■37058 / inTopicNo.28) |
Re[32]: 志・作意・精進
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□投稿者/ pipit -(2024/04/08(Mon) 19:28:18)
| 2024/04/08(Mon) 19:32:28 編集(投稿者)
knowingitselfさん、こんばんは(^ ^)
No37054 > 精進(ヴィリヤ)では、どちらの方向にエネルギーを向けるかの選択が浮上するようです。志や作意は共一切心心所なので、二十四時間とぎれることなく、瞬間的に生まれるのに対して、精進は雑心所なので、こちらが作る時だけ生まれるということでしょうか?<
『精進(ヴィリヤ)』は、雑心所ということで、生じたり生じなかったり、なんでしょうね。 『雑心所』の説明の一つとして、『すべての心に必ず生まれるわけではありません。しかも、他の心所の影響を受けて善にも悪にもなるため、「雑心所」と呼ばれます。雑心所が入ると、認識が強くなり、はっきりします。』(『ブッダが教える心の仕組み』スマナサーラ長老著、p44)とありました。
では、共一切心心所の説明は?と、p20を読むと、 『私たち命あるものすべての心の土台となる心所です。「すべての心に必ず現れる、欠かせないもの」という意味で、「共一切心心所」といいます。この7つは、常に働いていますが、それだけではとても弱い認識機能です。』(同本p20) とありました。
この共一切心心所の『志』(チェータナー)が、パーリ仏典では、業(ごう)、kamma(カンマ)になると言われているそうですね。
wikiより抜粋引用※記号省略 『Cetanaham bhikkhave kammam vadami, cetayitva kammam karoti kayena vacaya manasa, 比丘たちよ、意思(cetana)が業(kamma)である、と私は説く。思って(cetana)から、身体(kaya)・言語(vak)・意(manas)によって業をなす[14]。 パーリ仏典, 増支部六集 63.洞察経, Sri Lanka Tripitaka Project』
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AD
でも、『志』がすべて業になるわけではなく、志が強くなると業になる、とスマナサーラ長老は説明されていました。
https://j-theravada.com/world/keyword/keyword-12/
> 精進も、不善に向ける場合と善に向ける場合で岐れるようですね。<
そのようですね。志も作意も精進も、善にも悪にもなる『同他心所』(どうたしんじょ)となっていますね。
> カント的な定言命法のような、感性的物質的な世界からの厳格な超越は要求されていないとも考えられますが、志→作意→精進という方向で、常に不善ではなく善にエネルギーを向けよという意味で、アビダンマ体系の背骨にあたるのが「意志」であると言うこともできると思います。<
そうですね。 私が思い出したのは『誓願』という行為です。 涅槃を目指す修行者(with 煩悩ちゃん)にとって、意志の向かうべき方向を自覚する行為になるかもしれませんね。 実行できるか否かは別として(^◇^;)
アビダンマの知識は、学ぶ人にとって、選択肢をはっきりさせる効果があるのかもなぁ、と、今回お話させていただいて、自分の中では思いました。
知ることで、選択にも何かしらの影響が出るのかもしれませんね。
knowingitselfさんの方が絶対私より詳しいと思うのですが、一緒に考えることはできると思いますので、いつでも疑問など書き込んでくださいね。
とても勉強になります、ありがとうございます!
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