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No33438 の記事


■33438 / )  Re[7]: 『〈仏教3.0〉を哲学する U 』
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/23(Sat) 13:42:37)
    2023/09/23(Sat) 13:49:24 編集(投稿者)
    パニチェさん、こんにちは。
    レスをありがとうございます。

    No33425に返信(パニチェさんの記事)
    > 2023/09/23(Sat) 09:16:54 編集(投稿者)
    >
    > おはようございます、ザビビのふくろうさん。レスありがとうございます。
    >
    > ■No33286に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    >
    > >>知識不足で思いっきり返信が外れるかもしれませんが。。。
    > >>科学的命題というのは実験を通じて反証可能性を有する命題であり、数学的命題というのは数学的な正誤判定が可能な命題ってことになりますかねぇ〜。
    > >>いや、しかしゲーデル文なんかはどうなるんだか、わけわかめ(笑)。
    >
    >>あくまで『論考』に必要な観点から言えば、命題は、数学・論理学のようなアプリオリかつ分析的な論理的命題と、科学のようなアポステリオリかつ総合的な経験命題にわかれます。
    >>前者は何も語らず、後者こそがウィトゲンシュタインの言う「語る命題」であることになります。
    >>素朴に考えたら、科学的命題も、数学的命題も、普遍的、絶対的真理のようにも思えませんか?
    >
    > 素朴に考えれば普遍的、絶対的真理のように思えることには同意しますが、私の感覚からすれば科学的命題は上書きされ続ける運命にあるとは思いますが。。。^^
    >

    ああ、もちろんパニチェさんならそう思われるでしょう。
    ただ、その違いを理由を含めてきっちり言うのは、結構難しかったわけです。

    >>でも、前者は経験的検証を必要とし、後者は必要としないで証明できるけど、その理由も含めて、これらは根本的に異なる命題だということを、くっきりはっきりさせたということです。(のちに、このくっきりはっきりがぼけてくるようですが)。
    >>これは論理実証主義が『論考』に影響を受けてとった立場で、それ以外は無意味として、いわゆる形而上学的な伝統的哲学陣営との間に亀裂が入ってしまったわけです。
    >
    > なるほど。
    >
    > >>なるほど。やっぱ語り得なさが2種あるように思えます。
    > >>論理と倫理はともにトートロジーである故に語り得ない。
    > >>〈私〉の語り得なさとは差異があるような気がします。
    >
    >>これは永井も言っていたように、超越論的な語り得なさと、超越的語り得なさの二つがあるんです。
    >>倫理は超越的な語り得なさだと思います(トートロジーではありません)。
    >>超越的真理は命題で語ることも示すこともできないと思います。
    >>論理学と数学は分析的真理、命題によって示される(証明される)真理。
    >>これは超越論的と言ってもいいと思います。
    >
    > 倫理が超越的な語り得なさというのをもう少し詳しく教えてもらえますか?
    > 個人的には倫理がトートロジーだとか、超越的云々(例えば道徳的法則が我々にはアプリオリに備わっている等々)とは考えてないのですが。。。
    >

    『論考』が主題とした言語の限界画定の対象となる言語は命題言語、つまり、真偽をはっきり言える文であって、事実か事実でないかと検証可能なことしか語らない文であり、要は事実はどうかってことしか語らない文で、これを科学的言語とみなしたわけです。
    これはカントの『純粋理性批判』に相当するいわば『純粋言語批判」と言われるもので、この言語は、価値的なもの「べき」善悪といったものとかかわらないんです。
    つまり、命題言語とは「である」「でない」しか扱わない言語であり、「であるべき」「であるべからず」はまったく対象外なんですね。
    命題言語が守備範囲に入れる必然性「ねばならない」etc.は論理的必然性だけなんです。
    倫理的必然性は善悪という超越的価値と関係しますが、これは命題では表現できず、この必然性を示すこともできないわけです。
    で、カントが『実践理性批判』でこういう道徳的命題を扱ったように、ウィトゲンシュタインの立場では、異なったいわば『倫理的言語ゲーム』が必要になるわけです。
    でも、そのゲームを行う意味は否定しなくても、それは事実か否かを検証・確定可能なものではないから、語り命題のように語っても、無意味だってことです。

    > >>>>これも同様に図にしている時点で「私」と〈私〉の区別はなくなっています。
    >>>>これはちょっと違って、図5に描かれた世界全体が世界の「限界としての《私》の世界」であって、中に涙型に描かれた視野世界の中にいるのが「私」であり、左端に書かれた黒丸が表象する主体の〈私〉になる感じですかね。
    >
    > >>ごめんなさい。この《私》という表記の意味(〈私〉との差異が)が分りません。
    >>すみませんm(__)m
    >>ついつい断りなく使っちゃいました
    >
    > 全然、大丈夫です。^^
    >
    >>主観により対象化された「私」
    >>思考し表象する主観を〈私〉 (〈私〉=ほかならぬこの私)
    >>世界の限界としての《私》  (《私》=比類のない私)
    >
    >>として区別しました。
    >
    > No33322の投稿(引用)ありがとうございました。No33289もありがとうございました。
    > 上記を読んだ上でも《私》という表記以前に「思考し表象する主観を〈私〉」とするなら、パニチェの〈私〉とは(おそらく永井氏の表記とも)異なる対象だと思います。
    > 「思考し表象する主観」というのはコギトのようなものでしょうか?
    >

    申し訳ないんですけど、少なくとも永井の〈私〉に関しては、哲学的見地から私としてもここはゆずれないとこですね(笑)

    「思考し表象する主観」とは、No33322で中島さんや坂部先生が定義されている表象、つまり、「私が私の前に立てる(定立する)もの」の「私」が表象する主観です。
    あと、No33434の気まぐれさんへのレスにも少し述べました。

    逆にパニチェさんに私が質問したいのは、永井の〈私〉が「思考し表象する主体」であることを否定する何か理由がありますか?ということです。
    あるのであれば、ぜひ教えてください。

    > >>>>マッハ的光景も誰にでも当てはまる光景になります。
    > >>>>そういう意味では図5とマッハ的光景は差異はありません。
    >
    >>>>うーん、ですから、私が述べているのは、その「誰にでも当てはまる」=「一般的」ということに、経験的一般性(偶然的一般性)と、アプリオリ(必然的)な一般性があって、これを区別しないということは、マッハ図とショーペンハウアー図を同一視することで、これはまずいですよ、ってことなんです…。
    >>>>まあ、パニチェさんとしてはどうして納得できないようなので、とりあえず、これは違いの確認ということで置いておきましょうか?
    >
    > >>ここはおそらく平行線になると思いますので、置いておくことに同意します。
    >
    > ■No33322に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    >>以下に引用する内容は、私が前提としている哲学上の基本的知識にあたるもので、ショーペンハウアー図とマッハ図の論理的違いについて、パニチェさんの理解が得られないのも、この知識の共有ができていないことも原因として考えられるのかなとも思います。
    >
    > 〈私〉に関して(〈私〉を指し示す文脈からして)「ショーペンハウアー図もマッハ的光景も誰にでも当てはまる図や光景であってその意味では同じだ」という時に、「誰にでも当てはまる」=「一般的」、経験的一般性(偶然的一般性)と、アプリオリ(必然的)な一般性を区別する必要はないと考えているということなんですが、ここはやはり平行線になると思います。
    >

    はい。わかりました。
    ただ、説得は無理は承知で、永井批判においても私にとってはこの違いは重要なポイントなので、説明を思いつけば書くと思いますので、ご了承ください。

    >
    > ■No33287に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    >
    > >>5図は物自体の世界つまり現象界は意志がつくりだす幻想という構図として同じってことでしょうか?
    >>そういうつもりだったと思うんですが、knowingitselfさんに書いたように、ちょと訂正したほうがいいかなと思います。
    >
    > 失礼しました。No33284で確認しました。
    >
    > >>上記は永井氏がどこで言ってますか?
    >>前掲書227頁からの説明です。
    >
    > ありがとうござました。再読しました。
    >
    >>>>で、5図の自己へと転換する方法は、藤田さんはどちらかと言うとハイデガーに近いスタンスで、山下さんのほうは初期フッサールの現象学的還元から超越論的主観への超出、みたいな感じがします。
    >>>>さらに言えば、山下さんの思想は、私にはむしろショーペンハウアーにそっくりだと思うんですね(笑)
    >>>>慈悲による超越の問題は、ショーペンハウアーの共苦=同情の倫理学が答えになると私は思います。
    >>>>ただ、永井の〈私〉として解釈していると、わからないと思いますが。
    >
    >>いや、私はやっぱり、それでも永井は昔から読んでいるし、ある程度つかめているので、パニチェさんをどうしても永井と同じとしてまず考えちゃうんですよ。パニチェさんの考えをまだつかめていないんで。永井との違いがまだわからないからだと思うんですが。
    >
    > 永井氏の著書は昔から読まれていたのですね。

    ウィトゲンシュタインについて書かれた本が出たら、読まざるをえないですし(笑)
    けっこう売り上げには貢献したと思います。

    > 永井氏のウィトゲンシュタイン解釈に批判的な意見をお持ちだということはこれまでのレス交換で分かりますが、「意識の超難問」や〈私〉に関してはザビビのふくろうさんはどういう見解をお持ちですか?
    > またザビビのふくろうさんがどのような対象を〈私〉と表記されているのか興味があります。
    >

    前にパニチェさんが永井とよく似た自我体験をもっていたということを述べられたとき、リンクされてた文章で、渡辺恒夫先生の研究について触れられていましたよね。
    私、渡辺先生の著作は編著も含めて何冊か読んでいます。
    特に、事例研究は、自我体験の心理学的研究論文集である
     『<私>という謎 自我体験の心理学』(新曜社)
    に詳しいですが、すごく面白かったです。

    ただ、わたしの場合は、「私はなぜ私なのか」という疑問ではなく、自分が死ぬとはどういうことなのか?全てが無になることか、でも無であることすらわからなくなることか?と3,4歳のころ考えて、怖くなり一人寝かされていた寝床で泣きだし、兄に知らされた母親が来て抱き起こされたたことを覚えています。
    あと、小学生の頃は離人体験もけっこうありましたし、宇宙が存在することの不思議は、石ころ一つの存在の不思議と全く同じだと感じていました。
    哲学を始める前は、自分が死んだら世界が終わるのと同じだという考えと、自分が死んでも世界にとってはとるにたらないことだという科学的世界像との非両立性に困っていました。主観的な世界像を、文学的ではなく、何とかロジカルに言語化できないかと思っていました。
    それと、青年期には後にわかるASDによるものだと思いますが、認識論的独我論の世界を生きていたように思います。

    まあ、そうなんですが、一応ここで私がもっぱら考察の対象としているのは、『論考』の独我論、形而上学的主体、世界の限界としての私とは何か?ということですね。






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