□投稿者/ pipit -(2023/11/21(Tue) 23:08:01)
| 細切れに訳してきたものをまとめてみました。 B166-167あたりです。
『さて、経験と経験の対象についての概念との間に必然的な対応関係が考えられる場合、次の2つの道しかない:
経験がこれらの概念を作るか、 またはこれらの概念が経験を可能にするか、である。
前者(経験がこれらの概念を作る)は、カテゴリーに関して(純粋な感覚的直観に関しても)は行われない。
というのは、それら(カテゴリー)はアプリオリな概念であり、したがって経験からは独立しているからである。 (経験的起源を主張することは、一種のgeneratio aequivoca(偶然発生説(wiki自然発生説より:生物が親なしで無生物(物質)から一挙に生まれることがある[1]とする、生命の起源に関する説の1つである。偶然発生説とも呼ばれる。)となるであろう。
その結果、残るのは第二のものだけである(いわばそれは、純粋理性のエピジェネシス・システムである) すなわち、知性の一環として、カテゴリーにはあらゆる経験一般の可能性の根拠が含まれているということだ。
しかし、それら(カテゴリー)がどのように経験を可能にするのか、 そして、それら(カテゴリー)がどのような経験可能の原理を、現象に適応する中で提供するのかは、 判断の超越論的使用についての、次の主要なセクションで示されるだろう。
もし、誰かが、この2つしかない方法の中間を提案するとしたなら、 すなわち、それら(カテゴリー)は 自らにより考えられた知識のアプリオリな第一原理でもなければ、経験から引き出されたものでもなく、
創造者によってそうアレンジされ、私たちの存在と同時に植え付けられた思考の主観的能力〈純粋理性の一種の前成説・システム〉であるというような、中間の道が提案されるに違いない(このような仮説では、その後の判断にあらかじめ決められた性質があるという前提をどこまで推し進めるか見極められないという事実は別として)。』
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