□投稿者/ pipit -(2023/11/12(Sun) 20:40:07)
| みなさま、こんばんは。 No35009の続きです。
(原文のDeepL英訳) Consequently, only the second remains (a system of epigenesis of pure reason, as it were):
(英訳のpipit日訳) その結果、残るのは第二のものだけである(いわばそれは、純粋理性のエピジェネシス・システムである):
--------------------- (用語説明の補足) ※エピジェネシスについて。wiki『後成説』より。 『後成説(こうせいせつ)とは、生物の発生に関する仮説で、卵には幼生や胚の元になる構造が初めからあるのではなく、次第に作り上げられるものであると説くものである。前成説に対して唱えられ、次第に認められた。
動物の発生に関する解釈としては、もともと子供の体の小さなひな型があって、それが次第に展開するのだという、いわゆる前成説が優勢であった。後成説 (epigenesis) は、それに対してそのような仕組みは無く、何も無いところから次第に形が作り上げられるのだとするものである。』
--------------------- (pipit感想) 未分化の細胞が目になったり、心臓になったり。 こういう在り方をエピジェネシス(後成説)と言っていいなら、 『概念によりて経験が可能になる』は、カント的には、理性の後成説と考えてるのかなと思いました。
なぜ『後成説』かというと、純粋悟性概念は人間の知性の力を根源とし、人間が【己の能力により自ら生成した】点を強調したかったのかなと思いました。
もし、純粋悟性概念が例えば【神様から】アプリオリに与えられたもの、とするときは、カント的には『前成説』と言うのかなと思いました。
このもう少し後、先の二つの道の中間の?第三の道として『前成説』としてのカテゴリーの考え方も出てきて、カントは否定するようです。 その前に、第二の道の説明が入るようです。 読んでみたいと思います_φ(・_・
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