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Re[9]: 思考し表象する主観
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□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/24(Sun) 00:36:11)
| パニチェさん、こんばんは。 レスをありがとうございます。
■No33442に返信(パニチェさんの記事) > 2023/09/23(Sat) 23:13:52 編集(投稿者) >
> >>倫理が超越的な語り得なさというのをもう少し詳しく教えてもらえますか? > >>個人的には倫理がトートロジーだとか、超越的云々(例えば道徳的法則が我々にはアプリオリに備わっている等々)とは考えてないのですが。。。 > >>『論考』が主題とした言語の限界画定の対象となる言語は命題言語、つまり、真偽をはっきり言える文であって、事実か事実でないかと検証可能なことしか語らない文であり、要は事実はどうかってことしか語らない文で、これを科学的言語とみなしたわけです。 >>これはカントの『純粋理性批判』に相当するいわば『純粋言語批判」と言われるもので、この言語は、価値的なもの「べき」善悪といったものとかかわらないんです。 >>つまり、命題言語とは「である」「でない」しか扱わない言語であり、「であるべき」「であるべからず」はまったく対象外なんですね。 >>命題言語が守備範囲に入れる必然性「ねばならない」etc.は論理的必然性だけなんです。 >>倫理的必然性は善悪という超越的価値と関係しますが、これは命題では表現できず、この必然性を示すこともできないわけです。 >>で、カントが『実践理性批判』でこういう道徳的命題を扱ったように、ウィトゲンシュタインの立場では、異なったいわば『倫理的言語ゲーム』が必要になるわけです。 >>でも、そのゲームを行う意味は否定しなくても、それは事実か否かを検証・確定可能なものではないから、語り命題のように語っても、無意味だってことです。 > > なるほど、そういう文脈というか前提でもって必然性を示すことができないので倫理は語り得ないとしてるわけですね。 > ちなみにこの『論考』での科学的言語論は後期(言語ゲーム)では破棄されたのですか?それとも(ある部分は残しつつ)上書きされたということでしょうか? >
以下の私見を述べるにあたって、パニチェさんに前もって了解していただきたいことがあります。 私は現在、『論考』に関して、あくまで個人的ではあるものの、自分としてはかなり明確な解釈をもっていまして、それには根拠もあるつもりです。 しかし、中期以降に関しては、そこまで確信はもてるものではありません。 もちろん、『論考』の解釈からの続きとなりますから、私独自の解釈で自信もそれなりにあるところ(特に中期)もありますが、基本的には、様々な研究者の見解を参照しながら私見を混ぜた、というものだと受け取っていただきたく思います。 と言っても、おおざっぱにしか言えませんが…m(__)m
中期以降、『論考』の意味論は修正、改良が重ねられ、『論考』が対象とした言語の抽象的モデルから、むしろ語用論的な現実に運用される具体的言語の使用に考察対象が変化していきます。 思い切って言ってしまうと、意味論的研究から語用論的研究へ、みたいに現代的観点から荒っぽくですが言えるんじゃないかと思います。 抽象的場から具体的場へ、ともいえると思います(これは、興味深いことに、フッサール現象学と似ているんですね)。 で、意味論的研究となると、対象は基本的に命題(としての言語体系)ってことになるんですが、語用論的研究の対象は、もっと言語全般、言語ゲームですね、に広がるわけです。 この観点から命題言語を捉え直すと、いわば真偽言語ゲーム、世界モデル化言語ゲーム、みたいに言えるんじゃないかと思います。 また、倫理ゲームや、法言語ゲーム、様々な言語ゲームが考えられ、命題言語ゲームは、そういった多様な言語ゲームのひとつと捉え直すことができるように思います。 これは言語の本質は命題言語にありと捉えていた『論考』の時期とはかなり異なる立場だと考えられます。 ですから、修正は必要なので、『論考』そのままとはいきませんが、多くの言語ゲームのひとつとして、科学言語としての命題言語は、それはそれとして成立し得ると考えていたのではないか、というのが私の見解です。
>>>>主観により対象化された「私」 >>>>思考し表象する主観を〈私〉 (〈私〉=ほかならぬこの私) >>>>世界の限界としての《私》 (《私》=比類のない私) > > >>No33322の投稿(引用)ありがとうございました。No33289もありがとうございました。 > >>上記を読んだ上でも《私》という表記以前に「思考し表象する主観を〈私〉」とするなら、パニチェの〈私〉とは(おそらく永井氏の表記とも)異なる対象だと思います。 > >>「思考し表象する主観」というのはコギトのようなものでしょうか? > >>申し訳ないんですけど、少なくとも永井の〈私〉に関しては、哲学的見地から私としてもここはゆずれないとこですね(笑) >>「思考し表象する主観」とは、No33322で中島さんや坂部先生が定義されている表象、つまり、「私が私の前に立てる(定立する)もの」の「私」が表象する主観です。 >>あと、No33434の気まぐれさんへのレスにも少し述べました。 >>逆にパニチェさんに私が質問したいのは、永井の〈私〉が「思考し表象する主体」であることを否定する何か理由がありますか?ということです。 >>あるのであれば、ぜひ教えてください。 > > まだ反論するほどザビビのふくろうさんが上記で示した「思考し表象する主観」を理解できていませんので、反論する前(笑)に確認させて下さい。 > > >>> ■No33322に返信(ザビビのふくろうさんの記事) > >>> 日本語では区別がはっきりしないが、ドイツ語の“Erscheinug”(現象)と“Vorstellung”(表象)との区別は明確であり、前者は何ものかの現れという自動詞の名詞化であるが、後者は私が私の前に何ものかを立てるという他動詞の名詞化である。前者は物理現象とも心理現象とも言うように語自体に存在論的な限定はないが、後者は私が私の前に立てるものであり、その操作の限り「ある」という主観的存在の色合いが濃厚になる。 > > 主観が主観の前に立てた時に現れるのが〈私〉という表象ってことでしょうか? > 例えばフランシス・クリックが意識(自意識)の説明として持ち出している「開けた時だけ灯る冷蔵庫の庫内灯」のように主観(私)が主観の前に(私の前に)立てた時だけ現れるのが〈私〉である、と。 >
いえ、それは全然違いますね、なるほど、確かに伝わってないんだな(笑) 私の説明より、中島義道さんの解説が、はるかに正確かつわかりよいと思います。 でもまあ、私なりにパニチェさんにわかりよいのではと思える説明をトライしますね。 私、クリックの喩えはよく知らないんですが、たぶんそうじゃなくて、 喩えるなら単純に、(スクリーンに)映写機が映像を映し出すことをモデルにすればわかりやすいと思います。 映像が表象(映しだされるもの)で、映写機が表象する主観=〈私〉(映し出すもの)に対応します。 映し出されたもの(客観)――映すもの(主観)=〈私〉 だから、ショーペンハウアー図の構図(見るもの―見られるもの)と全く同じ構図です。 この喩えのいいところは、映写機は映像の形や形式は与えませんが、映写機が光(映像の実質・存在)を付与し、映像を存在させる、とするところですね。そして、むろん映像の中に映写機は存在しません。 「自我はすでに形式によって満たされた世界の限界をなすことによって、それにいわば実質を、もっと言えば存在を付与するのである。」(『ウィトゲンシュタイン入門』81−82頁) 『論考』の「私」について、永井はこのように述べていますね。これは明らかに永井の〈私〉に改釈したものだと思います。
> あと「思考し表象する主観としての〈私〉」と「世界の限界としての《私》」を区別しているのがどういう理由からでしょうか? > 「思考し表象する主観としての〈私〉」は世界の限界には存在しないのでしょうか? >
存在しない、と私は考えています。 T:5.631 思考し表象する主体は存在しない。 とウィトゲンシュタインも書いていますし。 「思考し表象する主体は世界の中には存在しないが、限界に存在する」 とも述べていません。 そもそもウィトゲンシュタインは、 T:5.631 主体は世界に属さない。それは世界の限界である。 と言っています。 つまり、主体は「限界に存在する」のではなく、「限界である」のです。 「限界である」とは、論理もまたそうであるように、世界が世界である限り有さねばならない内的・必然的性質であり、本質である、ということです。
「限界に存在する」ということが有意味だと思うのは、ショーペンハウアー図を想定しているからだと思います。語り得ないはずの限界を、絵に描いてしまっているから、そこに存在する、と言えるように思えてしまうわけです。 しかし、もしマッハ図的光景だったら、「限界に存在する」なんていうのは、意味がわからないでしょう。 「区別しているのはどうしてか」という問いに対しては、「全くの別物だから」というのが端的な答えになります。 「思考し表象する主観」が前提とするのは、世界は表象であり、それを主客図式で捉えたものです。 しかし、「世界の限界としての私」は、世界を現象とみなし、《私》は現象の内的・必然的性質であるとみなします。
前にも触れましたが、この「思考し表象する主体」が存在しないことは、入不二さんの『ウィトゲンシュタイン』の第二章無主体論の68-73頁の「いわゆる無主体論」の説明箇所にその議論が提示されていて、私はその議論を、 T:5.631 思考し表象する主体は存在しない。 の解説とみなしてよいと思っています。 そして、「世界の限界としての私」については、その後、同書74-78頁の「ウィトゲンシュタインの無主体論」に述べられており、そこでの説明を、 T:5.631 主体は世界に属さない。それは世界の限界である。 の解説とみなしうると思います。 入不二さんご自身は、それを中期の解説として提示しておられて、『論考』の解説とは考えておられないですけどね(笑)
> >>〈私〉に関して(〈私〉を指し示す文脈からして)「ショーペンハウアー図もマッハ的光景も誰にでも当てはまる図や光景であってその意味では同じだ」という時に、「誰にでも当てはまる」=「一般的」、経験的一般性(偶然的一般性)と、アプリオリ(必然的)な一般性を区別する必要はないと考えているということなんですが、ここはやはり平行線になると思います。 > >>はい。わかりました。 >>ただ、説得は無理は承知で、永井批判においても私にとってはこの違いは重要なポイントなので、説明を思いつけば書くと思いますので、ご了承ください。 > > 了解しました。 > > >>永井氏のウィトゲンシュタイン解釈に批判的な意見をお持ちだということはこれまでのレス交換で分かりますが、「意識の超難問」や〈私〉に関してはザビビのふくろうさんはどういう見解をお持ちですか? > >>またザビビのふくろうさんがどのような対象を〈私〉と表記されているのか興味があります。 > >>前にパニチェさんが永井とよく似た自我体験をもっていたということを述べられたとき、リンクされてた文章で、渡辺恒夫先生の研究について触れられていましたよね。 >>私、渡辺先生の著作は編著も含めて何冊か読んでいます。 >>特に、事例研究は、自我体験の心理学的研究論文集である >> 『<私>という謎 自我体験の心理学』(新曜社) >>に詳しいですが、すごく面白かったです。 > > タイトルからすると〈私〉を心理学的に解体でしてるという内容でしょうか? >
というより、基本的には、自我体験を発達心理学的に見て、自我発達のある段階が進むとき(自分が世界の中の多のなかの一であるということに気づく時等)に現れる心的現象として捉えて、そのことの自我発達における意味等を考えるといった感じでしょうか。まあ、いろんな研究がありますので、一概には言えないかもしれませんが。 しかし、事例が数多く挙げられていて、自我体験ってこんなに多くの人間が体験しているんだなということにまずは驚きました。 それと、中には、永井とほとんど同じような問題を論じている論文や、私の関心に近いものもあって、なかなか興味深いものでした。 ただ、全体的には、私について哲学的に深く掘り下げるというのとは、ちょっと違う感じですね。
>>ただ、わたしの場合は、「私はなぜ私なのか」という疑問ではなく、自分が死ぬとはどういうことなのか?全てが無になることか、でも無であることすらわからなくなることか?と3,4歳のころ考えて、怖くなり一人寝かされていた寝床で泣きだし、兄に知らされた母親が来て抱き起こされたたことを覚えています。 >>あと、小学生の頃は離人体験もけっこうありましたし、宇宙が存在することの不思議は、石ころ一つの存在の不思議と全く同じだと感じていました。 >>哲学を始める前は、自分が死んだら世界が終わるのと同じだという考えと、自分が死んでも世界にとってはとるにたらないことだという科学的世界像との非両立性に困っていました。主観的な世界像を、文学的ではなく、何とかロジカルに言語化できないかと思っていました。 >>それと、青年期には後にわかるASDによるものだと思いますが、認識論的独我論の世界を生きていたように思います。 > > 教えていただき、ありがとうございました。 > >>まあ、そうなんですが、一応ここで私がもっぱら考察の対象としているのは、『論考』の独我論、形而上学的主体、世界の限界としての私とは何か?ということですね。 > > ここも、ザビビのふくろうさんに聞きたかったのですがウィトゲンシュタインはどういう理由でもって独我論の主体を「形而上学的主体」と呼んでいるのでしょうか? > 単に世界に属さないという理由からでしょうか? > ちなみに私は〈私〉を形而上学的存在とするのことに凄い違和感があります。 >
う〜ん、私にはむしろ逆に、なぜ違和感があるのかがよくわからないんですよね。 「世界は私の世界である」といった命題は、真偽2値を有する経験命題ではありませんから、科学の対象とはなりえませんよね。 ですが、単なる無意味かと言ったらそうではなく、命題言語が成立する条件となる、すなわち言語が有する必然的性質について述べた必然的真理のわけです。 その意味では論理と同様なのですが、論理と異なり、世界を語る上で、この《私》は全く必要ないわけです。 とは言えその一方で、これが伝統的形而上学が「語ろうとしてきた」ことでもあるのは事実であると。そういう意味で哲学において扱う意味もある、ということだと思うのですね。 そしてこの形而上学的真理をどう示すかというと、実在論的言語(物理的言語)を、現象言語(《私》の言語)に分析・翻訳することによって、 言語=《私》の言語 を示し、これにより 世界(マクロコスモス)=《私》の世界(ミクロコスモス) を示すわけです。 説明になったかわかりませんが、どうでしょうか?
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