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No33503 の記事


■33503 / )  Re[11]: 思考し表象する主観
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/24(Sun) 20:24:48)
    パニチェさん、こんばんは。

    うーむ、何度も確認していることですが、やはり理解は得られませんね(笑)
    特に私が残念に思われるのは、平行線というより、パニチェさんが反論を述べておられるところも、そもそも私の見解を理解してもらえた上での反論と思えないところです。
    つまり、失礼な言い方になって申し訳ないんですが、やはりパニチェさんは「表象」と「現象」の区別がきちんとついておられず、そのため、少なくとも私から見たら、パニチェさんの主張は一貫性を欠くものに見えるわけです。
    とは言え、それはパニチェさん自身が読み込んで、自分なりの確固とした『論考』像をもってらっしゃるからだと思うので、これはまあ仕方ないですね。
    無理解はお互いさまということもありますし^^

    なので、今回は、解釈上の反論はあきらめて、永井の主張についてパニチェさんが永井の考えについておっしゃっていることで、テキストに書かれていることからして、さすがにそれは無理があるんじゃないのかな、と私が正直思うところだけを幾つか指摘させてもらいます。
    他はとりあえずスルーしますので、ご了承ください。


    No33473に返信(パニチェさんの記事)

    > >>主観が主観の前に立てた時に現れるのが〈私〉という表象ってことでしょうか?
    > >>例えばフランシス・クリックが意識(自意識)の説明として持ち出している「開けた時だけ灯る冷蔵庫の庫内灯」のように主観(私)が主観の前に(私の前に)立てた時だけ現れるのが〈私〉である、と。
    >
    >>いえ、それは全然違いますね、なるほど、確かに伝わってないんだな(笑)
    >>私の説明より、中島義道さんの解説が、はるかに正確かつわかりよいと思います。
    >
    > ごめんなさい。私には中島さんの解説に関しては私の知識と読解力が不足していることもあり、めちゃめちゃ分かりにくいです。^^;
    > 以下のザビビのふくろうさんの解説の方が遥かに分かりやすいです。
    >
    >>でもまあ、私なりにパニチェさんにわかりよいのではと思える説明をトライしますね。
    >
    > お手間かけます。ありがとうございます。
    >
    >>私、クリックの喩えはよく知らないんですが、たぶんそうじゃなくて、
    >>喩えるなら単純に、(スクリーンに)映写機が映像を映し出すことをモデルにすればわかりやすいと思います。
    >>映像が表象(映しだされるもの)で、映写機が表象する主観=〈私〉(映し出すもの)に対応します。
    >>映し出されたもの(客観)――映すもの(主観)=〈私〉
    >>だから、ショーペンハウアー図の構図(見るもの―見られるもの)と全く同じ構図です。
    >>この喩えのいいところは、映写機は映像の形や形式は与えませんが、映写機が光(映像の実質・存在)を付与し、映像を存在させる、とするところですね。そして、むろん映像の中に映写機は存在しません。
    >>「自我はすでに形式によって満たされた世界の限界をなすことによって、それにいわば実質を、もっと言えば存在を付与するのである。」(『ウィトゲンシュタイン入門』81−82頁)
    >>『論考』の「私」について、永井はこのように述べていますね。これは明らかに永井の〈私〉に改釈したものだと思います。
    >
    > 永井氏が『論考』の「私」について上記のように述べていることには同意しますが、これを永井氏が〈私〉に改釈(多少のオリジナルな加工を伴った解釈)したとは思えません。

    でも、そのちょっと後に、
    「それが『論考』的独我論の真意であり…」
    と書いていますしね。


    > 上記の文脈で永井氏は「『論考』の独我論は一般的自我(誰もが主体としてのあり方においてはそれであるような自我)の独我論にすぎない。(ウィトゲンシュタイン入門 P83)」と述べています。
    >

    いや、それ自体が改釈というより曲解以外のなにものでもありませんね。
    ウィトゲンシュタインは、
    T:5.62 ただ、それは語ることはできず、自らを示しているだけである
    と言ってますから。


    > 以下、永井氏と共通するところはNP、永井氏と共通するかしないか分からない(どこかで記されているかもしれないが知らないし、パニチェオリジナルかもしれない)ところはPと表記します。
    >
    > NP:まず永井氏の「〈私〉の存在の比類なさ」も私の「比類なき先言の<私>」も何かの哲学や思想を上書きしたり、改釈したものではないんです。書籍を読む以前から〈私〉が今、ここにあることに驚き、不思議に感じていたということです。
    >
    > NP:「思考し表象する主観を〈私〉」とした場合、他者と自分が違うと言う意味での「〈私〉=ほかならぬこの私性」はありますが、誰しもが当てはまるモデル(映写機と映像)となり、(〈私〉と他者の関係においての)非対称性が喪失しています(『〈私〉の存在の比類なさ』P.67)。
    >
    > 非対称性こそ〈私〉の本質で独在的性たる所以であり、だからこそショーペンハウアー図を改釈した独我論は誰にでもあてはまる独我論となり下がり、むしろ真の独我論(独在論)を隠蔽していると主張していることから、永井氏の〈私〉とザビビのふくろうさんが示した〈私〉は明らかに異なると思います。
    >
    > >>あと「思考し表象する主観としての〈私〉」と「世界の限界としての《私》」を区別しているのがどういう理由からでしょうか?
    > >>「思考し表象する主観としての〈私〉」は世界の限界には存在しないのでしょうか?
    >
    >>存在しない、と私は考えています。
    >>T:5.631 思考し表象する主体は存在しない。
    >>とウィトゲンシュタインも書いていますし。
    >>「思考し表象する主体は世界の中には存在しないが、限界に存在する」
    >>とも述べていません。
    >>そもそもウィトゲンシュタインは、
    >>T:5.631 主体は世界に属さない。それは世界の限界である。
    >>と言っています。
    >>つまり、主体は「限界に存在する」のではなく、「限界である」のです。
    >>「限界である」とは、論理もまたそうであるように、世界が世界である限り有さねばならない内的・必然的性質であり、本質である、ということです。
    >
    >>「限界に存在する」ということが有意味だと思うのは、ショーペンハウアー図を想定しているからだと思います。語り得ないはずの限界を、絵に描いてしまっているから、そこに存在する、と言えるように思えてしまうわけです。
    >>しかし、もしマッハ図的光景だったら、「限界に存在する」なんていうのは、意味がわからないでしょう。
    >>「区別しているのはどうしてか」という問いに対しては、「全くの別物だから」というのが端的な答えになります。
    >>「思考し表象する主観」が前提とするのは、世界は表象であり、それを主客図式で捉えたものです。
    >>しかし、「世界の限界としての私」は、世界を現象とみなし、《私》は現象の内的・必然的性質であるとみなします。
    >
    > 上記の《私》の方がどちらかと言えば永井氏の〈私〉に近いとは思います。
    > ウィトゲンシュタインも永井氏も、そもそもショーペンハウアー図というのはありえない図としており、

    どこでそんなことを言っているのでしょうか?

    >視野はマッハ的光景と同様の『〈私〉の存在の比類なさ』P28〜29の第6図または第4図としています。

    永井は、はっきり
     「〈私〉は図5の世界のみに〈存在〉する」(『〈私〉の存在の比類なさ』31頁)
    と述べています。また、前にも言いましたが、
    「視野はもちろん図6のような形をしている」に続いて、「そして図6の側面図が図5なのであるから、ウィトゲンシュタイン的な独我論は図5および図6に形象化されている、と言ってよいはずである。」(同註*32頁)と述べています。
    さらにですね、同書138頁において、ショーペンハウアー図を含む図1〜4について、山田友幸氏が
    「図1〜図4はどれもみな端的に不可能な視点からの眺めを描いているように思われる」という批判を述べたことに対して永井はこう答えています。
    「私には、それらの批評は端的に無効であるように思われる。ひとことで言って、哲学的議論において「世界が外から眺めうるものであるかのように」(53頁)表象することはかなり普通のことであり、そこに特に問題があるとは思えないからである」
    これらの発言を見る限り、パニチェさんが「ウィトゲンシュタインも永井氏も、そもそもショーペンハウアー図というのはありえない図としており、」とおっしゃるのは、はっきり言ってかなり無理があると思います。


    > 〈私〉は超リアルであり、形象化されたショーペンハウアー図ではなく、マッハ的光景(フッサール現象学の起点となる光景)の手前、今、ここにあるものです。
    >
    > P:また「比類なき先言の<私>」は鮮度というか濃度があり、言葉にする以前から頽落が始まります。
    > それは扉を開けた時にだけ灯る冷蔵庫の庫内灯のように〈私〉を意識した瞬間に自意識との差異がなくなり頽落するということです。
    > ひょっとすると〈私〉というのは扉を開ける以前の状態がありのままかもしれません。
    > そういうリアルさも固定的な映写機と映像のモデルには感じられません。
    >
    > あと。。。
    >
    > ■No33434に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    >>私の解釈では、明らかに永井の〈私〉は表象する主観であり、実体性をそなえていると思います(No33322の中島さんの文章を参照願います)。
    >>世界に“存在”あるいは“実質”を付与するのが〈私〉です。
    >>当然、世界の存在に対して先立つわけですから、アプリオリな存在であるはずです。
    >>これは超越論的主観のバリエーションであることを意味します。
    >
    > 上記も〈私〉と異なるところです。
    > NP:〈私〉は今、ここにあるだけ、視覚であれば見えてるだけで、世界に何の付与も作用ももたらしません。
    > 「〈仏教3.0〉を哲学するU」のP175で永井氏も「存在しているだけ」と述べていることから、世界に“存在”あるいは“実質”を付与するのは〈私〉ではないです。
    >
    > 強いて言うなら、世界に“存在”あるいは“実質”を付与するのは脳科学で言えば(自)意識であり、唯識で言えば苦を生じせしめる末那識だと思います。
    >

    >>>>まあ、そうなんですが、一応ここで私がもっぱら考察の対象としているのは、『論考』の独我論、形而上学的主体、世界の限界としての私とは何か?ということですね。
    >
    > >>ここも、ザビビのふくろうさんに聞きたかったのですがウィトゲンシュタインはどういう理由でもって独我論の主体を「形而上学的主体」と呼んでいるのでしょうか?
    > >>単に世界に属さないという理由からでしょうか?
    > >>ちなみに私は〈私〉を形而上学的存在とするのことに凄い違和感があります。
    >
    >>う〜ん、私にはむしろ逆に、なぜ違和感があるのかがよくわからないんですよね。
    >>「世界は私の世界である」といった命題は、真偽2値を有する経験命題ではありませんから、科学の対象とはなりえませんよね。
    >>ですが、単なる無意味かと言ったらそうではなく、命題言語が成立する条件となる、すなわち言語が有する必然的性質について述べた必然的真理のわけです。
    >>その意味では論理と同様なのですが、論理と異なり、世界を語る上で、この《私》は全く必要ないわけです。
    >>とは言えその一方で、これが伝統的形而上学が「語ろうとしてきた」ことでもあるのは事実であると。そういう意味で哲学において扱う意味もある、ということだと思うのですね。
    >>そしてこの形而上学的真理をどう示すかというと、実在論的言語(物理的言語)を、現象言語(《私》の言語)に分析・翻訳することによって、
    >>言語=《私》の言語
    >>を示し、これにより
    >>世界(マクロコスモス)=《私》の世界(ミクロコスモス)
    >>を示すわけです。
    >>説明になったかわかりませんが、どうでしょうか?
    >
    > ここは議論が拡散してしまいそうなので現時点では返信は控えておきまが、一言だけ付け加えさせてもらうと。。。
    > P:〈私〉は今、ここに、現実にあるものであって「形而上:感性的経験では知り得ないもの。有形の現象の世界の奥にある、究極的なもの(Oxford Languagesの定義)」ではないってことです。
    >

    なるほど、そういうことですか。
    パニチェさんの違和感というのは了解しました。

    とりあえず、私としては、これまでの議論はストップしてもいいんじゃないかなと思います。
    なので、パニチェさんが言い足りないことなどありましたら遠慮なく述べていただき、それでよければ一応打ち止めということにしましょうか?いかかがですか?



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