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■33616 / inTopicNo.25)  ウィトゲンシュタインとニーチェ
  
□投稿者/ パニチェ -(2023/09/30(Sat) 08:40:23)
    まったく接点がないのかな?って思ってたら『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』にニーチェの言葉が引用されていた。

    ******* 以下『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記 P88〜P89』よりの引用 *******

    キルケゴールの著作には人をからかうものがある。そしてもちろんそれは意図的なものである。私に対して彼の著作が及ぼす影響そのものが意図されたものなのかどうか私には定かではないが。そして私をからかう者が、彼の問題に取り組むことを私に強いること、そしてその問題が重要であれば、これがいいことであることに何の疑問もない。──それにもかかわらず私の中には、このからかいを非難する何かが存在する。それは単に私のルサンチマンにすぎないのか。もちろん私はキルケゴールが彼の著作で美的なものの不条理さをその名人芸で示していること、そしてもちろんそれを彼が意図して行っていることを知っている。しかし彼の美学的著作には、言ってみればすでにかすかな苦味が含まれており、まさにそれ自身において詩人の作品とは違った味わいを持っている、というのも事実である。彼は詩人ではないのに、いわば信じられないような名人芸で詩人をまねているのだが、人はその模倣の中に、彼が詩人でないことを気づくのである。
    何かへと私をそそのかすために誰かが策を弄していると考えるのは不愉快なことである。確かにそのため(こういった策を弄するため)には少なからぬ勇気が必要だし、私にそうした勇気は──ほんの少したりとも──ありはしない。しかしそうした勇気があったとしても、それを用いるのが正しいことなのかどうかは疑問である。そうしたことをするためには、勇気に加えて隣人への愛の欠如が必要なのだと私は信じる。君が隣人愛と呼んでいるものは利己心なのだ、と言ってもいいだろう。ところでこれに加えて、私は利己心なき隣人愛というものを知らない。というのも私は他人の永遠の救いには口出しできないからである。私には次のようしか言えない。私、自分の魂を気遣う私、は自分が他人に愛されたいと願っている、そのように他人を愛したい。

    *************** 引用終わり ***************


    「きみたちは、隣人のまわりに押しかけ、そのことを言い表すのに、美しい言葉の数々をもってする。だが、わたしは、きみたちに言う、きみたちの隣人愛はきみたちの不十分な自己愛なのだ、と(ツァラトゥストラ 隣人愛について)」


    「ひとはなお隣人を愛し、隣人をわが身にこすりつける。というのは、暖かさが必要だからである。(ツァラトゥストラ 序説)」

引用返信/返信 削除キー/
■33578 / inTopicNo.26)  Re[17]: 日記
□投稿者/ パニチェ -(2023/09/28(Thu) 20:00:58)
    こんばんは、田秋さん。

    No33569に返信(田秋さんの記事)

    > ウィトゲンシュタインの日記2冊が届きました。年代順に(「秘密の日記」から)読み始めています。

    > 註もしっかりしていて読みやすいと思います。

    おぉ!2冊とも買われたんですね。凄い!

    > ただ、畑の草取り、自分のおけいこ、放送大学の勉強があるので時間が足りません。

    ですよね。^^

    > ばんがる!

    無理せず、読み進んで、いつになってもいいですから、もし読了されたら感想などを投稿してもらえたら嬉しいです。
引用返信/返信 削除キー/
■33569 / inTopicNo.27)  日記
□投稿者/ 田秋 -(2023/09/28(Thu) 11:07:34)
    ウィトゲンシュタインの日記2冊が届きました。年代順に(「秘密の日記」から)読み始めています。

    註もしっかりしていて読みやすいと思います。

    ただ、畑の草取り、自分のおけいこ、放送大学の勉強があるので時間が足りません。

    ばんがる!
1000×750 => 600×450

wdiary.jpg
/189KB
引用返信/返信 削除キー/
■33551 / inTopicNo.28)  独我主義
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/09/27(Wed) 19:15:12)
    独我主義の人って、「他者は存在しない」っていうことを言ってるのかしら?
引用返信/返信 削除キー/
■33516 / inTopicNo.29)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2023/09/24(Sun) 22:19:01)
    2023/09/25(Mon) 19:55:18 編集(投稿者)

    No33513に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    > パニチェさん、議論の打ち止めを了承いただきありがとうございます。

    こちらこそ、ありがとうございました。

    > 私の失礼な物言いで、もし気分を害されたなら、申し訳ありません。

    いえいえ、私は全然大丈夫ですし、むしろ私の先のレスが直球というか配慮に欠ける表現もあったので心配してましたが、このレスで安心しました。
    今後ともよろしくお願いします。

    > 私としては、今回もパニチェさんとの議論で、自分の内からは出てこない反論や見解をもらって、これまで考えたことのなかった角度から考えなおしたり、新たな説明方法を考えついたりできました。

    それは私も同じで〈私〉に関しては違う角度からの気付きもあり、返信をまとめ直してPanietzsche Roomに追記しようと思っています。

    > おかげで大変有意義な思索の時間が得られました。
    > ありがとうございました。

    こちらこそ、ありがとうございました。

    > 願わくば、私が投げかけた言葉が、今は無理でもいつかパニチェさんの中で発酵して、何等かのものを生み出すきっかけになりますように。

    『論考』も含め再読してみるつもりです。
    私からの希望は、もしザビビのふくろうさんに興味があるなら『論考』を横に置いて「〈私〉の存在の比類なさ」や「比類なき先言の<私>」についてレス交換ができれば面白いかな、とは思っています。

    > それでは、お付き合い、ありがとうございましたm(__)m

    こちらこそ。(_ _(--;(_ _(--; ペコペコ
引用返信/返信 削除キー/
■33513 / inTopicNo.30)  Re[13]: 思考し表象する主観
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/24(Sun) 21:58:24)
    パニチェさん、こんばんは。

    パニチェさん、議論の打ち止めを了承いただきありがとうございます。

    私の失礼な物言いで、もし気分を害されたなら、申し訳ありません。

    私としては、今回もパニチェさんとの議論で、自分の内からは出てこない反論や見解をもらって、これまで考えたことのなかった角度から考えなおしたり、新たな説明方法を考えついたりできました。

    おかげで大変有意義な思索の時間が得られました。
    ありがとうございました。

    願わくば、私が投げかけた言葉が、今は無理でもいつかパニチェさんの中で発酵して、何等かのものを生み出すきっかけになりますように。

    それでは、お付き合い、ありがとうございましたm(__)m

引用返信/返信 削除キー/
■33509 / inTopicNo.31)  Re[14]: 井筒俊彦と華厳
□投稿者/ 気まぐれ -(2023/09/24(Sun) 21:19:22)
    knowingitselfさん

    返信ありがとうございます。

    No33486に返信(knowingitselfさんの記事)


    > わたしは素人として気ままに井筒俊彦を読んでいるレベルなので、ラフな話ししかできません。井筒俊彦に限らず、ラフな話しから、それぞれの人が何かヒント、気づき、発見、方向をつかめれば十分だと思っています。

    そうですね!

    >
    > 西平氏の該当箇所を改めて精読してみたいと思います。

    何か気づきがあったら教えてください^^

    > 「スーフィズムと老荘思想」を読了されたとは、かなり本格的ですね。井筒俊彦の著書の中では最も分厚い本?

    はい。上下巻だったので、読みごたえがありました。いいお値段しますしねw
    井筒先生の文章は西田に比べると格段に読みやすく、割とすんなり読めます。
    西田の著作は読んでると結構眠くなるので、なかなか進まない(笑)

    > わたしは、井筒俊彦の日本語の著書はだいたい読んでいますが、井筒俊彦の欧文著作はまだまだこれからです。(笑)

    私も英語論文(の和訳書)は上褐書と『禅仏教の哲学に向けて』という著作しか読めていません。
    今は手元に『イスラーム思想史』があって未読なので、これから読んでいこうと思ってます!
引用返信/返信 削除キー/
■33508 / inTopicNo.32)  Re[12]: 思考し表象する主観
□投稿者/ パニチェ -(2023/09/24(Sun) 21:10:08)
    2023/09/24(Sun) 22:08:06 編集(投稿者)

    こんばんは、ザビビのふくろうさん。レスありがとうございます。
    まず初めに。。。

    > とりあえず、私としては、これまでの議論はストップしてもいいんじゃないかなと思います。
    > なので、パニチェさんが言い足りないことなどありましたら遠慮なく述べていただき、それでよければ一応打ち止めということにしましょうか?いかかがですか?

    上記に同意します。返信は必要最小限にします。

    No33503に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    > うーむ、何度も確認していることですが、やはり理解は得られませんね(笑)
    > 特に私が残念に思われるのは、平行線というより、パニチェさんが反論を述べておられるところも、そもそも私の見解を理解してもらえた上での反論と思えないところです。
    > つまり、失礼な言い方になって申し訳ないんですが、やはりパニチェさんは「表象」と「現象」の区別がきちんとついておられず、そのため、少なくとも私から見たら、パニチェさんの主張は一貫性を欠くものに見えるわけです。

    今回のレスは永井氏や私のウィトゲンシュタイン解釈を論じているのではないので、〈私〉に関しては「表象」や「現象」の区別は必要ありません。
    私からすれば、永井氏や私が表記する〈私〉というものをザビビのふくろうさんが理解されないままに反論し、独自の〈私〉論を展開されているということになります。

    > とは言え、それはパニチェさん自身が読み込んで、自分なりの確固とした『論考』像をもってらっしゃるからだと思うので、これはまあ仕方ないですね。

    繰り返しになりますが今回はザビビのふくろうさんの言うところの〈私〉が永井氏やパニチェの表記する〈私〉とは違うという流れでのレスであり反論ですので、極論すれば『論考』像とは無関係です。
    永井氏も私も『論考』を元に〈私〉という何らかの概念を抽出しているわけではありません。

    > 無理解はお互いさまということもありますし^^

    そうですね。^^

    > いや、それ自体が改釈というより曲解以外のなにものでもありませんね。
    > ウィトゲンシュタインは、
    > T:5.62 ただ、それは語ることはできず、自らを示しているだけである
    > と言ってますから。

    ここも同じで永井氏や私のウィトゲンシュタイン解釈を論じる文脈での返信ではありません。

    >  「〈私〉は図5の世界のみに〈存在〉する」(『〈私〉の存在の比類なさ』31頁)
    > と述べています。また、前にも言いましたが、
    > 「視野はもちろん図6のような形をしている」に続いて、「そして図6の側面図が図5なのであるから、ウィトゲンシュタイン的な独我論は図5および図6に形象化されている、と言ってよいはずである。」(同註*32頁)と述べています。
    > さらにですね、同書138頁において、ショーペンハウアー図を含む図1〜4について、山田友幸氏が
    > 「図1〜図4はどれもみな端的に不可能な視点からの眺めを描いているように思われる」という批判を述べたことに対して永井はこう答えています。
    > 「私には、それらの批評は端的に無効であるように思われる。ひとことで言って、哲学的議論において「世界が外から眺めうるものであるかのように」(53頁)表象することはかなり普通のことであり、そこに特に問題があるとは思えないからである」
    > これらの発言を見る限り、パニチェさんが「ウィトゲンシュタインも永井氏も、そもそもショーペンハウアー図というのはありえない図としており、」とおっしゃるのは、はっきり言ってかなり無理があると思います。

    ここは逆にザビビのふくろうさんが〈私〉を自分事として気付いておられないための齟齬です。
    どんな図を描こうが〈私〉を表記していることになりません。誰にでも当てはまる独我論にしかなりません。
    永井氏の〈私〉に関する記述は全て頽落しているという大前庭で自分ごとして読解する(読み替える)必要があります(書籍を読むより内観した方が気づくかもしれません)。

    少し失礼な例えになってしまいますが、ザビビのふくろうさんの〈私〉は言語化不可能な悟り(勝義諦)を体得していない人が何かの文献を元に何らかの悟りの概念を定義(固定化)しているようなイメージです。
    先に述べた禅問答や公案と同じような手法(このレス交換)で「それは永井氏や私の探究している〈私〉ではない」ということだけは明確に分かります。

    ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
引用返信/返信 削除キー/
■33503 / inTopicNo.33)  Re[11]: 思考し表象する主観
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/24(Sun) 20:24:48)
    パニチェさん、こんばんは。

    うーむ、何度も確認していることですが、やはり理解は得られませんね(笑)
    特に私が残念に思われるのは、平行線というより、パニチェさんが反論を述べておられるところも、そもそも私の見解を理解してもらえた上での反論と思えないところです。
    つまり、失礼な言い方になって申し訳ないんですが、やはりパニチェさんは「表象」と「現象」の区別がきちんとついておられず、そのため、少なくとも私から見たら、パニチェさんの主張は一貫性を欠くものに見えるわけです。
    とは言え、それはパニチェさん自身が読み込んで、自分なりの確固とした『論考』像をもってらっしゃるからだと思うので、これはまあ仕方ないですね。
    無理解はお互いさまということもありますし^^

    なので、今回は、解釈上の反論はあきらめて、永井の主張についてパニチェさんが永井の考えについておっしゃっていることで、テキストに書かれていることからして、さすがにそれは無理があるんじゃないのかな、と私が正直思うところだけを幾つか指摘させてもらいます。
    他はとりあえずスルーしますので、ご了承ください。


    No33473に返信(パニチェさんの記事)

    > >>主観が主観の前に立てた時に現れるのが〈私〉という表象ってことでしょうか?
    > >>例えばフランシス・クリックが意識(自意識)の説明として持ち出している「開けた時だけ灯る冷蔵庫の庫内灯」のように主観(私)が主観の前に(私の前に)立てた時だけ現れるのが〈私〉である、と。
    >
    >>いえ、それは全然違いますね、なるほど、確かに伝わってないんだな(笑)
    >>私の説明より、中島義道さんの解説が、はるかに正確かつわかりよいと思います。
    >
    > ごめんなさい。私には中島さんの解説に関しては私の知識と読解力が不足していることもあり、めちゃめちゃ分かりにくいです。^^;
    > 以下のザビビのふくろうさんの解説の方が遥かに分かりやすいです。
    >
    >>でもまあ、私なりにパニチェさんにわかりよいのではと思える説明をトライしますね。
    >
    > お手間かけます。ありがとうございます。
    >
    >>私、クリックの喩えはよく知らないんですが、たぶんそうじゃなくて、
    >>喩えるなら単純に、(スクリーンに)映写機が映像を映し出すことをモデルにすればわかりやすいと思います。
    >>映像が表象(映しだされるもの)で、映写機が表象する主観=〈私〉(映し出すもの)に対応します。
    >>映し出されたもの(客観)――映すもの(主観)=〈私〉
    >>だから、ショーペンハウアー図の構図(見るもの―見られるもの)と全く同じ構図です。
    >>この喩えのいいところは、映写機は映像の形や形式は与えませんが、映写機が光(映像の実質・存在)を付与し、映像を存在させる、とするところですね。そして、むろん映像の中に映写機は存在しません。
    >>「自我はすでに形式によって満たされた世界の限界をなすことによって、それにいわば実質を、もっと言えば存在を付与するのである。」(『ウィトゲンシュタイン入門』81−82頁)
    >>『論考』の「私」について、永井はこのように述べていますね。これは明らかに永井の〈私〉に改釈したものだと思います。
    >
    > 永井氏が『論考』の「私」について上記のように述べていることには同意しますが、これを永井氏が〈私〉に改釈(多少のオリジナルな加工を伴った解釈)したとは思えません。

    でも、そのちょっと後に、
    「それが『論考』的独我論の真意であり…」
    と書いていますしね。


    > 上記の文脈で永井氏は「『論考』の独我論は一般的自我(誰もが主体としてのあり方においてはそれであるような自我)の独我論にすぎない。(ウィトゲンシュタイン入門 P83)」と述べています。
    >

    いや、それ自体が改釈というより曲解以外のなにものでもありませんね。
    ウィトゲンシュタインは、
    T:5.62 ただ、それは語ることはできず、自らを示しているだけである
    と言ってますから。


    > 以下、永井氏と共通するところはNP、永井氏と共通するかしないか分からない(どこかで記されているかもしれないが知らないし、パニチェオリジナルかもしれない)ところはPと表記します。
    >
    > NP:まず永井氏の「〈私〉の存在の比類なさ」も私の「比類なき先言の<私>」も何かの哲学や思想を上書きしたり、改釈したものではないんです。書籍を読む以前から〈私〉が今、ここにあることに驚き、不思議に感じていたということです。
    >
    > NP:「思考し表象する主観を〈私〉」とした場合、他者と自分が違うと言う意味での「〈私〉=ほかならぬこの私性」はありますが、誰しもが当てはまるモデル(映写機と映像)となり、(〈私〉と他者の関係においての)非対称性が喪失しています(『〈私〉の存在の比類なさ』P.67)。
    >
    > 非対称性こそ〈私〉の本質で独在的性たる所以であり、だからこそショーペンハウアー図を改釈した独我論は誰にでもあてはまる独我論となり下がり、むしろ真の独我論(独在論)を隠蔽していると主張していることから、永井氏の〈私〉とザビビのふくろうさんが示した〈私〉は明らかに異なると思います。
    >
    > >>あと「思考し表象する主観としての〈私〉」と「世界の限界としての《私》」を区別しているのがどういう理由からでしょうか?
    > >>「思考し表象する主観としての〈私〉」は世界の限界には存在しないのでしょうか?
    >
    >>存在しない、と私は考えています。
    >>T:5.631 思考し表象する主体は存在しない。
    >>とウィトゲンシュタインも書いていますし。
    >>「思考し表象する主体は世界の中には存在しないが、限界に存在する」
    >>とも述べていません。
    >>そもそもウィトゲンシュタインは、
    >>T:5.631 主体は世界に属さない。それは世界の限界である。
    >>と言っています。
    >>つまり、主体は「限界に存在する」のではなく、「限界である」のです。
    >>「限界である」とは、論理もまたそうであるように、世界が世界である限り有さねばならない内的・必然的性質であり、本質である、ということです。
    >
    >>「限界に存在する」ということが有意味だと思うのは、ショーペンハウアー図を想定しているからだと思います。語り得ないはずの限界を、絵に描いてしまっているから、そこに存在する、と言えるように思えてしまうわけです。
    >>しかし、もしマッハ図的光景だったら、「限界に存在する」なんていうのは、意味がわからないでしょう。
    >>「区別しているのはどうしてか」という問いに対しては、「全くの別物だから」というのが端的な答えになります。
    >>「思考し表象する主観」が前提とするのは、世界は表象であり、それを主客図式で捉えたものです。
    >>しかし、「世界の限界としての私」は、世界を現象とみなし、《私》は現象の内的・必然的性質であるとみなします。
    >
    > 上記の《私》の方がどちらかと言えば永井氏の〈私〉に近いとは思います。
    > ウィトゲンシュタインも永井氏も、そもそもショーペンハウアー図というのはありえない図としており、

    どこでそんなことを言っているのでしょうか?

    >視野はマッハ的光景と同様の『〈私〉の存在の比類なさ』P28〜29の第6図または第4図としています。

    永井は、はっきり
     「〈私〉は図5の世界のみに〈存在〉する」(『〈私〉の存在の比類なさ』31頁)
    と述べています。また、前にも言いましたが、
    「視野はもちろん図6のような形をしている」に続いて、「そして図6の側面図が図5なのであるから、ウィトゲンシュタイン的な独我論は図5および図6に形象化されている、と言ってよいはずである。」(同註*32頁)と述べています。
    さらにですね、同書138頁において、ショーペンハウアー図を含む図1〜4について、山田友幸氏が
    「図1〜図4はどれもみな端的に不可能な視点からの眺めを描いているように思われる」という批判を述べたことに対して永井はこう答えています。
    「私には、それらの批評は端的に無効であるように思われる。ひとことで言って、哲学的議論において「世界が外から眺めうるものであるかのように」(53頁)表象することはかなり普通のことであり、そこに特に問題があるとは思えないからである」
    これらの発言を見る限り、パニチェさんが「ウィトゲンシュタインも永井氏も、そもそもショーペンハウアー図というのはありえない図としており、」とおっしゃるのは、はっきり言ってかなり無理があると思います。


    > 〈私〉は超リアルであり、形象化されたショーペンハウアー図ではなく、マッハ的光景(フッサール現象学の起点となる光景)の手前、今、ここにあるものです。
    >
    > P:また「比類なき先言の<私>」は鮮度というか濃度があり、言葉にする以前から頽落が始まります。
    > それは扉を開けた時にだけ灯る冷蔵庫の庫内灯のように〈私〉を意識した瞬間に自意識との差異がなくなり頽落するということです。
    > ひょっとすると〈私〉というのは扉を開ける以前の状態がありのままかもしれません。
    > そういうリアルさも固定的な映写機と映像のモデルには感じられません。
    >
    > あと。。。
    >
    > ■No33434に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    >>私の解釈では、明らかに永井の〈私〉は表象する主観であり、実体性をそなえていると思います(No33322の中島さんの文章を参照願います)。
    >>世界に“存在”あるいは“実質”を付与するのが〈私〉です。
    >>当然、世界の存在に対して先立つわけですから、アプリオリな存在であるはずです。
    >>これは超越論的主観のバリエーションであることを意味します。
    >
    > 上記も〈私〉と異なるところです。
    > NP:〈私〉は今、ここにあるだけ、視覚であれば見えてるだけで、世界に何の付与も作用ももたらしません。
    > 「〈仏教3.0〉を哲学するU」のP175で永井氏も「存在しているだけ」と述べていることから、世界に“存在”あるいは“実質”を付与するのは〈私〉ではないです。
    >
    > 強いて言うなら、世界に“存在”あるいは“実質”を付与するのは脳科学で言えば(自)意識であり、唯識で言えば苦を生じせしめる末那識だと思います。
    >

    >>>>まあ、そうなんですが、一応ここで私がもっぱら考察の対象としているのは、『論考』の独我論、形而上学的主体、世界の限界としての私とは何か?ということですね。
    >
    > >>ここも、ザビビのふくろうさんに聞きたかったのですがウィトゲンシュタインはどういう理由でもって独我論の主体を「形而上学的主体」と呼んでいるのでしょうか?
    > >>単に世界に属さないという理由からでしょうか?
    > >>ちなみに私は〈私〉を形而上学的存在とするのことに凄い違和感があります。
    >
    >>う〜ん、私にはむしろ逆に、なぜ違和感があるのかがよくわからないんですよね。
    >>「世界は私の世界である」といった命題は、真偽2値を有する経験命題ではありませんから、科学の対象とはなりえませんよね。
    >>ですが、単なる無意味かと言ったらそうではなく、命題言語が成立する条件となる、すなわち言語が有する必然的性質について述べた必然的真理のわけです。
    >>その意味では論理と同様なのですが、論理と異なり、世界を語る上で、この《私》は全く必要ないわけです。
    >>とは言えその一方で、これが伝統的形而上学が「語ろうとしてきた」ことでもあるのは事実であると。そういう意味で哲学において扱う意味もある、ということだと思うのですね。
    >>そしてこの形而上学的真理をどう示すかというと、実在論的言語(物理的言語)を、現象言語(《私》の言語)に分析・翻訳することによって、
    >>言語=《私》の言語
    >>を示し、これにより
    >>世界(マクロコスモス)=《私》の世界(ミクロコスモス)
    >>を示すわけです。
    >>説明になったかわかりませんが、どうでしょうか?
    >
    > ここは議論が拡散してしまいそうなので現時点では返信は控えておきまが、一言だけ付け加えさせてもらうと。。。
    > P:〈私〉は今、ここに、現実にあるものであって「形而上:感性的経験では知り得ないもの。有形の現象の世界の奥にある、究極的なもの(Oxford Languagesの定義)」ではないってことです。
    >

    なるほど、そういうことですか。
    パニチェさんの違和感というのは了解しました。

    とりあえず、私としては、これまでの議論はストップしてもいいんじゃないかなと思います。
    なので、パニチェさんが言い足りないことなどありましたら遠慮なく述べていただき、それでよければ一応打ち止めということにしましょうか?いかかがですか?



引用返信/返信 削除キー/
■33502 / inTopicNo.34)  Re[16]: ウィトゲンシュタインの魅力
□投稿者/ 田秋 -(2023/09/24(Sun) 20:17:59)
    こんばんは、ザビビのふくろうさん

    情報ありがとうございます。

    >秘密の日記を先に読むのはやめたほうがいいです。

    こういうのを見ると「そうか、まずはこれだな」

    と、偏屈曲解翁は考えてしまいます。。。^^

    ノーマンマルコムとフォンウリクトが書いた
    『ウィトゲンシュタイン』(平凡社ライブラリー)
    は、古本で手に入るようですね。

    Anyway thank you for your kindness!
引用返信/返信 削除キー/
■33501 / inTopicNo.35)  Re[14]: ウィトゲンシュタインの魅力
□投稿者/ 田秋 -(2023/09/24(Sun) 19:53:41)
    こんばんは、knowingitselfさん

    お久しぶです。お変わりありませんか。

    エピソードのご紹介ありがとうございます。knowingitselfさんなら色々知っていそうですね。

    ウィトゲンシュタインには興味はあるのですが、核心を理解するには時間とアタマが足りないので人となりや対人関係(兄弟の関係とか)のエピソードなどで楽しめたらいいなあと思っています。
引用返信/返信 削除キー/
■33497 / inTopicNo.36)  Re[14]: 安泰寺はハンパなく見性否定のお寺
□投稿者/ パニチェ -(2023/09/24(Sun) 17:51:13)
    レスありがとうございます、knowing itselfさん

    No33490に返信(knowingitselfさんの記事)

    > >昨日、安泰寺住職、ネルケ無方氏がNHK「こころの時代」に出演してましたね。
    > 観られましたか?

    > 観ていません。知っていたら録画していたでしょう(笑)。

    一部がアップされてました。
    https://www.youtube.com/watch?v=aQc-fxUz2Oc

    > 「バージョンII」の後にもう一冊でていて、そこにはネルケ無方氏も執筆しています。安泰寺の主流の立場は藤田氏よりむしろネルケ無方氏かもしれない。

    そうなんですね。
    こころの時代でも只管打座を強調されてましたね。
引用返信/返信 削除キー/

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