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■35141 / inTopicNo.49)  Re[18]: 日記
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/11/22(Wed) 19:37:10)
    お邪魔します、

    「形而上学」って言うの、pipitさまのばあい、どんなイメージ?

    わたしのは〈自然科学の後にくるもの〉だけど、それがどんなのかはわかんないけどね。
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■35144 / inTopicNo.50)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2023/11/22(Wed) 20:43:11)
    悪魔ちゃん、こんばんは!(^O^)

    No35141
    > 「形而上学」って言うの、pipitさまのばあい、どんなイメージ?
    >
    > わたしのは〈自然科学の後にくるもの〉だけど、それがどんなのかはわかんないけどね。<

    改めて問われると、ふわふわしてるけど、

    身体の感覚では捉えられない物事についての客観的真理、って私の中ではそんなイメージかなぁ
引用返信/返信 削除キー/
■35147 / inTopicNo.51)  形而上
□投稿者/ パニチェ -(2023/11/23(Thu) 08:00:03)
    横レス失礼します。
    以下は独り言的なボヤキなのでスルーしてもらっても構いませんし、もちろん異論・反論も歓迎です。

    そもそも感覚ないし経験を超え出でた世界の普遍的な原理について理性的な思惟で認識できるのか?って常々思ってる。
    これって一神教を基底にした西洋哲学ならではのジャンルやないかなぁ〜。
    早い話があつ種のドグマ(宗教的教説)や信仰ではないか?と疑問に思う。


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■35153 / inTopicNo.52)  Re[21]: 形而上
□投稿者/ pipit -(2023/11/23(Thu) 12:52:33)
    2023/11/23(Thu) 17:37:40 編集(投稿者)

    パニチェさん、こんにちは。
    レスありがとうございます!(^○^)♪

    No35147
    > そもそも感覚ないし経験を超え出でた世界の普遍的な原理について理性的な思惟で認識できるのか?って常々思ってる。
    > これって一神教を基底にした西洋哲学ならではのジャンルやないかなぁ〜。
    > 早い話があつ種のドグマ(宗教的教説)や信仰ではないか?と疑問に思う。<

    全然違うかもなのですが、pipitの考えでは、
    純粋悟性概念を使用した思惟が、感覚や経験なしの対象には使えない、ということをカント的にこの先の箇所で証明していくのではないかと思っています。(二律背反の箇所)
    その結果として、例えば神様のことで言えば、信仰の自由も、不信仰の自由も、両方の確保を理性の内に根拠づけられるように思っています。

    仏教の場合は、やはり認識内に現れるものを体得していく、ということで、形而下の教えになっているのかもしれませんね。

    pipit的には、形而上のラインが個人内で変動していくように思っています。
    個人内で形而上のものは、信仰、という形になると思っています。




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■35154 / inTopicNo.53)  Re[22]: 形而上
□投稿者/ 田秋 -(2023/11/23(Thu) 17:49:18)
    こんにちは、pipitさん。横レスすつれーしまつ。

    「形而」の出典は《易経 繋辞上伝 第12章》の
    《形而上者謂之道。形而下者謂之器》
    の部分で、わかりやすい日本語としては
    「形あるものの上位概念として存在している真理を道と言う。形あるものとして存在しているあらゆる現象を器と言う。」
    (わかりやすい易経・易占講座:易経 繋辞上伝を読み解く 第十二章 二より引用)
    になります。

    ここに「道」という概念が出てきますが、孔子の道は天道を指し、「天命は天帝が定めるもので、天道とは人知の及ばぬ天の理」ということの様です。天帝は西洋の神とは違うかもしれませんが、まあ、神のような方です。

    以上はあくまで易経繋辞上伝に出てくる形而上のことで、西洋哲学のmetaphysicalとは無関係に紀元前500年くらいに孔子さまが使った言葉です。それを明治の哲学者、井上哲次郎がmetaphysicalの訳語に当てました。

    すぐに意味が分からない所が哲学っぽい・・・
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■35155 / inTopicNo.54)  Re[23]: 形而上
□投稿者/ pipit -(2023/11/23(Thu) 17:54:05)
    田秋さん、こんばんは!
    レスありがとうございます(*^◯^*)

    心、とか感情は、形あるものに入るのですかね??
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■35156 / inTopicNo.55)  Re[24]: 形而上
□投稿者/ 田秋 -(2023/11/23(Thu) 18:08:41)
    心や感情に形は無いと思います。
    「ある」と答えて「じゃ、書いてみろ」と言われたら困るから。
    だから形あるものには入らないと思います。
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■35157 / inTopicNo.56)  Re[25]: 形而上
□投稿者/ pipit -(2023/11/23(Thu) 18:13:31)
    田秋さん、お答えありがとうございます(^○^)♪

    『形』は、目にはっきり見えるもの、って考えたらいいのかなぁ

    生きてる、って、不思議な現象に思えてきますね
    (#^.^#)


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■35165 / inTopicNo.57)  Re[26]: 形而上
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/11/24(Fri) 19:11:01)
    No35144、pipitさま、ありがと。

    ちょっと探してた。

    【「カント」小牧治著清水書院1967】のなかに書いてあったのを一部書き写します。
    『自然科学の進歩は、いままでのような姿の信仰に、動揺を与えないではおかなかった。まして、自然学・哲学・神学など、学といわれるものにたずさわる者には、深刻な影響を及ぼした。そこで、哲学者たちは、自然科学と信仰との調和統一を考えた。すなわち、彼らは、神・霊魂・世界全体など、形而上的なもの〔われわれ人間の感性的経験では知りえないもので、経験的現象の奥にあると考えられるもの。およそこの世にあるありとあらゆるもの(形而下のもの)の上に君臨し、人間も含めてこの世のいっさいをつくり、それをすべ、それを統一しているようなもの(神的なもの)。〕を、例えば数学的な方法などを用いて、合理的に説明しようとした。そして、自然科学と矛盾しないことを示そうとした。つまり、合理的な形而上学を目指したわけである。』
    みたい。

    これによると、
    形而下のもの=およそこの世にあるありとあらゆるもの。
    形而上的なもの=われわれ人間の感性的経験では知りえないもので、経験的現象の奥にあると考えられるもの。形而下のもの上に君臨し、人間も含めてこの世のいっさいをつくり、それをすべ、それを統一しているようなもの(神的なもの)。
    っていうことになるのかな。

    マニュエルちゃんは1724−1804年に彼の生きられた生活世界で生きた人みたい。彼の知的欲望と、とりまく当時の状況はこういうのかどうなのかはわかんないけどね。







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■35168 / inTopicNo.58)  Re[27]: 形而上
□投稿者/ pipit -(2023/11/24(Fri) 20:41:28)
    2023/11/25(Sat) 06:40:23 編集(投稿者)

    悪魔ちゃん、引用ありがとう!

    No35165

    カントが生きていた時代の雰囲気ってこんな感じだったのかなーと興味深く読ませてもらいました
    (*^ω^*)

    > これによると、
    > 形而下のもの=およそこの世にあるありとあらゆるもの。
    > 形而上的なもの=われわれ人間の感性的経験では知りえないもので、経験的現象の奥にあると考えられるもの。形而下のもの上に君臨し、人間も含めてこの世のいっさいをつくり、それをすべ、それを統一しているようなもの(神的なもの)。
    > っていうことになるのかな。
    >
    > マニュエルちゃんは1724−1804年に彼の生きられた生活世界で生きた人みたい。彼の知的欲望と、とりまく当時の状況はこういうのかどうなのかはわかんないけどね。<


    私、まだ内容を理解できてないけど、『道徳形而上学の基礎づけ』カント、中山元先生訳、光文社古典新訳文庫
    を持ってるんね。

    開いてみたら、序文に『形而上学』に関する簡単な説明があったので引用します。

    (カントの文章)
    『経験的なものを土台とするすべての哲学は、経験的な哲学と呼ぶことができる。

    これにたいしてアプリオリな原理だけに基づいてその学の内容を展開する哲学は、純粋な哲学と呼ぶことができる。

    この純粋な哲学は、それがたんに形式的な学である場合には、論理学と呼ばれるし、知性の特定の対象を考察する場合には、形而上学と呼ばれる。

     このようにして二種類の形而上学の理念が誕生する---自然の形而上学と道徳(ジッテ)の形而上学である。』

    『道徳形而上学の基礎づけ』カント、中山元先生訳、光文社古典新訳文庫、p14より引用。

    私見なんだけど、
    カントとしては、当時の、悪魔ちゃんが引用してくれたような従来の形而上学を解体して、
    アプリオリな原理に基づいて知性の対象を考察する学、って勝手に?組み直しちゃったんじゃないかなぁ、って。

    まあ、神様は信じてたんじゃないかなーと、pipitは勝手にそんな気はしてるけどね。

    悪魔ちゃん、書き込みありがとうね!

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■35184 / inTopicNo.59)  純粋悟性概念の超越論的演繹・B168
□投稿者/ pipit -(2023/11/26(Sun) 16:44:41)
    みなさまこんばんは(^_^)
    No35132の続きです。

    (原文のDeepL英訳)
    that in such a case the categories would lack the necessity which belongs essentially to their concept.

    For, for example, the concept of cause, which states the necessity of a result under a presupposed condition, would be false if it were based only on any subjective necessity implanted in us to connect certain empirical ideas according to such a rule of relation.

    (英訳のpipit日訳)
    そのような(前もってカテゴリーを植え付けられているような)場合、カテゴリーにはその概念に本質的に属する必然性が欠けてしまう。

    ある前提条件のもとでの結果の必然性を述べる(原因という概念)を例にすると、
    もし、ある経験的な表象をそのような関係規則に従って結びつけるという、われわれに植えつけられた主観的必然性だけに基づくものであるなら、(原因という概念)は誤りになるであろう。

    ========
    (pipit感想)
    今の話題:(経験)と(経験の対象についての概念)との必然的な適合について。

    両者が一致するのはどのような場合か?

    もし、

    世界に(たまたまカテゴリーで表されるような事象)があって、私たちの主観のアプリオリな概念と都合よく適合したなら、、、

    この主観的概念(原因)に必然性は備わっていない。ということかなぁ。

    カテゴリーがたまたま外部要因的にアプリオリに人間にあるだけでは、
    カテゴリーが客観を規定する概念に位置付けられない、とカントは考えるのかな?

    あぁ、カント読書、亀の歩み....

    今日たまたま知ったカント本、

    『現代の古典カント』
    ヘルベルト・シュネーデルバッハ 著 / 長倉誠一、
    『子どものためのカント』
    S・フリートレンダー 著 / 長倉誠一

    迷ったけど、『子どものためのカント』の方をまず注文しようかなー
    (´-`).。oO
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■35187 / inTopicNo.60)  pipitさん、こんばんはー(・ω・)ノ
□投稿者/ うましか -(2023/11/26(Sun) 21:13:23)
    最近ちょっと体調がすぐれなくて、カント沼から離れています(´;ω;`)ウッ…

    >『現代の古典カント』
    >ヘルベルト・シュネーデルバッハ 著 / 長倉誠一、
    >『子どものためのカント』
    >S・フリートレンダー 著 / 長倉誠一

    おもしろそうな本ですね!

    私も注文しよーかな。。。(;・∀・)

    寒くなりましたねー

    お互い体調に気をつけましょう(/・ω・)/
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