいね。では、この辺で。m(__)m<

    兄上の書き込みなどから影響を受けて、中部の『大念処経』の英訳を日訳してみてもいいかなぁとか思いつつもあります。

    いつも本当にありがとうございます!!

引用返信/返信 削除キー/
■36912 / inTopicNo.57)  Re[21]: ダンマパダ第九章『悪』・125
□投稿者/ 時 -(2024/03/25(Mon) 01:33:13)
    2024/03/25(Mon) 01:54:45 編集(投稿者)

    pipitさんへ。こんばんは。返信をありがとうございます。

    No36903に返信(pipitさんの記事)

    > ダンマパダの英訳を日訳してる時、お釈迦さまからpipitへ諭すことばとして訳しています。

    なるほど、これならば納得できそうです。私の想いとして、なぜ、現行で日本語に訳されているものがあるのに、パーリから英文訳にされたものをpipitさんは、時間をかけて日本語訳にされているのかが不思議だったのです。仏陀の説いた各種の実践の方法等ならば、中部経典、長部経典でほぼ事足りるように思っていたからです。なるほど、仏陀の言葉をpipitさんへの諭す言葉として訳されていたのですね。(^^)

    翻訳の表現やその解釈等は、個々人でのそれらで私は良いと思います。

    No36904
    >罵った方は、
    >『すばらしいことです。ゴータマさん!』と出家して阿羅漢になったとのことです。

    そうなのです。記憶の中での多くの仏典内では、大抵がこのような表現がされてるのですね。私が感じましたのは、当時の人々は、不善人でもかなり素直な人が多かったのだろうか?とか、上手く仏陀の元に出家した人々の事だけが書かれているのだろうか?とか、相手が仏陀たちだからなのか?とかいろいろと思うところがありました。まぁ、当時のインドの文化と現代の日本の文化の背景の違いもあるように思いますしね。(笑)

    現実に私ごときがそれをやろうとすると、火に油だと思いますので、その例えの意味するところやその道理は理解できたとしても、同じようなこと(お相手に対する言葉としての例え)は、よほどでない限りは行いませんかね。ただ、怒りの言葉に対して怒りの言葉で返さず、その場から自然に離れることでしょうか。(過去、実際に何度かその道理を説明したことがあるのですが、ほとんど誰もそれへの理解には至りませんでした)

    No36771
    >実際に私も過去、このようなことを経験していますが、互いの見解の主張の仕合から口論となり、やがては怒りに任せて・・喧嘩別れなどという事はよくありそうです。しかしこの段階で現代でいうところのスルースキル、そのお相手との同じ土俵に上がらないという事がもしも自然に日常的にできたとしたら、自らは悩まず苦しみませんね。

    という事で、日本語訳、今後もお励みくださいね。では、この辺で。m(__)m
引用返信/返信 削除キー/
■36904 / inTopicNo.58)  Re[21]: ダンマパダ第九章『悪』・125
□投稿者/ pipit -(2024/03/24(Sun) 17:46:10)
    2024/03/24(Sun) 21:05:14 編集(投稿者)

    No36903
    >思い出した経典文章があって、本を開いて読んでみたら、[神々の主であるサッカ]さんの言葉なんですけど、<

    あら!
    No36898で時兄上が書き込みくださった話題の経典を読んでみたら、サッカさんと同じような言葉を釈尊も仰ってました。

    釈尊を罵った方に、
    『『怒ることなく、身がととのえられ、正しく生活し、正しく知って解脱している人、
    心が静まったそのような立派な人に、どうして怒りがあろうか。
    怒った人に対して怒り返す人は、それによって悪をなすことになるのである。
    怒った人に対して怒らないならば、勝ちがたき戦にも勝つことになるのである。
    他人が怒ったのを知って、心に気をつけて他人が怒っているのを知っても、自ら気を落ちつけて静かにしているならば、その人は、自分と他人との両者のためになることを実行しているのである。
    真理に通達していない人々は、自分と他人と両者の治療を行っている人のことを、『かれは愚人だ』と考える。」』
    などとお説教(?)したら、
    罵った方は、
    『すばらしいことです。ゴータマさん!』と出家して阿羅漢になったとのことです。

    (『ブッダ悪魔との対話サンユッタ・ニカーヤU』中村元先生訳、岩波文庫、p129.130参照)

    関西パーリ語実習会さまの日訳は、『7.2. 罵倒の経』
    https://suttacentral.net/sn7.2/jpn/kansai?lang=en&reference=none&highlight=false




引用返信/返信 削除キー/
■36903 / inTopicNo.59)   ダンマパダ第九章『悪』・125
□投稿者/ pipit -(2024/03/24(Sun) 16:56:26)
    時さん、knowingitselfさん、御二方とも書き込みありがとうございます!!
    (*^▽^*)喜♪

    ダンマパダの英訳を日訳してる時、お釈迦さまからpipitへ諭すことばとして訳しています。
    そのようなイメージで浮上する気持ちとしては、やはり実践者の心の清浄行が焦点になってるのかなぁという感想です。

    ダンマパダ125の解説を二つ見てみました。

    テーラワーダ仏教のスマナサーラ長老
    https://j-theravada.com/dhamma/kantouhouwa/kantou050/

    ココロとカラダのセルフケアさん

    https://north-market.com/care/dhammapada-contents/9-evil/

    どちらの解説も、『実践者が怒らない』ことをメインに説かれています。

    でもpipitの個人的感想ですが、全体的に悪を起こすこと自体を減らす教えとしても活用でき得るのではないかとも想像しています。

    実践者本人が清らかになって、経典文の内容が真実だとして、可能な範囲でいかに生じる悪(苦しみ)を減らすことができるか、、、

    思い出した経典文章があって、本を開いて読んでみたら、[神々の主であるサッカ]さんの言葉なんですけど、

    『怒った人に対して怒り返す人は、それによってさらに悪をなすことになるのである。

    怒った人に対して怒りを返さないならば、勝ちがたき戦にも勝つことになるのである。

    他人が怒ったのを知っても、みずから気をつけて静かにしているならば、その人は、自分と他人と、両者のためになることを行っているのである。』

    (『ブッダ悪魔との対話サンユッタ・ニカーヤU』中村元先生訳、岩波文庫p262.263より引用)

    相応部経典の11『サッカ(帝釈天)に関する集成』の第五節『善いことばによる勝利』という経典文章でした。

    ※関西パーリ語実習会さまの日本語訳
    『善く語られたものによる勝利の経』
    https://suttacentral.net/sn11.5/jpn/kansai?lang=en&reference=none&highlight=false

    まだまだ寒いですね、みなさまどうぞご自愛くださいませ!
    書き込みありがとうございますo(^▽^)o
引用返信/返信 削除キー/
■36900 / inTopicNo.60)  Re[19]: ダンマパダ第九章『悪』・125
□投稿者/ knowingitself -(2024/03/24(Sun) 15:10:49)
    ダンマパダ125は、自らが清らかな相手を傷つける愚か者になることを戒める章句であって、自分を傷つける相手を小馬鹿にして立ち去ることを正当化する内容ではないと思いますね。
引用返信/返信 削除キー/

<前の12件 | 次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 >>
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -