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■33940 / inTopicNo.1)  宇宙はもつれでできている
  
□投稿者/ パニチェ -(2023/10/15(Sun) 08:35:44)
    ルイーザ・ギルダー 著『宇宙は「もつれ」でできている』

    アインシュタインが量子力学の不完全性として認めなかった「非局所的長距離相関」の謎をどのような議論を経て物理学者は理解したのかをまとめたドキュメントのような本。

    この本、どこかで誰かに教えてもらったんだけど、どこで誰に紹介されたか忘れてしまった、けど、面白い。
306×466

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■33907 / inTopicNo.2)  Re[31]: ウィトゲンシュタインと音楽
□投稿者/ パニチェ -(2023/10/14(Sat) 07:58:49)
    おはようございます、田秋さん。

    No33904に返信(田秋さんの記事)

    > 《世紀末ウィーンとウィトゲンシュタイン 》岡田 雅勝
    > 北海道大学哲学会『哲学』39号(2003年7月)
    > という論文を見つけました。
    > その中に「彼自身は特別音楽の才能を示したという記録はないが、彼の音楽的素養は彼の思想の最も根深い基盤となっている。彼の哲学的著作にはしばしば音楽が引き合いにされ、特に遺稿の一つ『雑想』には多くの作曲家たちが語られ、それを読むと如何に音楽が彼の思想の基盤となっているかを知ることができる。」
    > とあります。

    > パニチェさん、ザビビのふくろうさん、うましかさんもそう感じますか?

    クラシックに疎いこともあり音楽が思想の基盤になってるかどうか私には分かりません。
    数学は(前期)思想の基盤にはなっているとは思いますが。 ^^;
引用返信/返信 削除キー/
■33904 / inTopicNo.3)  ウィトゲンシュタインと音楽
□投稿者/ 田秋 -(2023/10/13(Fri) 21:58:29)
    2023/10/14(Sat) 05:33:58 編集(投稿者)

    最初に
    knowingitself さんの質問への回答は哲学の雑談17に書きました。

    ウィトゲンシュタインの音楽の才能がどのくらいのものであったのか。いまのところはっきりしたことはわかりません。ウィキペディアの〈ウィトゲンシュタイン〉の項には
    「ルートヴィヒ自身にはずば抜けた音楽の才能はなかった」
    とあります。

    一方、下記のブログには
    https://hiroyukikojima.hatenablog.com/entry/20080305
    「音楽には天賦の才能があったらしい。 その証拠に、ある年、ウィーンフィルが演奏のゲネをやっていると、幼少のウィトゲンシュタインがそれを傍らで聞いていて、「そこのバイオリンは、もっとこれこれの方がいいのでは?」などと演奏に注文をつけたのだそうだ。普通なら、何をこの生意気なガキ、と思われるところだが、それらの演奏へのコメントが逐一全く正しいので、ウィーンフィルの演奏者たちは驚いてしまったのである。つまり、彼は幼少のときにすでに、世界に通用するきわめて繊細な音感を持っていたというわけだ。」
    とあり、ウィキペディアの内容とは乖離があります。

    『秘密の日記』P237には
    「彼自身もクラリネットを演奏したり、口笛の達人であった」
    とあります。
    もしウィトゲンシュタイン自身が自由意志でクラリネットを選択したのなら(日本の中学校などでフルート吹きたいと思って吹奏楽部に入部したら、フルートはもういっぱいいるからあなたクラリネットね、とか言われたりします)、彼はきっと’いい人’です。何故ならクラリネットはビオラと音域が似ている(中音域)からです^^
     ブラームスは同じ曲をビオラでもクラリネットでも演奏できる様、2種類の楽譜を書いてます。ただ、違うところもあり、クラリネットの方がソリスティックで、モーツァルトはクラリネット協奏曲やクラリネット五重奏曲を書いています。

    《世紀末ウィーンとウィトゲンシュタイン 》岡田 雅勝
    北海道大学哲学会『哲学』39号(2003年7月)
    という論文を見つけました。
    その中に「彼自身は特別音楽の才能を示したという記録はないが、彼の音楽的素養は彼の思想の最も根深い基盤となっている。彼の哲学的著作にはしばしば音楽が引き合いにされ、特に遺稿の一つ『雑想』には多くの作曲家たちが語られ、それを読むと如何に音楽が彼の思想の基盤となっているかを知ることができる。」
    とあります。

    パニチェさん、ザビビのふくろうさん、うましかさんもそう感じますか?

    この「雑想」という遺稿は読みたくなりました、と同時に、ますますウィトゲンシュタインに親近感を持ちました。

引用返信/返信 削除キー/
■33885 / inTopicNo.4)  ウィトゲンシュタインと「マタイ」
□投稿者/ knowingitself -(2023/10/12(Thu) 06:27:14)
    田秋さん レスありがとうございます

    >ボクはマタイよりヨハネの方が好きです。短いからです。長すぎる、マタイは!

    時間的な長さは別にしても、マタイよりヨハネの方が好きだというバッハ愛好家はけっこういると聞きます。
    ところで、バッハ通やバッハファンに「無人島に持っていくバッハの曲を一つ」という難しい質問がされることがありますが、田秋さんなら何にしますか?私なら「ロ短調ミサ」です。

    ウィトゲンシュタインが愛したバッハの曲については、よくわかりません。福音書については、最晩年まで親しく会話していた、ケンブリッジ時代の教え子の精神科医に対して、「ヨハネ福音書よりマタイ福音書を好む」と言っていたようです。確かに、ウィトゲンシュタインならマタイ福音書を選びそうだというのは、なんとなくわかります。ルカやヨハネではないだろうと。
引用返信/返信 削除キー/
■33884 / inTopicNo.5)  あるエピソード
□投稿者/ 田秋 -(2023/10/11(Wed) 22:03:32)
    オーストリー=ハンガリー帝国で思い出したエピソード。

    ハンガリー留学時代、ビストロでワインを飲んでいたときのこと、立ち飲みで同じテーブルにいたハンガリー人のオジサンと話になり、ボクが日本人だと知ると
    「もう一度戦争をやろう。今度はイタリア抜きで」

    ハンガリーは戦争で勝ったことがないって言ってました。

    第一次世界大戦ではイタリアは初め中立、後に連合国側に立ったので、第2次世界大戦の時も信用が薄かった・・・のかな???
引用返信/返信 削除キー/
■33858 / inTopicNo.6)  Re[28]: 新たなウィトゲンシュタイン像
□投稿者/ パニチェ -(2023/10/10(Tue) 19:58:35)
    こんばんは、田秋さん。横レスごめんくさい!

    No33856に返信(田秋さんの記事)

    > おはようございます、うましかさん

    > 第6章「ブルシーロフ攻勢の激闘」を先に読みました。
    > >「大変な辛苦」があったようですね。これはいわゆる「ブルシーロフ攻勢」を指すのでしょうか(;´・ω・)

    > その認識は間違いないようですね。
    > 彼がどんな作戦に従事していたのか、その詳細は不明である(P240)。
    > ・1916年6月4日からの約30時間の砲撃が、ロシア側からオーストリア側に始まるわけだが〜(P234)
    > ・二重帝国軍は、北方のルーツクにおいてと同じく、ここでも混乱に満ちた総退却を余儀なくされた。そのさい、多くの兵士を失い、6月12日までに、プランツァー=バルティンには、ウィトゲンシュタインの加わっていた隊列にいるべき、彼の麾下の16000人の将兵のうち、わずか3500人しか残っていなかった(P239)。
    > 捕虜になった兵士もいるから12500人の死傷者がでたというわけではない、とありますが、その時点では取りあえず無事でそこにいる兵士は3500人(2割!5人中1人)だった訳です。

    > 実際にそういう体験をしていないので、ウィトゲンシュタインの心情を身を以て感じ取ることは出来ませんが、やはり、凄まじい恐怖だったろうと思います。

    実際の戦場は地獄なんでしょうね。

    > この本、まだ途中ですが、ウィトゲンシュタインに対する感触が大きく変わりました。生々しい1人の人間として大いに親近感と共感できる部分を持つウィトゲンシュタイン像がボクの中で生まれたように思います。

    哲学宗教日記より充実してるかもしれませんね。

    > それにしても今現在ウクライナやイスラエルで実際にそういう経験をしている兵士や民衆がいることを考えると、人間って何だろうと思います。

    同感です。いつまで続くのか。。。

    > 追記
    > こうしてうましかさんやパニチェさんとこの本について話をしながら本が読めるということは大変有意義なことでありがたいこと、じゃあ〜りませんか。

    これは、これは、チャーリー浜さんではあ〜りませんか!

    (@≧∇≦@)ぶぁっはっはっ!!
引用返信/返信 削除キー/
■33856 / inTopicNo.7)  新たなウィトゲンシュタイン像
□投稿者/ 田秋 -(2023/10/10(Tue) 11:10:01)
    2023/10/10(Tue) 11:18:41 編集(投稿者)

    おはようございます、うましかさん

    第6章「ブルシーロフ攻勢の激闘」を先に読みました。
    >「大変な辛苦」があったようですね。これはいわゆる「ブルシーロフ攻勢」を指すのでしょうか(;´・ω・)

    その認識は間違いないようですね。
    彼がどんな作戦に従事していたのか、その詳細は不明である(P240)。
    ・1916年6月4日からの約30時間の砲撃が、ロシア側からオーストリア側に始まるわけだが〜(P234)
    ・二重帝国軍は、北方のルーツクにおいてと同じく、ここでも混乱に満ちた総退却を余儀なくされた。そのさい、多くの兵士を失い、6月12日までに、プランツァー=バルティンには、ウィトゲンシュタインの加わっていた隊列にいるべき、彼の麾下の16000人の将兵のうち、わずか3500人しか残っていなかった(P239)。
    捕虜になった兵士もいるから12500人の死傷者がでたというわけではない、とありますが、その時点では取りあえず無事でそこにいる兵士は3500人(2割!5人中1人)だった訳です。

    実際にそういう体験をしていないので、ウィトゲンシュタインの心情を身を以て感じ取ることは出来ませんが、やはり、凄まじい恐怖だったろうと思います。

    この本、まだ途中ですが、ウィトゲンシュタインに対する感触が大きく変わりました。生々しい1人の人間として大いに親近感と共感できる部分を持つウィトゲンシュタイン像がボクの中で生まれたように思います。

    それにしても今現在ウクライナやイスラエルで実際にそういう経験をしている兵士や民衆がいることを考えると、人間って何だろうと思います。

    追記
    こうしてうましかさんやパニチェさんとこの本について話をしながら本が読めるということは大変有意義なことでありがたいこと、じゃあ〜りませんか。
引用返信/返信 削除キー/
■33835 / inTopicNo.8)  田秋さんへ(;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2023/10/09(Mon) 17:11:33)
    No.33827(田秋さん)

    >あと1916年7月7日の
    「(しかし、繋がりはつけられるだろう!)言われえないことは、言われえないのだ!」
    論考の最終命題への方向性を見いだせます。註にもそう書いてありますが、ここは註を読む前にそう感じました。


    (*‘∀‘) おお!!

    前日の日記文には、こうありますね。

    >1916年7月6日

    先月は大変な辛苦があった。僕はあらゆる可能な事態についてたくさん考えた。しかし、奇妙なことに、自分の数学的な思考過程と繋がりをつけることができない。<
    〔丸山空大訳, p.118〕

    上でウィトゲンシュタインがいう「先月」つまり1916年6月とは、彼にとって「大変な辛苦」があったようですね。これはいわゆる「ブルシーロフ攻勢」を指すのでしょうか(;´・ω・) p.147〜に「兵士としてのウィトゲンシュタインの経歴」があります。

    https://ja.wikipedia.org/wiki/ブルシーロフ攻勢

    ちなみに、1916年6月の日記・草稿は、『草稿1914-1916』のp.253にある、6月11日の記述のみ。(秘密の)日記にはありませんね。そういえば、以前うましかはこれを引用していました。( No.18490 )

    >1916年6月11日

    神と生の目的との関して私は何を知るか。
    私は知る、この世界があることを。
    私の眼が眼の視野の中にあるように、私が世界の中にいることを。
    世界についての問題となるものを、我々が世界の意義と称することを。
    世界の意義は世界の中にはなく、世界の外にあることを。
    生が世界であることを。
    私の意志が世界にあまねく浸透していることを。
    私の意志が善か悪かであることを。
    従って善と悪は世界の意義と何らかの連関があることを。
    生の意義、即ち世界の意義を我々は神と称することができるのである。
    そして父としての神という比喩をこれに結びつけること。
    祈りとは世界の意義についての思想である。
    世界の出来事を私の意志によって左右するのは不可能であり、私は完全に無力である。
    私は出来事への影響を専ら断念することによって、自分を世界から独立させることができ、従って世界をやはり或る意味で支配しうるのである。<

    〔ウィトゲンシュタイン「草稿1914-1916」,奥雅博 訳、大修館書店 ウィトゲンシュタイン全集1、p.253〜p.254〕


    さて、ウィトゲンシュタインが「自分の数学的な思考過程と繋がりをつけることができない」というのは、いったいどんなものなんでしょうか? 「あらゆる可能な事態」とは?( ;∀;) 謎が謎をうむ… 

    これはもうウィトゲンシュタイン全集1を読むしかない!(。´・ω・)?〔註1〕

    註1:うましかは大●館書店の回し者ではない。


引用返信/返信 削除キー/
■33828 / inTopicNo.9)  Re[26]: アンチポピュリズム
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/10/09(Mon) 16:24:13)
    ちょっと感想。

    【ウィットゲンシュタイン著『論理哲学論考』1921矢野茂樹訳/岩波書店/2003】
    この本読んでいちばん最初感じたのは、
    『おそらくこの本書は、ここに表されている思想――ないしそれに類似した思想――をすでに自ら考えたことのある人だけに理解されるだろう。』ってうところ。
    なんかこの人、エラそ〜、って。「おまえのような小人には理解できないのだ」ってわたし言われてる感じしたのね。
    で、この人、わたしのなかでいっきに嫌いになった。いちおう読んでみたけど、この人の理解しようとすることやめた。

    『問題を感じない人は入ってこないでほしい。』
    みたいだから、ここまでにしとくけど、
    永井ちゃんも同じような人みたいね。

    ニーチェの?を参考に、
    〈万人向きでない書物はつねにエラそ〜臭を放つ書物であり、そこには大人臭がこびりついている〉(悪魔ちゃん)







引用返信/返信 削除キー/
■33827 / inTopicNo.10)  半分読み終えて
□投稿者/ 田秋 -(2023/10/09(Mon) 15:38:00)
    「秘密の日記」の日記の邦訳部分を読み終えました。分量としては本全体の半分に当たります。後ろ半分には日記に関わる周辺の色々な状況が書かれています。

    日記を読み終えて感じるところは沢山あります。一番感じたことは少なくともこの時期、ウィトゲンシュタインは神に祈っているということです。「神が僕とともにいますように」、「神が僕を助けますように」という言葉が随所に見られます。これはボクが本番の前にする「困ったときの神頼み」的なものではなく、それよりずっと真摯なものを感じます。こういうウィトゲンシュタインを「敬虔なクリスチャン」と形容してよいのかどうかわかりませんが、ボクの目にはそう映ります。そこにはやはり戦争という一種異常な世界の中、自分の生命の存続が危ぶまれる境遇の実体験が関係していると思います。

    そういう中
    1916年5月4日の
    「死の近さが僕に生の光をもたらす」
    1916年5月9日
    「死こそが、生にその意味を与える」
    1916年7月24日
    「砲撃される。そして、砲撃のたびに僕の魂はすくんでしまう。僕は、まだこれからも生き続けたい!」
    1916年7月29日
    「昨日、砲撃を受けた。弱気になった!僕は死への不安を感じた。僕は、今、なんとこんな願いを抱いている。生きたい!そして、ひとたび生に執着するなら、それを放棄することは容易ではない。それこそまさに「罪」であり、非理性的であり、生についての間違った理解である。」

    この最後の日記についてはよくわからなところがあります。『それこそまさに「罪」であり』の〈それ〉とは何を指しているのでしょうか?文脈から判断すると「生に執着」することと捉えるのが妥当だと思うのですが、それで合っているでしょうか?
    ボクは、ウィトゲンシュタインの偽らざる本音は「生きたい!」と思うのですが。

    あと1916年7月7日の
    「(しかし、繋がりはつけられるだろう!)言われえないことは、言われえないのだ!」
    論考の最終命題への方向性を見いだせます。註にもそう書いてありますが、ここは註を読む前にそう感じました。
引用返信/返信 削除キー/
■33820 / inTopicNo.11)  アンチポピュリズム
□投稿者/ パニチェ -(2023/10/09(Mon) 09:03:42)
    No33812に返信(うましかさんの記事)
    > さて、この評伝(翻訳本)のp.349〜「第7章 戦争 1914年−18年」中、p.382にはこのようにあります。

    >>ニーチェもまた詩的で警句的である。エマソンを読んでから1ヶ月して、クラカウでニーチェ著作集第8巻を買った。おそらくナウマン書店のライプチヒ版〔グロースオクターフ版〕で8巻にはとりわけ『力への意志』としてまとめられる予定であったものの第一書『アンチクリスト』が含まれていた(26)。この巻にはまた『ヴァーグナーの場合』、『偶像の黄昏』、『ニーチェ対ヴァーグナー』、それに詩が含まれていた。これらの著作の反映や、それとない共鳴を探ってみる価値があるが、ウィトゲンシュタインが次のように言うとき、参照しているのは『アンチクリスト』であるように思われる。<

    > 上記に続いて、マクギネスが引用するのが、1914年12月8日の(秘密の)日記文です。(;´・ω・) また、評伝の原註(26)、p.553には、著者マクギネスへのフォン・ウリフトの指摘として『ツァラトゥストラ』の副題「万人のためのものであり、誰のものでもない書物」があげられていますが、これは『アンチクリスト』序文と同様、『論考』序文や「後期の著作」への反映の一例として考えられ得るということかな(。´・ω・)?

    ************************************

    上記のうましかさんの投稿を見て引用比較したくなりました。



    『理解の問題──われわれが物を書く場合、ただたんに理解されたいと思うだけでなく、同様にまた理解されたくないと思うのも確かである。誰かがこれは理解し難いと言ったとしても、それはまだ全然その書物に対する抗議とはならない。もしかしたら、それこそがその書物の意図に属したことかもしれないのだ、──彼は「どこの誰やら」によって理解されようなどとは欲しなかった。すべての高貴な精神と趣味は、それ自身を伝達しようとする場合、その聴き手をも選ぶものだ。聴き手を選ぶことによって、同時に彼は「それ以外の者」に対して囲いを設ける。文体上の微妙な法則の一切は、ここにその起源を有つ。上述のごとく、それは同時に人を遠ざける、距離をつくる、「出入」を禁じ、理解を禁ずる、──が反面それは、われわれと似たり寄ったりの耳をもつものには耳を開けてやる(悦ばしき知識 第381番)』

    『万人のための、そして何びとのためのものでもない一冊の書(ツァラトゥストラ 副題)』

    『万人向きの書物はつねに悪臭を放つ書物であり、そこには小人臭がこびりついている。(善悪の彼岸 自由な精神30)』



    『この書物を理解してくれるのは、あるいは、自分でここに表現されている思想ないしそれに類似した思想をかつて既に考えたことのある人々だけかもしれない。従ってこの書物は教科書ではない。理解ある読者を一人でも喜ばせることができたなら、この書物の目的は達せられるであろう。(大修館書店「ウィトゲンシュタイン全集1 論理哲学論考P.25序文」)』



    『それにしても、ある新しい問題提起が人々に理解してもらえるためには、どれほどの根気と労力と時間が必要であるか、この間の私は痛感せざるをえなかった。人々は、頑ななまでに新しい問題提起というものに鈍感で、かつ拒絶的である。そして、どういうわけか、問題が世の中で少しでも注目されるようになると、今度は精確に理解しようともせずに、さまざまな角度からその問題の悪口を言って、なんとかそれを旧来の枠組みに押し込めて抹殺してしまおうとする人が、次々と現れるのである。自分にとって異質な問題が存在するということ自体がたえがたいような人々が居るらしいのだ。・・・もし、ここで論じられているような問題が確かに存在し、それを論じる私のやり方に大過がないことが納得できたなら、私は次に、このような問題が人生にとってどういう意味をもつかを、主題に考察していきたい。これまで考えてきた道徳哲学やニーチェに関する問題と交差する地点に、徐々に接近していきたいと思う。・・・だが、問題を感じない人は入ってこないでほしい。ひょっとすると、私はただ特殊な種類の錯覚にとらわれているだけかもしれない──それはありうることだ──が、たとえそうだとしても、それがいかなる錯覚であるかを解明できるのは、同じ種類の錯覚に悩まされた経験がある人だけなのである。(勁草書房刊 永井均著 〈私〉の存在の比類なさ はじめに)』


    みんな同じことを言ってますね。^^

引用返信/返信 削除キー/
■33816 / inTopicNo.12)  Re:比類なき先言の<私>と私的言語
□投稿者/ パニチェ -(2023/10/09(Mon) 07:34:57)
    おはようございます、マジモンさん。レスありがとうございます。

    No33814に返信(マジカルモンキーさんの記事)
    > ■No33801に返信(パニチェさんの記事)
    >>── メモ書き ──

    >>「比類なき先言の<私>」はコンテクスト(背景、状況、場面、文脈)を伴わない。

    >>「比類なき先言の<私>」は言語ゲームに含まれない。

    >>よって「比類なき先言の<私>」は意味をなさず、今ここにあるものを指し示すだけの記号である。

    >>上記の記号とはそれ自身では意味をなさず「比類なき先言の<私>」へ誘導する公案の役割を担う。

    >>「意識の超難問」も上記と同じく、答えを求める問いではなく、「比類なき先言の<私>」に誘導する公案としての役割を果たす。

    >>「比類なき先言の<私>」は私的言語である。

    >>私的言語は言語としての機能を有さないために言語としては成立しないが、記号として成立する表記であるということ。


    > 自分から自分へのアプローチは特別(オリジナル)という事ですね。


    そうですね。

    瞑想や禅定と同じく自己探究には言葉や意味はもちろん、上記の記号さえ必要ないですね。
引用返信/返信 削除キー/

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