TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 最新記事及び返信フォームをトピックトップへ ]

■34986 / inTopicNo.37)  Re[12]: :純粋理性批判B166
  
□投稿者/ pipit -(2023/11/10(Fri) 21:33:02)
    No34984
    悪魔ちゃん、ありがとー

    > >「経験と経験の対象についての概念」<
    > は、「経験」と、「経験の対象」と、その「概念」、に分けられてるようにわたしには見えるんね。<<

    うん。

    黒崎政男先生は、
    「経験の対象」を「もの」って考えてるみたい?

    B197に、カントの文章で
    『経験の可能性の条件が、同時に、経験の対象の可能性の条件である。』
    というのがあるんだって。
    (『カント『純粋理性批判』入門』p27)

    この文章を解説した黒ちゃん先生の文章で、
    『これらの条件によって私たちの経験は成立するのだが、私たちの経験、〈認識〉が成り立つことと、その〈認識の対象〉、つまりものが成立してくることとは同時的事態であると、カントは主張してるのである。』
    (同本p27)
    とありました。

    > こういうんで、
    > カントの、
    > >経験がこれらの概念を作るか、またはこれらの概念が経験を可能にするか<
    > を、見ちゃううとね、
    >
    > (1)「経験」が「経験の対象」の「概念」を作るのか?
    > または、
    > (2)「経験の対象」の「概念」が、「経験」を可能にするのか?
    >
    > っていうことになるんだとわたし思うんだけど、
    > こういうカントの自問、カントのどうなるのか、ちょっと興味ある。<

    うん(^ ^)
    この後、答えてんのかな?って雰囲気の文章が続くんだけど、ややこしそうで、読む前に今までのところ復習しようかなと思ってなかなかできないでいるところです
    (ーー;)
    がんばって読んでみるね!

    書き込みありがとうーo(^o^)o

引用返信/返信 削除キー/
■35009 / inTopicNo.38)  純粋理性批判B167
□投稿者/ pipit -(2023/11/12(Sun) 09:47:00)
    みなさま、こんにちは(^ ^)

    No34952
    B166
    > さて、経験と経験の対象についての概念との間に必然的な対応関係が考えられる場合、次の2つの道しかない:
    > 経験がこれらの概念を作るか、
    > またはこれらの概念が経験を可能にするか、である。<

    の続きです。
    原文のDeepL英訳

    英訳略

    英訳のpipit日訳

    前者(経験がこれらの概念を作る)は、カテゴリーに関して(純粋な感覚的直観に関しても)は行われない。

    というのは、それら(カテゴリー)はアプリオリな概念であり、したがって経験からは独立しているからである。
    (経験的起源を主張することは、一種のgeneratio aequivoca(偶然発生説(wiki自然発生説より:生物が親なしで無生物(物質)から一挙に生まれることがある[1]とする、生命の起源に関する説の1つである。偶然発生説とも呼ばれる。)となるであろう。

    ---------------------
    (pipit感想)
    カント的には「形而上学的演繹」において、カテゴリーをアプリオリな概念として根拠づけたことになっているので?
    そのアプリオリな概念が、経験から生成された、という論では、
    無関係なものから新しいものが生まれるという偶然発生説になってしまうので、
    前者(経験によりて概念が生じる)は、カテゴリーに関しては成立しない、とまず前者を排除している箇所かなと思いました。

    この後、後者(これらの概念が経験を可能にする)について述べていくみたいです。
    また読んでいこうと思います。

引用返信/返信 削除キー/
■35010 / inTopicNo.39)  Re[13]: :純粋理性批判B166
□投稿者/ pipit -(2023/11/12(Sun) 09:48:03)
    No35009で略した原文のDeepLによる英訳です。

    The former does not take place with respect to the categories (not even with respect to pure sensory perception);

    for they are concepts a priori, and therefore independent of experience (the assertion of an empirical origin would be a kind of generatio aequivoca).
引用返信/返信 削除キー/
■35023 / inTopicNo.40)  純粋理性批判B167
□投稿者/ pipit -(2023/11/12(Sun) 20:40:07)
    みなさま、こんばんは。
    No35009の続きです。

    (原文のDeepL英訳)
    Consequently, only the second remains (a system of epigenesis of pure reason, as it were):

    (英訳のpipit日訳)
    その結果、残るのは第二のものだけである(いわばそれは、純粋理性のエピジェネシス・システムである):

    ---------------------
    (用語説明の補足)
    ※エピジェネシスについて。wiki『後成説』より。
    『後成説(こうせいせつ)とは、生物の発生に関する仮説で、卵には幼生や胚の元になる構造が初めからあるのではなく、次第に作り上げられるものであると説くものである。前成説に対して唱えられ、次第に認められた。

    動物の発生に関する解釈としては、もともと子供の体の小さなひな型があって、それが次第に展開するのだという、いわゆる前成説が優勢であった。後成説 (epigenesis) は、それに対してそのような仕組みは無く、何も無いところから次第に形が作り上げられるのだとするものである。』

    ---------------------
    (pipit感想)
    未分化の細胞が目になったり、心臓になったり。
    こういう在り方をエピジェネシス(後成説)と言っていいなら、
    『概念によりて経験が可能になる』は、カント的には、理性の後成説と考えてるのかなと思いました。

    なぜ『後成説』かというと、純粋悟性概念は人間の知性の力を根源とし、人間が【己の能力により自ら生成した】点を強調したかったのかなと思いました。

    もし、純粋悟性概念が例えば【神様から】アプリオリに与えられたもの、とするときは、カント的には『前成説』と言うのかなと思いました。

    このもう少し後、先の二つの道の中間の?第三の道として『前成説』としてのカテゴリーの考え方も出てきて、カントは否定するようです。
    その前に、第二の道の説明が入るようです。
    読んでみたいと思います_φ(・_・



引用返信/返信 削除キー/
■35055 / inTopicNo.41)  純粋理性批判B167
□投稿者/ pipit -(2023/11/15(Wed) 21:57:13)
    みなさまこんばんは(^^)
    No35023の続きです。

    (原文のDeepL英訳)
    namely, that the categories contain, on the part of the understanding, the grounds of the possibility of all experience in general.

    (英訳のpipit日訳)
    すなわち、知性の一環として、カテゴリーにはあらゆる経験一般の可能性の根拠が含まれているということだ。

引用返信/返信 削除キー/
■35056 / inTopicNo.42)  日記
□投稿者/ pipit -(2023/11/15(Wed) 22:08:01)
    エピジェネシス・システム の工程で 対象物が作り上がる、、、

    受精卵がどんどん成長していく様を思い、おもしろい発想だなと思いました。

    純粋悟性概念が核となり、感性直観をも それに従わせる。

    量、質、関係、様相、に、直観がまとめられる

    今日はいろいろあって疲れました

    おやすみなさい (^_^)☆彡 星はきれいでした!
引用返信/返信 削除キー/
■35070 / inTopicNo.43)  純粋理性批判B167
□投稿者/ pipit -(2023/11/16(Thu) 23:22:01)
    みなさまこんばんは。 No35055の続きです。

    (原文のDeepL英訳)
    But how they make experience possible, and what principles of the possibility of experience they provide in their application to phenomena, will be shown in the following main section on the transcendental use of judgment.

    (英訳のpipit日訳)
    しかし、それら(カテゴリー)がどのように経験を可能にするのか、
    そして、それら(カテゴリー)がどのような経験可能の原理を、現象に適応する中で提供するのかは、
    判断の超越論的使用についての、次の主要なセクションで示されるだろう。





引用返信/返信 削除キー/
■35129 / inTopicNo.44)  Re[24]: 純粋理性批判B167
□投稿者/ pipit -(2023/11/21(Tue) 22:33:01)
    みなさまこんばんは。純粋理性批判B167です。

    (原文のDeepL英訳)
    If any one were to propose a middle way between the two only ways mentioned, namely, that they were neither self-conceived first principles a priori of our knowledge, nor even drawn from experience, but subjective dispositions to think implanted in us at the same time as our existence, which were so arranged by our author, (a kind of preformation system of pure reason), then (apart from the fact that with such a hypothesis there is no end in sight as to how far one would like to push the presupposition of predetermined dispositions to future judgments) the middle way would be decisive:
引用返信/返信 削除キー/
■35130 / inTopicNo.45)  Re[25]: 純粋理性批判B167
□投稿者/ pipit -(2023/11/21(Tue) 22:41:52)
    2023/11/21(Tue) 22:52:59 編集(投稿者)

    No35129
    いつもにも増して自信ありませんが英訳をpipitが日訳しました。

    ----------------------------

    もし、誰かが、この2つしかない方法の中間を提案するとしたなら、
    すなわち、それら(カテゴリー)は
    自らにより考えられた知識のアプリオリな第一原理でもなければ、経験から引き出されたものでもなく、

    創造者によってそうアレンジされ、私たちの存在と同時に植え付けられた思考の主観的能力〈純粋理性の一種の前成説・システム〉であるというような、中間の道が提案されるに違いない(このような仮説では、その後の判断にあらかじめ決められた性質があるという前提をどこまで推し進めるか見極められないという事実は別として)。

    ----------------------------

    (pipit感想)
    カントはこの第三の見解(純粋理性の一種の前成説・システム)を否定してますが、この先も否定の理由が続くようです。

    一文訳すだけでグッタリですー _| ̄|○

    ちなみに前成説のwiki説明は、
    https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E6%88%90%E8%AA%AC
引用返信/返信 削除キー/
■35132 / inTopicNo.46)  B166-167
□投稿者/ pipit -(2023/11/21(Tue) 23:08:01)
    細切れに訳してきたものをまとめてみました。
    B166-167あたりです。

    『さて、経験と経験の対象についての概念との間に必然的な対応関係が考えられる場合、次の2つの道しかない:

    経験がこれらの概念を作るか、
    またはこれらの概念が経験を可能にするか、である。

    前者(経験がこれらの概念を作る)は、カテゴリーに関して(純粋な感覚的直観に関しても)は行われない。

    というのは、それら(カテゴリー)はアプリオリな概念であり、したがって経験からは独立しているからである。
    (経験的起源を主張することは、一種のgeneratio aequivoca(偶然発生説(wiki自然発生説より:生物が親なしで無生物(物質)から一挙に生まれることがある[1]とする、生命の起源に関する説の1つである。偶然発生説とも呼ばれる。)となるであろう。

    その結果、残るのは第二のものだけである(いわばそれは、純粋理性のエピジェネシス・システムである)
    すなわち、知性の一環として、カテゴリーにはあらゆる経験一般の可能性の根拠が含まれているということだ。

    しかし、それら(カテゴリー)がどのように経験を可能にするのか、
    そして、それら(カテゴリー)がどのような経験可能の原理を、現象に適応する中で提供するのかは、
    判断の超越論的使用についての、次の主要なセクションで示されるだろう。

    もし、誰かが、この2つしかない方法の中間を提案するとしたなら、
    すなわち、それら(カテゴリー)は
    自らにより考えられた知識のアプリオリな第一原理でもなければ、経験から引き出されたものでもなく、

    創造者によってそうアレンジされ、私たちの存在と同時に植え付けられた思考の主観的能力〈純粋理性の一種の前成説・システム〉であるというような、中間の道が提案されるに違いない(このような仮説では、その後の判断にあらかじめ決められた性質があるという前提をどこまで推し進めるか見極められないという事実は別として)。』
引用返信/返信 削除キー/
■35134 / inTopicNo.47)  日記
□投稿者/ pipit -(2023/11/22(Wed) 07:55:56)
    2023/11/22(Wed) 18:20:58 編集(投稿者)

    みなさまおはようございます。
    間違えてるかもしれませんが、
    No35132の文章を、pipitなりに例「一つ」を用いて考えてみました。

    -------------------------

    経験と、経験の対象の概念に含まれるアプリオリな概念との内容が【一致】する要因として考えられるのは、

    @一つという経験から、一つという概念が生成される。
    ※pipit私見・カント的には、前章で純粋悟性概念は経験から独立していると演繹(根拠づけ)したので、この説は斥ける。

    A一つという概念から、一つという経験が生成される。
    ※pipit私見・このように世界を理解すると、人間自らの能力により、人間認識の第一原理として知性により用意されたのが、この例では、一つというアプリオリな概念。
    一つ、に相応するように感受素材が編集され、対象物が生成され、(私はそれを経験する)という認識が為される。

    B経験とアプリオリな概念は一致するように、人間の創造者(例えば神様など)によってアレンジされているのがこの世界。

    、、、

    もし、遺伝子情報にアプリオリな概念の生成プロセスが含まれてると仮定したとき、
    カント的には何番に分類するのかなー?と思いました。
    Aかなぁ...


引用返信/返信 削除キー/
■35135 / inTopicNo.48)  日記
□投稿者/ pipit -(2023/11/22(Wed) 08:12:29)
    こんなに苦労するのは、形而上学を作るためには、感性由来の概念ではなく、感性越えの概念(しかも正当化される概念)を使わなくては、という考えだからかなと思いました。

    こんなに苦労するなら、形而上学を手放せばいいのにと個人的に思ってしまいますが、

    カントは形而上学が打ち捨てられることから生じる悪影響を懸念して、
    善く生きることにつながる新しい形而上学を、自らが築くという志しに燃えてたのかな、とも思いました。

    カント先輩、おつかれさまです!


引用返信/返信 削除キー/

<前の12件 | 次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 >>

[このトピックに返信]
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -