□投稿者/ pipit -(2024/03/25(Mon) 10:08:15)
| 2024/03/25(Mon) 10:40:39 編集(投稿者)
兄上、おはようございます!
■No36912 >>ダンマパダの英訳を日訳してる時、お釈迦さまからpipitへ諭すことばとして訳しています。<<
> なるほど、これならば納得できそうです。私の想いとして、なぜ、現行で日本語に訳されているものがあるのに、パーリから英文訳にされたものをpipitさんは、時間をかけて日本語訳にされているのかが不思議だったのです。仏陀の説いた各種の実践の方法等ならば、中部経典、長部経典でほぼ事足りるように思っていたからです。なるほど、仏陀の言葉をpipitさんへの諭す言葉として訳されていたのですね。(^^)<
自分以外の人のお役に立ったなら、もっのすごく嬉しいですが、それは不確かで、 でも私が読んでることは私には確実なので、 『最低私1人のためにだけでも役に立つような記事にしよう。』と、上記の気持ちで日訳しています。
だからこうして兄上に書き込んでもらえるのは、『望外の喜び』なのです(o^^o)v
仏教らしさ満開なのは『長部経典』や『中部経典』かもしれませんね。
最近読んだ『ブッダという男---初期仏典を読みとく』清水俊史さん著、ちくま新書では、これまで通説とされてきた説への別の捉え方が提示されていました。(p32- 韻文優先説と人間ブッダ ) よく『ダンマパダ』や『スッタニパータ』が古い、と言われますが、その並行句がジャイナ教などの聖典にも確認されているそうです。 また、『ダンマパダ』や『スッタニパータ』などの韻文の経典は初期の三蔵に入ってなかったけど、途中で三蔵に組み込まれたという考えを清水先生は述べられていました。
抜粋引用します。 『したがって、仏典の編纂者たちは、ジャイナ教などの沙門宗教と共通の基盤を持ち、多くの詩を共有していたことを自覚していた。このような事情から、当初の仏教教団において、韻文資料は傍系のものと見なされ、聖典(三蔵)として認められていなかったのだと考えられる。 以上の二つの問題点を踏まえるならば、仏教のエッセンスは、韻文資料ではなく、散文資料にこそ求められることになる。近年では、このような理解をもとに、韻文資料を捨象し、散文資料によってのみ初期仏教を描こうとした概説書も現れている。 しかし、韻文資料も部派を超えて教団内に伝承され最終的に初期仏典(三蔵)としての権威が認められた事実は重んじられるべきである。そこで本書においては、散文資料と韻文資料の両方を用いながら、ブッダの先駆性を歴史の中に位置づけていく。』 ((ブッダという男---初期仏典を読みとく』清水俊史さん著、p36より引用)
いろんな考え方があると思うのですが、pipit的には、その当時にあった句を釈尊や兄弟子がアレンジして修行中の弟子に授けていた可能性もあるなぁと想像(妄想)しています。 馴染みのある句を仏教的に組み替えてしまうと、馴染みあるので心にも覚えやすく入りやすい、かな、とか.... 特にダンマパダは『心構え集』みたいな(^◇^;)
兄上のおっしゃる通り、実践や理論的なことは『長部』や『中部』の方がものすごく具体的に説かれているようですね!
> No36904 > >罵った方は、 > >『すばらしいことです。ゴータマさん!』と出家して阿羅漢になったとのことです。<<
> そうなのです。記憶の中での多くの仏典内では、大抵がこのような表現がされてるのですね。私が感じましたのは、当時の人々は、不善人でもかなり素直な人が多かったのだろうか?とか、上手く仏陀の元に出家した人々の事だけが書かれているのだろうか?とか、相手が仏陀たちだからなのか?とかいろいろと思うところがありました。まぁ、当時のインドの文化と現代の日本の文化の背景の違いもあるように思いますしね。(笑)<
はい。2500年前のインドですもんね。
> 現実に私ごときがそれをやろうとすると、火に油だと思いますので、その例えの意味するところやその道理は理解できたとしても、同じようなこと(お相手に対する言葉としての例え)は、よほどでない限りは行いませんかね。ただ、怒りの言葉に対して怒りの言葉で返さず、その場から自然に離れることでしょうか。(過去、実際に何度かその道理を説明したことがあるのですが、ほとんど誰もそれへの理解には至りませんでした)<
はい、私も自分の心で思ってるだけですが、上司が怒ってたら、内容の感情は受け取らず論理だけ受け取るように心掛けます。。。
が、めったに怒られない上司に少し感情的に怒られたときは、実際は、『上司に簡単に返事をしない刑』を一日近く実行しました。。。(怒ってますー 未熟者pipitですー)
> No36771 > >実際に私も過去、このようなことを経験していますが、互いの見解の主張の仕合から口論となり、やがては怒りに任せて・・喧嘩別れなどという事はよくありそうです。しかしこの段階で現代でいうところのスルースキル、そのお相手との同じ土俵に上がらないという事がもしも自然に日常的にできたとしたら、自らは悩まず苦しみませんね。<
仏教(とカント哲学)に出会えてよかったなーと個人的には実感しています (#^.^#)♪♪
> という事で、日本語訳、今後もお励みくださいね。では、この辺で。m(__)m<
兄上の書き込みなどから影響を受けて、中部の『大念処経』の英訳を日訳してみてもいいかなぁとか思いつつもあります。
いつも本当にありがとうございます!!
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