□投稿者/ パニチェ -(2023/09/23(Sat) 16:32:16)
| 2023/09/23(Sat) 23:13:52 編集(投稿者)
こんにちは、ザビビのふくろうさん。レスありがとうございます。
■No33438に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
>>素朴に考えれば普遍的、絶対的真理のように思えることには同意しますが、私の感覚からすれば科学的命題は上書きされ続ける運命にあるとは思いますが。。。^^ > ああ、もちろんパニチェさんならそう思われるでしょう。 > ただ、その違いを理由を含めてきっちり言うのは、結構難しかったわけです。
あぁ、そうですね。ありがとうございました。
>>倫理が超越的な語り得なさというのをもう少し詳しく教えてもらえますか? >>個人的には倫理がトートロジーだとか、超越的云々(例えば道徳的法則が我々にはアプリオリに備わっている等々)とは考えてないのですが。。。
> 『論考』が主題とした言語の限界画定の対象となる言語は命題言語、つまり、真偽をはっきり言える文であって、事実か事実でないかと検証可能なことしか語らない文であり、要は事実はどうかってことしか語らない文で、これを科学的言語とみなしたわけです。 > これはカントの『純粋理性批判』に相当するいわば『純粋言語批判」と言われるもので、この言語は、価値的なもの「べき」善悪といったものとかかわらないんです。 > つまり、命題言語とは「である」「でない」しか扱わない言語であり、「であるべき」「であるべからず」はまったく対象外なんですね。 > 命題言語が守備範囲に入れる必然性「ねばならない」etc.は論理的必然性だけなんです。 > 倫理的必然性は善悪という超越的価値と関係しますが、これは命題では表現できず、この必然性を示すこともできないわけです。 > で、カントが『実践理性批判』でこういう道徳的命題を扱ったように、ウィトゲンシュタインの立場では、異なったいわば『倫理的言語ゲーム』が必要になるわけです。 > でも、そのゲームを行う意味は否定しなくても、それは事実か否かを検証・確定可能なものではないから、語り命題のように語っても、無意味だってことです。
なるほど、そういう文脈というか前提でもって必然性を示すことができないので倫理は語り得ないとしてるわけですね。 ちなみにこの『論考』での科学的言語論は後期(言語ゲーム)では破棄されたのですか?それとも(ある部分は残しつつ)上書きされたということでしょうか?
> >>主観により対象化された「私」 > >>思考し表象する主観を〈私〉 (〈私〉=ほかならぬこの私) > >>世界の限界としての《私》 (《私》=比類のない私)
>>No33322の投稿(引用)ありがとうございました。No33289もありがとうございました。 >>上記を読んだ上でも《私》という表記以前に「思考し表象する主観を〈私〉」とするなら、パニチェの〈私〉とは(おそらく永井氏の表記とも)異なる対象だと思います。 >>「思考し表象する主観」というのはコギトのようなものでしょうか?
> 申し訳ないんですけど、少なくとも永井の〈私〉に関しては、哲学的見地から私としてもここはゆずれないとこですね(笑) > 「思考し表象する主観」とは、No33322で中島さんや坂部先生が定義されている表象、つまり、「私が私の前に立てる(定立する)もの」の「私」が表象する主観です。 > あと、No33434の気まぐれさんへのレスにも少し述べました。 > 逆にパニチェさんに私が質問したいのは、永井の〈私〉が「思考し表象する主体」であることを否定する何か理由がありますか?ということです。 > あるのであれば、ぜひ教えてください。
まだ反論するほどザビビのふくろうさんが上記で示した「思考し表象する主観」を理解できていませんので、反論する前(笑)に確認させて下さい。
>>> ■No33322に返信(ザビビのふくろうさんの記事) >>> 日本語では区別がはっきりしないが、ドイツ語の“Erscheinug”(現象)と“Vorstellung”(表象)との区別は明確であり、前者は何ものかの現れという自動詞の名詞化であるが、後者は私が私の前に何ものかを立てるという他動詞の名詞化である。前者は物理現象とも心理現象とも言うように語自体に存在論的な限定はないが、後者は私が私の前に立てるものであり、その操作の限り「ある」という主観的存在の色合いが濃厚になる。
主観が主観の前に立てた時に現れるのが〈私〉という表象ってことでしょうか? 例えばフランシス・クリックが意識(自意識)の説明として持ち出している「開けた時だけ灯る冷蔵庫の庫内灯」のように主観(私)が主観の前に(私の前に)立てた時だけ現れるのが〈私〉である、と。
あと「思考し表象する主観としての〈私〉」と「世界の限界としての《私》」を区別しているのがどういう理由からでしょうか? 「思考し表象する主観としての〈私〉」は世界の限界には存在しないのでしょうか?
>>〈私〉に関して(〈私〉を指し示す文脈からして)「ショーペンハウアー図もマッハ的光景も誰にでも当てはまる図や光景であってその意味では同じだ」という時に、「誰にでも当てはまる」=「一般的」、経験的一般性(偶然的一般性)と、アプリオリ(必然的)な一般性を区別する必要はないと考えているということなんですが、ここはやはり平行線になると思います。
> はい。わかりました。 > ただ、説得は無理は承知で、永井批判においても私にとってはこの違いは重要なポイントなので、説明を思いつけば書くと思いますので、ご了承ください。
了解しました。
>>永井氏のウィトゲンシュタイン解釈に批判的な意見をお持ちだということはこれまでのレス交換で分かりますが、「意識の超難問」や〈私〉に関してはザビビのふくろうさんはどういう見解をお持ちですか? >>またザビビのふくろうさんがどのような対象を〈私〉と表記されているのか興味があります。
> 前にパニチェさんが永井とよく似た自我体験をもっていたということを述べられたとき、リンクされてた文章で、渡辺恒夫先生の研究について触れられていましたよね。 > 私、渡辺先生の著作は編著も含めて何冊か読んでいます。 > 特に、事例研究は、自我体験の心理学的研究論文集である > 『<私>という謎 自我体験の心理学』(新曜社) > に詳しいですが、すごく面白かったです。
タイトルからすると〈私〉を心理学的に解体でしてるという内容でしょうか?
> ただ、わたしの場合は、「私はなぜ私なのか」という疑問ではなく、自分が死ぬとはどういうことなのか?全てが無になることか、でも無であることすらわからなくなることか?と3,4歳のころ考えて、怖くなり一人寝かされていた寝床で泣きだし、兄に知らされた母親が来て抱き起こされたたことを覚えています。 > あと、小学生の頃は離人体験もけっこうありましたし、宇宙が存在することの不思議は、石ころ一つの存在の不思議と全く同じだと感じていました。 > 哲学を始める前は、自分が死んだら世界が終わるのと同じだという考えと、自分が死んでも世界にとってはとるにたらないことだという科学的世界像との非両立性に困っていました。主観的な世界像を、文学的ではなく、何とかロジカルに言語化できないかと思っていました。 > それと、青年期には後にわかるASDによるものだと思いますが、認識論的独我論の世界を生きていたように思います。
教えていただき、ありがとうございました。
> まあ、そうなんですが、一応ここで私がもっぱら考察の対象としているのは、『論考』の独我論、形而上学的主体、世界の限界としての私とは何か?ということですね。
ここも、ザビビのふくろうさんに聞きたかったのですがウィトゲンシュタインはどういう理由でもって独我論の主体を「形而上学的主体」と呼んでいるのでしょうか? 単に世界に属さないという理由からでしょうか? ちなみに私は〈私〉を形而上学的存在とするのことに凄い違和感があります。
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