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Re[12]: < >の中はなぜ私なのか?
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□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/23(Sat) 11:46:46)
| 気まぐれさん、レスをありがとうございます。 お元気そうで何よりです。 私はいつものように調子が悪くなってニークラに来て、相手してもらって元気になっていくというパターンですね。 だんだん元気になってきました(笑) 暑さがましになってきたこともあると思いますが。
■No33424に返信(気まぐれさんの記事) > ふくろうさん > > おひさしぶりです。 > 元気ですよ〜。 > ふくろうさんも皆さんも元気そうで何より^^ > > 入不二さんの無内包の現実についてはうろ覚えなので、私もよくわかりません。 > ただ、永井の<私>に限って言えば、< >の中は空欄の方がよいと思え、敢えて書くならば、有即無とでも書いた方がよいように思えます。
それは少し西田寄りすぎだと私は思いますね。 西田に「私はなぜ私なのか」って問題意識、ありましたっけ? パニチェさんと大分解釈が異なると思いますので、ご注意ください。
>この空欄は静的なものではなく(そもそもいかなる“もの”でもありませんが(対象化不可))、動的なものと捉え、常に基体性を拒絶する方がよいように思われます。入不二も無内包=全内包みないなことを言っていたような・・・。クヌーザスの反対の一致は入不二の十八番ですから。
私の解釈では、明らかに永井の〈私〉は表象する主観であり、実体性をそなえていると思います(No33322の中島さんの文章を参照願います)。 世界に“存在”あるいは“実質”を付与するのが〈私〉です。 当然、世界の存在に対して先立つわけですから、アプリオリな存在であるはずです。 これは超越論的主観のバリエーションであることを意味します。
> ところで、『仏教を哲学する』は読めていないのですが、こういう話、“私”の話題(<>の中はなぜ私なのか?みたいな)は出ないのですかね? > > これはなかったと思います。 > 永井晋先生は、現象学の方です。顕現せざるものの現象学方面で井筒やアンリコルバンを批判的に研究し、精神的東洋哲学を探究されています。 >
『顕現せざるものの現象学』という題名に魅かれますね…(笑)
> 私は、相変わらず西田哲学と、井筒に感化されてイスラム哲学のイブン・アラビー、その研究者である井筒と同世代のアンリ・コルバンなどを読んでいます。 > アンリコルバンは洋書なので、有志と一緒に少しずつ訳しながら。 >
あらら、すごいじゃないですか! 頑張ってるんですね〜。
> ふくろうさんとの間では恒例の(笑)、おすすめ書籍を記載します。 > まず、以前からお勧めしている井筒の論文「事事無礙・理理無礙-存在解体のあとー」です。『コスモスとアンチコスモス』等に収録されています。個人的には華厳宗はかなり示唆的に思え、井筒の華厳解釈は全体をイメージするのに有用に思えます。 > > あとは西田関係で2冊。こっちのが興味あるかなと思います。 > > ・西平直『西田幾多郎と双面性』 > 井筒、華厳哲学を用いて西田哲学を解説されています。末木剛博先生の『西田幾多郎』も参照されていて面白かったです。ちなみに姉妹編で『井筒俊彦と二重の見』というのもあります。こちらも面白かったですがもう一つ何か欲しいという感じを受けました。 >
最近、自分の考えがかなり明確に固まってきた気がするので、総復習を兼ねて、西田も新しいのも含めてぼちぼち読んでいきたいと思っています。 藤田正勝先生の本を中心に、黒崎先生や、竹村牧男先生などを参考にしながら、『善の研究』からじょじょに読めればなーと、思っています。 ただ、計画通りにいかないのが私の常ですので、どうなるかわかりません( ;∀;)
> ・板橋勇仁『底無き意志の系譜』 > タイトルだけでゾクゾクしません?(笑) > ショーペンハウアーを軸にベーメ、シェリング、(ヘーゲル、)ニーチェ、西田幾多郎を系譜として論じておられます。こちらもかなり刺激になりました。 >
ほー、確かに面白そうですね… > 読みたい本を増やしたくないのは重々承知していますが(笑)、気になったら是非〜。
残念なんですけど、今、あんまりすすめられるのがないんですよ。 なんか、くやしいなあ〜(笑)
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