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No33473 の記事


■33473 / )  Re[10]: 思考し表象する主観
□投稿者/ パニチェ -(2023/09/24(Sun) 08:55:36)
    2023/09/24(Sun) 19:14:49 編集(投稿者)

    おはようございます、ザビビのふくろうさん。レスありがとうございます。

    No33461に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    > 以下の私見を述べるにあたって、パニチェさんに前もって了解していただきたいことがあります。
    > 私は現在、『論考』に関して、あくまで個人的ではあるものの、自分としてはかなり明確な解釈をもっていまして、それには根拠もあるつもりです。
    > しかし、中期以降に関しては、そこまで確信はもてるものではありません。
    > もちろん、『論考』の解釈からの続きとなりますから、私独自の解釈で自信もそれなりにあるところ(特に中期)もありますが、基本的には、様々な研究者の見解を参照しながら私見を混ぜた、というものだと受け取っていただきたく思います。
    > と言っても、おおざっぱにしか言えませんが…m(__)m

    了解しました。^^

    > 中期以降、『論考』の意味論は修正、改良が重ねられ、『論考』が対象とした言語の抽象的モデルから、むしろ語用論的な現実に運用される具体的言語の使用に考察対象が変化していきます。
    > 思い切って言ってしまうと、意味論的研究から語用論的研究へ、みたいに現代的観点から荒っぽくですが言えるんじゃないかと思います。
    > 抽象的場から具体的場へ、ともいえると思います(これは、興味深いことに、フッサール現象学と似ているんですね)。
    > で、意味論的研究となると、対象は基本的に命題(としての言語体系)ってことになるんですが、語用論的研究の対象は、もっと言語全般、言語ゲームですね、に広がるわけです。
    > この観点から命題言語を捉え直すと、いわば真偽言語ゲーム、世界モデル化言語ゲーム、みたいに言えるんじゃないかと思います。
    > また、倫理ゲームや、法言語ゲーム、様々な言語ゲームが考えられ、命題言語ゲームは、そういった多様な言語ゲームのひとつと捉え直すことができるように思います。
    > これは言語の本質は命題言語にありと捉えていた『論考』の時期とはかなり異なる立場だと考えられます。
    > ですから、修正は必要なので、『論考』そのままとはいきませんが、多くの言語ゲームのひとつとして、科学言語としての命題言語は、それはそれとして成立し得ると考えていたのではないか、というのが私の見解です。

    なるほど。丁寧な解説をありがとうございます。
    上記を参考にして、『探究』を中心にまた再読してみます。
    現時点で私はウィトゲンシュタインは後期には『論考』の少なくとも写像を前提とした言語論は実質的には破棄していると考えています。
    で、粗っぽく言うと、『論考』は意味論が主で語用論が従、『探究』は語用論が主で意味論が従のようなイメージで捉えています。
    また相手して下さい。

    >>主観が主観の前に立てた時に現れるのが〈私〉という表象ってことでしょうか?
    >>例えばフランシス・クリックが意識(自意識)の説明として持ち出している「開けた時だけ灯る冷蔵庫の庫内灯」のように主観(私)が主観の前に(私の前に)立てた時だけ現れるのが〈私〉である、と。

    > いえ、それは全然違いますね、なるほど、確かに伝わってないんだな(笑)
    > 私の説明より、中島義道さんの解説が、はるかに正確かつわかりよいと思います。

    ごめんなさい。私には中島さんの解説に関しては私の知識と読解力が不足していることもあり、めちゃめちゃ分かりにくいです。^^;
    以下のザビビのふくろうさんの解説の方が遥かに分かりやすいです。

    > でもまあ、私なりにパニチェさんにわかりよいのではと思える説明をトライしますね。

    お手間かけます。ありがとうございます。

    > 私、クリックの喩えはよく知らないんですが、たぶんそうじゃなくて、
    > 喩えるなら単純に、(スクリーンに)映写機が映像を映し出すことをモデルにすればわかりやすいと思います。
    > 映像が表象(映しだされるもの)で、映写機が表象する主観=〈私〉(映し出すもの)に対応します。
    > 映し出されたもの(客観)――映すもの(主観)=〈私〉
    > だから、ショーペンハウアー図の構図(見るもの―見られるもの)と全く同じ構図です。
    > この喩えのいいところは、映写機は映像の形や形式は与えませんが、映写機が光(映像の実質・存在)を付与し、映像を存在させる、とするところですね。そして、むろん映像の中に映写機は存在しません。
    > 「自我はすでに形式によって満たされた世界の限界をなすことによって、それにいわば実質を、もっと言えば存在を付与するのである。」(『ウィトゲンシュタイン入門』81−82頁)
    > 『論考』の「私」について、永井はこのように述べていますね。これは明らかに永井の〈私〉に改釈したものだと思います。

    永井氏が『論考』の「私」について上記のように述べていることには同意しますが、これを永井氏が〈私〉に改釈(多少のオリジナルな加工を伴った解釈)したとは思えません。
    上記の文脈で永井氏は「『論考』の独我論は一般的自我(誰もが主体としてのあり方においてはそれであるような自我)の独我論にすぎない。(ウィトゲンシュタイン入門 P83)」と述べています。

    以下、永井氏と共通するところはNP、永井氏と共通するかしないか分からない(どこかで記されているかもしれないが知らないし、パニチェオリジナルかもしれない)ところはPと表記します。

    NP:まず永井氏の「〈私〉の存在の比類なさ」も私の「比類なき先言の<私>」も何かの哲学や思想を上書きしたり、改釈したものではないんです。書籍を読む以前から〈私〉が今、ここにあることに驚き、不思議に感じていたということです。

    NP:「思考し表象する主観を〈私〉」とした場合、他者と自分が違うと言う意味での「〈私〉=ほかならぬこの私性」はありますが、誰しもが当てはまるモデル(映写機と映像)となり、(〈私〉と他者の関係においての)非対称性が喪失しています(『〈私〉の存在の比類なさ』P.67)。

    非対称性こそ〈私〉の本質で独在的性たる所以であり、だからこそショーペンハウアー図を改釈した独我論は誰にでもあてはまる独我論となり下がり、むしろ真の独我論(独在論)を隠蔽していると主張していることから、永井氏の〈私〉とザビビのふくろうさんが示した〈私〉は明らかに異なると思います。

    >>あと「思考し表象する主観としての〈私〉」と「世界の限界としての《私》」を区別しているのがどういう理由からでしょうか?
    >>「思考し表象する主観としての〈私〉」は世界の限界には存在しないのでしょうか?

    > 存在しない、と私は考えています。
    > T:5.631 思考し表象する主体は存在しない。
    > とウィトゲンシュタインも書いていますし。
    > 「思考し表象する主体は世界の中には存在しないが、限界に存在する」
    > とも述べていません。
    > そもそもウィトゲンシュタインは、
    > T:5.631 主体は世界に属さない。それは世界の限界である。
    > と言っています。
    > つまり、主体は「限界に存在する」のではなく、「限界である」のです。
    > 「限界である」とは、論理もまたそうであるように、世界が世界である限り有さねばならない内的・必然的性質であり、本質である、ということです。

    > 「限界に存在する」ということが有意味だと思うのは、ショーペンハウアー図を想定しているからだと思います。語り得ないはずの限界を、絵に描いてしまっているから、そこに存在する、と言えるように思えてしまうわけです。
    > しかし、もしマッハ図的光景だったら、「限界に存在する」なんていうのは、意味がわからないでしょう。
    > 「区別しているのはどうしてか」という問いに対しては、「全くの別物だから」というのが端的な答えになります。
    > 「思考し表象する主観」が前提とするのは、世界は表象であり、それを主客図式で捉えたものです。
    > しかし、「世界の限界としての私」は、世界を現象とみなし、《私》は現象の内的・必然的性質であるとみなします。

    上記の《私》の方がどちらかと言えば永井氏の〈私〉に近いとは思います。
    ウィトゲンシュタインも永井氏も、そもそもショーペンハウアー図というのはありえない図としており、視野はマッハ的光景と同様の『〈私〉の存在の比類なさ』P28〜29の第6図または第4図としています。
    〈私〉は超リアルであり、形象化されたショーペンハウアー図ではなく、マッハ的光景(フッサール現象学の起点となる光景)の手前、今、ここにあるものです。

    P:また「比類なき先言の<私>」は鮮度というか濃度があり、言葉にする以前から頽落が始まります。
    それは扉を開けた時にだけ灯る冷蔵庫の庫内灯のように〈私〉を意識した瞬間に自意識との差異がなくなり頽落するということです。
    ひょっとすると〈私〉というのは扉を開ける以前の状態がありのままかもしれません。
    そういうリアルさも固定的な映写機と映像のモデルには感じられません。

    あと。。。

    No33434に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    > 私の解釈では、明らかに永井の〈私〉は表象する主観であり、実体性をそなえていると思います(No33322の中島さんの文章を参照願います)。
    > 世界に“存在”あるいは“実質”を付与するのが〈私〉です。
    > 当然、世界の存在に対して先立つわけですから、アプリオリな存在であるはずです。
    > これは超越論的主観のバリエーションであることを意味します。

    上記も〈私〉と異なるところです。
    NP:〈私〉は今、ここにあるだけ、視覚であれば見えてるだけで、世界に何の付与も作用ももたらしません。
    「〈仏教3.0〉を哲学するU」のP175で永井氏も「存在しているだけ」と述べていることから、世界に“存在”あるいは“実質”を付与するのは〈私〉ではないです。

    強いて言うなら、世界に“存在”あるいは“実質”を付与するのは脳科学で言えば(自)意識であり、唯識で言えば苦を生じせしめる末那識だと思います。


    以下は「思考し表象する主体」と〈私〉は同等ではないと考えているので(入不二基義著『ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか』は手元にありますが)現時点はスルーさせてもらいます。

    > 前にも触れましたが、この「思考し表象する主体」が存在しないことは、入不二さんの『ウィトゲンシュタイン』の第二章無主体論の68-73頁の「いわゆる無主体論」の説明箇所にその議論が提示されていて、私はその議論を、
    > T:5.631 思考し表象する主体は存在しない。
    > の解説とみなしてよいと思っています。
    > そして、「世界の限界としての私」については、その後、同書74-78頁の「ウィトゲンシュタインの無主体論」に述べられており、そこでの説明を、
    > T:5.631 主体は世界に属さない。それは世界の限界である。
    > の解説とみなしうると思います。
    > 入不二さんご自身は、それを中期の解説として提示しておられて、『論考』の解説とは考えておられないですけどね(笑)



    >>タイトルからすると〈私〉を心理学的に解体でしてるという内容でしょうか?

    > というより、基本的には、自我体験を発達心理学的に見て、自我発達のある段階が進むとき(自分が世界の中の多のなかの一であるということに気づく時等)に現れる心的現象として捉えて、そのことの自我発達における意味等を考えるといった感じでしょうか。まあ、いろんな研究がありますので、一概には言えないかもしれませんが。
    > しかし、事例が数多く挙げられていて、自我体験ってこんなに多くの人間が体験しているんだなということにまずは驚きました。
    > それと、中には、永井とほとんど同じような問題を論じている論文や、私の関心に近いものもあって、なかなか興味深いものでした。
    > ただ、全体的には、私について哲学的に深く掘り下げるというのとは、ちょっと違う感じですね。

    なるほど。ありがとうござました。

    > >>まあ、そうなんですが、一応ここで私がもっぱら考察の対象としているのは、『論考』の独我論、形而上学的主体、世界の限界としての私とは何か?ということですね。

    >>ここも、ザビビのふくろうさんに聞きたかったのですがウィトゲンシュタインはどういう理由でもって独我論の主体を「形而上学的主体」と呼んでいるのでしょうか?
    >>単に世界に属さないという理由からでしょうか?
    >>ちなみに私は〈私〉を形而上学的存在とするのことに凄い違和感があります。

    > う〜ん、私にはむしろ逆に、なぜ違和感があるのかがよくわからないんですよね。
    > 「世界は私の世界である」といった命題は、真偽2値を有する経験命題ではありませんから、科学の対象とはなりえませんよね。
    > ですが、単なる無意味かと言ったらそうではなく、命題言語が成立する条件となる、すなわち言語が有する必然的性質について述べた必然的真理のわけです。
    > その意味では論理と同様なのですが、論理と異なり、世界を語る上で、この《私》は全く必要ないわけです。
    > とは言えその一方で、これが伝統的形而上学が「語ろうとしてきた」ことでもあるのは事実であると。そういう意味で哲学において扱う意味もある、ということだと思うのですね。
    > そしてこの形而上学的真理をどう示すかというと、実在論的言語(物理的言語)を、現象言語(《私》の言語)に分析・翻訳することによって、
    > 言語=《私》の言語
    > を示し、これにより
    > 世界(マクロコスモス)=《私》の世界(ミクロコスモス)
    > を示すわけです。
    > 説明になったかわかりませんが、どうでしょうか?

    ここは議論が拡散してしまいそうなので現時点では返信は控えておきまが、一言だけ付け加えさせてもらうと。。。
    P:〈私〉は今、ここに、現実にあるものであって「形而上:感性的経験では知り得ないもの。有形の現象の世界の奥にある、究極的なもの(Oxford Languagesの定義)」ではないってことです。


    PS.無理にとは言いませんが(笑)今回の議論はknowing itselfさんにも意見を聞きたいところではあります。もちろん、スルー可です。^^

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