□投稿者/ 田秋 -(2023/10/09(Mon) 15:38:00)
| 「秘密の日記」の日記の邦訳部分を読み終えました。分量としては本全体の半分に当たります。後ろ半分には日記に関わる周辺の色々な状況が書かれています。
日記を読み終えて感じるところは沢山あります。一番感じたことは少なくともこの時期、ウィトゲンシュタインは神に祈っているということです。「神が僕とともにいますように」、「神が僕を助けますように」という言葉が随所に見られます。これはボクが本番の前にする「困ったときの神頼み」的なものではなく、それよりずっと真摯なものを感じます。こういうウィトゲンシュタインを「敬虔なクリスチャン」と形容してよいのかどうかわかりませんが、ボクの目にはそう映ります。そこにはやはり戦争という一種異常な世界の中、自分の生命の存続が危ぶまれる境遇の実体験が関係していると思います。
そういう中 1916年5月4日の 「死の近さが僕に生の光をもたらす」 1916年5月9日 「死こそが、生にその意味を与える」 1916年7月24日 「砲撃される。そして、砲撃のたびに僕の魂はすくんでしまう。僕は、まだこれからも生き続けたい!」 1916年7月29日 「昨日、砲撃を受けた。弱気になった!僕は死への不安を感じた。僕は、今、なんとこんな願いを抱いている。生きたい!そして、ひとたび生に執着するなら、それを放棄することは容易ではない。それこそまさに「罪」であり、非理性的であり、生についての間違った理解である。」
この最後の日記についてはよくわからなところがあります。『それこそまさに「罪」であり』の〈それ〉とは何を指しているのでしょうか?文脈から判断すると「生に執着」することと捉えるのが妥当だと思うのですが、それで合っているでしょうか? ボクは、ウィトゲンシュタインの偽らざる本音は「生きたい!」と思うのですが。
あと1916年7月7日の 「(しかし、繋がりはつけられるだろう!)言われえないことは、言われえないのだ!」 論考の最終命題への方向性を見いだせます。註にもそう書いてありますが、ここは註を読む前にそう感じました。
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