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■33010 / inTopicNo.85)  時さんへ
  
□投稿者/ みのり -(2023/09/11(Mon) 21:51:52)
    No33007に返信(時さんの記事)

    >>想像がつかないのですが、質問してみたいことはありますので、もしご覧になっていたらお願いします。
    >
    >>どなたか師の下で瞑想を習われたのですか?
    >
    > 私には瞑想の師はいませんので、誰かの下で瞑想を習ってはいません。
    > 全て、原始仏典の世界観から学んだことなのですね。


    そうでしたか。師につかずに独学での瞑想で書かれていた体験まで行くものなのですね。

    ではありがとうございました。

引用返信/返信 削除キー/
■33007 / inTopicNo.86)  みのりさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/09/11(Mon) 21:18:15)
    みのりさんへ。こんばんは。返信をありがとうございます。

    No33001
    > 想像がつかないのですが、質問してみたいことはありますので、もしご覧になっていたらお願いします。

    > どなたか師の下で瞑想を習われたのですか?

    私には瞑想の師はいませんので、誰かの下で瞑想を習ってはいません。
    全て、原始仏典の世界観から学んだことなのですね。

    > > そして過去に私がホゲホゲーと世間を散策しているときに、そこ(非想非非想処)にもまだ無知があるのですよと、過去に教わったという事です。

    > とてつもなく厳しいのですね。
    > なんかこんな感想で申し訳ないです。

    いえいえ、十分なご感想だと思います。^^

    とてつもなく厳しい・・・ん? とてつもなく 厳しい・・・?

    今から思うと、私がそれを言われたのは、それを言った方の視点(原始基準)での無所有処か非想非非想処あたりを、当時の私がそれをも知らずにホゲホゲとうろついていたころだったのでしょう。。当時の私の感想として、「えっ?何が?無知?問題がないのに、無知?」でしたかね。今から思うとそれはそうですよ。アドヴァイタの境地の獲得をしていた(つもりだった)ので、これ以上はない(問題はない)等と言う感覚でしたから(笑)所謂、観得る人から観れば、知るべきことを知らずに有頂天になっていた愚者でしょう(笑)

    とてつもなく厳しい・・当時は既に「起こるべきことは、起こるべき時に起こる」という事を9割方感じ取っていましたので、厳しいとは思っていませんでしたが、、厳しいのですかね?(笑)よくわかりません。
引用返信/返信 削除キー/
■33001 / inTopicNo.87)  時さんへ
□投稿者/ みのり -(2023/09/11(Mon) 20:08:16)
    時さん、こんばんは。
    レスありがとうございます。

    No32998に返信(時さんの記事)

    > 私個人は、自由意志は存在しないのではないかと考えていますが、その視点で見ると、通常、人は、その自らの自由な意志で何かを取捨選択しながら文明や生活環境等を進化をさせていると同時に、自らも進化していると思い込んでいるのかもしれない。という意味合いで通じるでしょうか?
    >
    > ・自然の中で自らの意志・・自然という一つの全体性の中で、自らの意志という幻想。

    そういうことでしたか。それならわかりました。_(._.)_


    >>無色界定という瞑想をしている時に、どんな感覚になってるのですか?
    >>とても大雑把な質問ですみません。
    >
    > うーん。。あくまでも感覚的なご説明になるのですが、色がない世界の体験ですので、そこには物質感(物質としての感覚的なクオリア)がありません。色自体のない時間や空間の世界の体験や、それを意識しているというその意識自体の体験(一体化?・溶け込む?)世界とでも表現できるでしょうか。そして、それらすらもない(無分別の世界と言われるのですが)それでもまだそこは無分別という分別された世界での体験となりますかね。感覚的には、瞑想が深く進めば進むほど、何かの思いやそこに残った微々たる意識がフォーカスしていた対象自体もが徐々に消えていく感覚でしょうか。。勿論、仏典にはこのような説明はないのですが。

    ご説明ありがとうございます。
    想像がつかないのですが、質問してみたいことはありますので、もしご覧になっていたらお願いします。

    どなたか師の下で瞑想を習われたのですか?

    >>不一不二ですか。パニチェさんのトピにもそのあたり触れられてましたね。
    >>一でもなく二でもないんですね。。
    >>喩えるならゼロ元なのかな。。
    >
    > はい。この不一不二が、上記の無分別と言う、それでもまだ分別された境地なのですね。これも仏典に記載はないのですが、例えるのなら、ゼロ次元、無次元、無分別次元、そしてこの瞑想の境地を原始では、非想非非想処と表現されているようなのです。

    そうなのですね。 その非想非非想処というのは文字でだけでは見たことがありますが、中身としてはまったく想像がつかないです。

    > 例えるならば、二ではなく一である境地が不二一元(アドヴァイタ)で、一でもなく二でもない境地が不一不二(非想非非想処)で、それすらもない処が仏陀の説いていた想受滅となるでしょうか。(原始では、不二一元は説かれていませんし、不一不二という表現もありませんが)
    >
    > そして過去に私がホゲホゲーと世間を散策しているときに、そこ(非想非非想処)にもまだ無知があるのですよと、過去に教わったという事です。

    とてつもなく厳しいのですね。
    なんかこんな感想で申し訳ないです。


引用返信/返信 削除キー/
■32998 / inTopicNo.88)  みのりさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/09/11(Mon) 14:15:34)
    みのりさんへ。こんにちは。返信をありがとうございます。

    No32995
    > > こんな風に、人間は何かをきっかけにしてその自然の中で自らの意志において進化しようとしているのかもしれませんね。そして仮に進化しきった時、人はどのようになるのでしょうかね?きっと自然に還ってしまうんじゃないのかな?なんて考えたりしています^^

    > 自然の中で自らの意志というのがよくわからないです。
    > 自由意志は存在しないと考えられているのに、自らの意志において進化しようとしている、というのは?

    私個人は、自由意志は存在しないのではないかと考えていますが、その視点で見ると、通常、人は、その自らの自由な意志で何かを取捨選択しながら文明や生活環境等を進化をさせていると同時に、自らも進化していると思い込んでいるのかもしれない。という意味合いで通じるでしょうか?

    ・自然の中で自らの意志・・自然という一つの全体性の中で、自らの意志という幻想。

    > > 毎回のごとく、仏教系のお話に流れてしまいがちになりますので、そこは、私の自由意志で止めているつもりなのですが、、、どうも止めきれない場合が多いようで、すみません。m(__)m

    > ぜんぜんかまわないですよ。
    > ただ私が知らないために素っ気ない返事しかできずすみません。

    いえいえ、ありがとうございます。かまわないですよと仰って頂けるだけで十分です。

    > 無色界定という瞑想をしている時に、どんな感覚になってるのですか?
    > とても大雑把な質問ですみません。

    うーん。。あくまでも感覚的なご説明になるのですが、色がない世界の体験ですので、そこには物質感(物質としての感覚的なクオリア)がありません。色自体のない時間や空間の世界の体験や、それを意識しているというその意識自体の体験(一体化?・溶け込む?)世界とでも表現できるでしょうか。そして、それらすらもない(無分別の世界と言われるのですが)それでもまだそこは無分別という分別された世界での体験となりますかね。感覚的には、瞑想が深く進めば進むほど、何かの思いやそこに残った微々たる意識がフォーカスしていた対象自体もが徐々に消えていく感覚でしょうか。。勿論、仏典にはこのような説明はないのですが。

    > 読書が好きではないです。(笑) 

    あら? そうなのですね。^^

    > 不一不二ですか。パニチェさんのトピにもそのあたり触れられてましたね。
    > 一でもなく二でもないんですね。。
    > 喩えるならゼロ元なのかな。。

    はい。この不一不二が、上記の無分別と言う、それでもまだ分別された境地なのですね。これも仏典に記載はないのですが、例えるのなら、ゼロ次元、無次元、無分別次元、そしてこの瞑想の境地を原始では、非想非非想処と表現されているようなのです。

    例えるならば、二ではなく一である境地が不二一元(アドヴァイタ)で、一でもなく二でもない境地が不一不二(非想非非想処)で、それすらもない処が仏陀の説いていた想受滅となるでしょうか。(原始では、不二一元は説かれていませんし、不一不二という表現もありませんが)

    そして過去に私がホゲホゲーと世間を散策しているときに、そこ(非想非非想処)にもまだ無知があるのですよと、過去に教わったという事です。

    > 中論について、今のところは解説書も読もうという気持ちは出てこないです。
    > いつかそんな気分になることもあるかもしれないですけど。。

    了解しました。^^

    > > 最近は割と頻繁に投稿しているのですが、もともと私はロムの方が好みなのですね。これだけ連続の投稿をするのは、win95所有の頃以来です。また機を見てロムに戻るでしょうか。

    > そうなんですね。
    > 私のこの投稿への返信もお気遣いなくにされてください。

    ありがとうございます。了解しましたー。
引用返信/返信 削除キー/
■32995 / inTopicNo.89)  時さんへ
□投稿者/ みのり -(2023/09/11(Mon) 06:58:08)
    時さん、おはようございます。
    レスありがとうございます。

    No32976に返信(時さんの記事)

    > でも、その昔アインシュタインが行ったとされる思考実験で「ん?もしも光の先端で鏡を見たら・・私の顔は映るのか??」といった面白いものがあったとか、なかったとか。
    >
    > そしてこのアインシュタインが思考してたとされる内容は、彼自身が考えたのではなく、そのエネルギーから生まれた二次的なエネルギーなのかも知れないなぁなんて思ったりもできますしね。そしてこの思いも、そのエネルギーの三次的な?と。そして無限退行が始まりそうですね。
    >
    > こんな風に、人間は何かをきっかけにしてその自然の中で自らの意志において進化しようとしているのかもしれませんね。そして仮に進化しきった時、人はどのようになるのでしょうかね?きっと自然に還ってしまうんじゃないのかな?なんて考えたりしています^^

    自然の中で自らの意志というのがよくわからないです。
    自由意志は存在しないと考えられているのに、自らの意志において進化しようとしている、というのは?


    > 学問等の世界では、クオリアという一言で何かを表現しているようですね。クオリアとしか言いようのないあれでしょうか(笑)

    前野さんは、クオリアをイリュージョンなのではないかとされています。
    ただ、私も実感としては、例えばピーマンのつやつやを感じながら切ってますし、いろんな食べ物の食感を楽しんだりしてます。

    > 同じ海(このようなものはないと思いますが)を2人が同時に見たとして、その心に映るクオリアは、厳密には同じではないでしょう。大雑把には同じという事にしなければ、学問は成立しないようにも思えますしね。(誤差のある、厳密ではないクオリアという表現されたそれでしょうか)

    画家や写真家には海のクオリア感覚が優れていることは必須でしょうけれど、海にまつわる研究をする際には優れていなくても問題ないし、そこに拘ると研究は進まなくなってしまいそうですものね。

    > 毎回のごとく、仏教系のお話に流れてしまいがちになりますので、そこは、私の自由意志で止めているつもりなのですが、、、どうも止めきれない場合が多いようで、すみません。m(__)m

    ぜんぜんかまわないですよ。
    ただ私が知らないために素っ気ない返事しかできずすみません。

    >>ところで、時さんは瞑想をされるのですか?
    >
    > はい。最近は思いついたときくらいの頻度ですが、少し前までは良く行っていました。四無量心や四念処や四禅定。無色界定と言われる・・・すみません。また、仏教のお話ですね^^

    無色界定という瞑想をしている時に、どんな感覚になってるのですか?
    とても大雑把な質問ですみません。

    > ところで、みのりさんは読書がお好きなようですのでお尋ねしますが、過去に龍樹の中論という書籍は、読まれたことがあるでしょうか?大乗仏教の始祖の龍樹という人物の思考世界のようですが、勿論、改めてお読みいただく必要はないのですが、もしも過去にお読みになられていたのであれば、軽いご感想でも賜りたく。(笑)

    読書が好きではないです。(笑) 
    知りたいって思いが出た時に買って読むけど、目が疲れたり理解が難しかったりが多く、好きではないけど、知りたい思いで読むという感じです。
    中論、読んでないです。なので感想は出せません。
    『龍樹』という中村元さんの本は以前読みましたが、縁起と無自性で空を説明したいるんだなというのしか記憶になく、本も売ってしまい今はありません。

    > 龍樹の思考世界は、多分・・アドヴァイタ(不二一元)の境地よりも少し上の境地である不一不二の次元だと私は理解しているのですね。みのりさんならば、どのようなご感想を持たれるのかなぁと少し興味が湧きました。まぁ、気が向かれたとき、読みたい書籍がないようなときにでも、暇つぶし程度にでもという感覚です。(ネット上にもあったと思います)

    不一不二ですか。パニチェさんのトピにもそのあたり触れられてましたね。
    一でもなく二でもないんですね。。
    喩えるならゼロ元なのかな。。

    中論について、今のところは解説書も読もうという気持ちは出てこないです。
    いつかそんな気分になることもあるかもしれないですけど。。

    > 最近は割と頻繁に投稿しているのですが、もともと私はロムの方が好みなのですね。これだけ連続の投稿をするのは、win95所有の頃以来です。また機を見てロムに戻るでしょうか。

    そうなんですね。
    私のこの投稿への返信もお気遣いなくにされてください。
引用返信/返信 削除キー/
■32976 / inTopicNo.90)  みのりさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/09/10(Sun) 16:10:20)
    みのりさんへ。こんにちは。返信をありがとうございます。

    No32971に返信(みのりさんの記事)
    > 物質、素粒子という言葉も人間間での決め事なのですが、人間には感知できない音域や光なども含めると一体、世界や宇宙の本当の姿はどういうものなのだろう、と考えてしまいます。

    考え出すと、不思議な世界に迷い込みそうな感覚のときがありますね(笑)

    > なにやらモヤモヤとしたエネルギーのようなものが形という形もなくうごめいているのかなぁ(カントの物自体の私のイメージです)、それを人間が感知すると個別の物や動物、人間としてあるように見える、といったように。
    > などと考えています。
    > それにしたって、じゃあ、そのモヤモヤしたエネルギーのようなものはそもそもなぜあるのか?まで考えるともう人間には解りません。
    > 西洋哲学的にいうと第一原因といったらいいのか、それは人間にはけして知りえないですものね。

    はい。私も同じように思います。きっと人には自然を完全には解明できませんね。それを、エネルギーだ、素粒子だ、ニューロンだ、紐だ、電気信号だ、悟りだ、神だと、何とかでも分別認識しようとしているのでしょうか^^

    でも、その昔アインシュタインが行ったとされる思考実験で「ん?もしも光の先端で鏡を見たら・・私の顔は映るのか??」といった面白いものがあったとか、なかったとか。

    そしてこのアインシュタインが思考してたとされる内容は、彼自身が考えたのではなく、そのエネルギーから生まれた二次的なエネルギーなのかも知れないなぁなんて思ったりもできますしね。そしてこの思いも、そのエネルギーの三次的な?と。そして無限退行が始まりそうですね。

    こんな風に、人間は何かをきっかけにしてその自然の中で自らの意志において進化しようとしているのかもしれませんね。そして仮に進化しきった時、人はどのようになるのでしょうかね?きっと自然に還ってしまうんじゃないのかな?なんて考えたりしています^^

    > それぞれの人が感知する例えば、その瞬間の海の色や質感の違いも、ものすごい膨大な縁がそこに集積されてその人にはそのように感知されていて、同一人物であろうともまったく同じクオリアとして感知することは無いぐらいなのかもしれないと思ったりします。
    > ですから他人であるなら尚更です。

    学問等の世界では、クオリアという一言で何かを表現しているようですね。クオリアとしか言いようのないあれでしょうか(笑)

    同じ海(このようなものはないと思いますが)を2人が同時に見たとして、その心に映るクオリアは、厳密には同じではないでしょう。大雑把には同じという事にしなければ、学問は成立しないようにも思えますしね。(誤差のある、厳密ではないクオリアという表現されたそれでしょうか)

    >>また原始でのお話になりますが、仏陀が説いたとされる瞑想の境地は、九次第定(初禅・二禅・三禅・四禅・空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処・想受滅)と表現するのですが、この中の「空無辺処」が時空の事で、この処を超えると次の「識無辺処」という無限の識の領域という瞑想の境地に至るのですね。つまりは、ご説明の中の「時空間を超えたものが、気づいている何か」・・気づいている何かとは、九次第定で言う空無辺処を超えた識無辺処=無限の識の領域が、純粋意識だと言う事で理解すると、納得できそうですね。

    > そうなのですか。
    > 難しいです。。

    毎回のごとく、仏教系のお話に流れてしまいがちになりますので、そこは、私の自由意志で止めているつもりなのですが、、、どうも止めきれない場合が多いようで、すみません。m(__)m

    > ところで、時さんは瞑想をされるのですか?

    はい。最近は思いついたときくらいの頻度ですが、少し前までは良く行っていました。四無量心や四念処や四禅定。無色界定と言われる・・・すみません。また、仏教のお話ですね^^

    ところで、みのりさんは読書がお好きなようですのでお尋ねしますが、過去に龍樹の中論という書籍は、読まれたことがあるでしょうか?大乗仏教の始祖の龍樹という人物の思考世界のようですが、勿論、改めてお読みいただく必要はないのですが、もしも過去にお読みになられていたのであれば、軽いご感想でも賜りたく。(笑)

    龍樹の思考世界は、多分・・アドヴァイタ(不二一元)の境地よりも少し上の境地である不一不二の次元だと私は理解しているのですね。みのりさんならば、どのようなご感想を持たれるのかなぁと少し興味が湧きました。まぁ、気が向かれたとき、読みたい書籍がないようなときにでも、暇つぶし程度にでもという感覚です。(ネット上にもあったと思います)

    最近は割と頻繁に投稿しているのですが、もともと私はロムの方が好みなのですね。これだけ連続の投稿をするのは、win95所有の頃以来です。また機を見てロムに戻るでしょうか。
引用返信/返信 削除キー/
■32973 / inTopicNo.91)  一つの生命体
□投稿者/ みのり -(2023/09/10(Sun) 14:50:48)
    2023/09/10(Sun) 15:17:03 編集(投稿者)

    宇宙の様々な星たち、大気、地球上の海や山、植物・動物・人間、さまざまなものたちはけしてなんのつながりもなく存在しているのではなく、それぞれに見えない無数の膨大な喩えるなら糸で結ばれていて互いに影響を及ぼし合いながら動いている、一つの生命体なのだと思っています。

    人間が何かを決定する時、した時、人間は自らの意志により決定していると考えますが、私は、膨大な縁がその決定において集積されてその決定になったものだと思っています。
    宇宙は一つの生命体だからです。

    人間は自我思考があるので、個別の意志を持つ一人の人間として自分たちを考えるのだと思います。
    そうした人間観というのは人間間の歴史の中で、自分たちをそうしたものとして捉えてきた集積によるものだと私は思っています。
    ですから、そのような人間観であることは何も間違ってはいないとも思うのです。
    個別の一人の人間が、例えば自分を優れたものにしていこう、他者を思いやれる自分になろうと意欲していくことは素晴らしいと思います。
    こうした意欲というのも、何か「他」とされるものからの影響により発生するものだとは思うのですけどね。^^

    ただ、今ある自分というのが、膨大な縁の集積に拠り成立しているものであることを知る時、自分を誇りすぎたり、プライドが過剰になったりもしずらくなるかもしれないし、また逆に、自分をつまらないもののように卑下する気持ちも薄くなったりするのではないかな、というように私は思うのです。
    また、仮に誰か他の方々がこうした理解をしたとした際、どのように観方や考え方が変化するかもまた人による。。というかそれもまた縁の集積に拠るものなのだと私は思います。


引用返信/返信 削除キー/
■32971 / inTopicNo.92)  時さんへ
□投稿者/ みのり -(2023/09/10(Sun) 14:32:14)
    時さん、こんにちは。
    レスありがとうございます。

    > ルパートスパイラ氏の短いYouTubeを1本だけですが、拝見しました。なるほど、現代版のアドヴァイタと仰っているのが分かりますね。^^

    ご覧になられたのですね。^^

    > 今も考えてみれば脳も含めた物質というものは、究極素粒子の集まりですものね。(笑)そのいわば細かいドット絵を見たという意識、触ったという感触等、全ての認知できることはクオリアであり、クオリアは在るといえばあるし、ないと言えばないですしね。そしてある人が感じ取った赤というクオリアは、他の人と同じ赤のクオリアだとは断言できそうにありませんね。

    物質、素粒子という言葉も人間間での決め事なのですが、人間には感知できない音域や光なども含めると一体、世界や宇宙の本当の姿はどういうものなのだろう、と考えてしまいます。
    なにやらモヤモヤとしたエネルギーのようなものが形という形もなくうごめいているのかなぁ(カントの物自体の私のイメージです)、それを人間が感知すると個別の物や動物、人間としてあるように見える、といったように。
    などと考えています。
    それにしたって、じゃあ、そのモヤモヤしたエネルギーのようなものはそもそもなぜあるのか?まで考えるともう人間には解りません。
    西洋哲学的にいうと第一原因といったらいいのか、それは人間にはけして知りえないですものね。

    それぞれの人が感知する例えば、その瞬間の海の色や質感の違いも、ものすごい膨大な縁がそこに集積されてその人にはそのように感知されていて、同一人物であろうともまったく同じクオリアとして感知することは無いぐらいなのかもしれないと思ったりします。
    ですから他人であるなら尚更です。

    > 途中の御説明の中にある、
    >
    >>哲学的には、「気づいている何か」は自分の中にあるのではなく、時空間を超えたものとしてある、という説明になるのだと思います。
    >
    > また原始でのお話になりますが、仏陀が説いたとされる瞑想の境地は、九次第定(初禅・二禅・三禅・四禅・空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処・想受滅)と表現するのですが、この中の「空無辺処」が時空の事で、この処を超えると次の「識無辺処」という無限の識の領域という瞑想の境地に至るのですね。つまりは、ご説明の中の「時空間を超えたものが、気づいている何か」・・気づいている何かとは、九次第定で言う空無辺処を超えた識無辺処=無限の識の領域が、純粋意識だと言う事で理解すると、納得できそうですね。

    そうなのですか。
    難しいです。。

    ところで、時さんは瞑想をされるのですか?

    > ご回答をありがとうございました。

    どういたしまして、拙い説明でした。
引用返信/返信 削除キー/
■32944 / inTopicNo.93)  みのりさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/09/09(Sat) 12:33:42)
    みのりさんへ。返信をありがとうございます。

    No32939
    > > ・何が何にお任せという事が言われているのでしょうか?

    > 起きることというのは起きるように起きるので、自分的にはできる限りの努力をするなどして心配しないで暮らしていればいい、というようなことです。
    > なるようになっていく、なるようにしかならないとも言い換えられますが。

    > > ・最終的に、何が純粋意識に溶けていくと言われているのでしょうか?

    > まず、非二元の理解の順番というか段階として説明されているものを書きますね。
    > これは、ルパートスパイラさんという非二元の覚者が説明されていたものだそうで、私も実感としてその通りだなと思うので。

    > 第一段階として、身体や心というのは自分ではない、という理解が起きるとされます。
    > それでは何が真の自分なのかというと、「気づいている何か」がそうだというう理解がきます。
    > そしてそれは自分の中のどこかにあるように感じている状態とされます。

    > 次の第二段階では、その「気づいてる何か」これは意識と言い換えてもいいと思うのですが、それを自分の内に探そうとするのですがどこにも見つけることができないのに気づきます。
    > ここの部分はたまたまなのか、受動意識仮説で言われる「意識はイリュージョンである」と重なると思います。

    > そし次に第三段階で、「気づいてるもの」は、時空間を超えたものであるとされます。
    > 哲学的にはこのように表現されるわけですが、イリュージョンであるのが本当であるならどこにも見つけられなくても当然と言えるなぁ、とも思うのです。

    > 次に純粋意識について。
    > 何かに熱中している時を思い浮かべれば誰でも理解可能だと思うのですが、私という意識も無く、ただ周りの状況と一つになり起きることが起きていますよね。
    > そうしたことがいつでもそうである状態を、「純粋意識に溶けていく」というのだと思います。
    > 哲学的には、「気づいている何か」は自分の中にあるのではなく、時空間を超えたものとしてある、という説明になるのだと思います。

    > > ・今まで非二元の理解者と会われた(お話された)事はあるのでしょうか?

    > ありません。
    > 本やブログを読み、YouTubeを観たりしただけです。

    > > ・非二元の理解において、何か生活上での実践も含まれるのでしょうか?それとも読書による知識的な理解という事でしょうか?

    > 最初の頃は坐禅もどきのことをして、思考が流れてきて消えゆくのを見ていたりしましたが今はそういうのもしないですね。
    > 非二元を理解しようとしては特に何も今はしていないです。

    なるほど。。了解しました。

    ルパートスパイラ氏の短いYouTubeを1本だけですが、拝見しました。なるほど、現代版のアドヴァイタと仰っているのが分かりますね。^^

    今も考えてみれば脳も含めた物質というものは、究極素粒子の集まりですものね。(笑)そのいわば細かいドット絵を見たという意識、触ったという感触等、全ての認知できることはクオリアであり、クオリアは在るといえばあるし、ないと言えばないですしね。そしてある人が感じ取った赤というクオリアは、他の人と同じ赤のクオリアだとは断言できそうにありませんね。

    途中の御説明の中にある、

    > 哲学的には、「気づいている何か」は自分の中にあるのではなく、時空間を超えたものとしてある、という説明になるのだと思います。

    また原始でのお話になりますが、仏陀が説いたとされる瞑想の境地は、九次第定(初禅・二禅・三禅・四禅・空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処・想受滅)と表現するのですが、この中の「空無辺処」が時空の事で、この処を超えると次の「識無辺処」という無限の識の領域という瞑想の境地に至るのですね。つまりは、ご説明の中の「時空間を超えたものが、気づいている何か」・・気づいている何かとは、九次第定で言う空無辺処を超えた識無辺処=無限の識の領域が、純粋意識だと言う事で理解すると、納得できそうですね。

    ご回答をありがとうございました。
引用返信/返信 削除キー/
■32939 / inTopicNo.94)  時さんへ
□投稿者/ みのり -(2023/09/09(Sat) 09:56:04)
    時さん、おはようございます。
    投稿ありがとうございます。

    No32936に返信(時さんの記事)
    > みのりさんへ。おはようございます。
    >
    > 非二元(ノンデュアリティ)について、少しお尋ねしたいことが見つかりました。^^
    >
    > No32913
    >>おまかせということですよね。
    >>現代版アドヴァイタではあまり神ということは言われないんです。
    >>最終的には純粋意識に溶けていくというような言い方がされ、つまり、いろいろと心配せずにおまかせで安心して過ごすようになるってことのようです。
    >>神は出てこないけど同じ意味合いなのだろうと思っています。
    >
    > ・何が何にお任せという事が言われているのでしょうか?

    起きることというのは起きるように起きるので、自分的にはできる限りの努力をするなどして心配しないで暮らしていればいい、というようなことです。
    なるようになっていく、なるようにしかならないとも言い換えられますが。

    > ・最終的に、何が純粋意識に溶けていくと言われているのでしょうか?

    まず、非二元の理解の順番というか段階として説明されているものを書きますね。
    これは、ルパートスパイラさんという非二元の覚者が説明されていたものだそうで、私も実感としてその通りだなと思うので。

    第一段階として、身体や心というのは自分ではない、という理解が起きるとされます。
    それでは何が真の自分なのかというと、「気づいている何か」がそうだというう理解がきます。
    そしてそれは自分の中のどこかにあるように感じている状態とされます。

    次の第二段階では、その「気づいてる何か」これは意識と言い換えてもいいと思うのですが、それを自分の内に探そうとするのですがどこにも見つけることができないのに気づきます。
    ここの部分はたまたまなのか、受動意識仮説で言われる「意識はイリュージョンである」と重なると思います。

    そし次に第三段階で、「気づいてるもの」は、時空間を超えたものであるとされます。
    哲学的にはこのように表現されるわけですが、イリュージョンであるのが本当であるならどこにも見つけられなくても当然と言えるなぁ、とも思うのです。

    次に純粋意識について。
    何かに熱中している時を思い浮かべれば誰でも理解可能だと思うのですが、私という意識も無く、ただ周りの状況と一つになり起きることが起きていますよね。
    そうしたことがいつでもそうである状態を、「純粋意識に溶けていく」というのだと思います。
    哲学的には、「気づいている何か」は自分の中にあるのではなく、時空間を超えたものとしてある、という説明になるのだと思います。

    > ・今まで非二元の理解者と会われた(お話された)事はあるのでしょうか?

    ありません。
    本やブログを読み、YouTubeを観たりしただけです。

    > ・非二元の理解において、何か生活上での実践も含まれるのでしょうか?それとも読書による知識的な理解という事でしょうか?

    最初の頃は坐禅もどきのことをして、思考が流れてきて消えゆくのを見ていたりしましたが今はそういうのもしないですね。
    非二元を理解しようとしては特に何も今はしていないです。

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■32936 / inTopicNo.95)  みのりさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/09/09(Sat) 08:18:59)
    みのりさんへ。おはようございます。

    非二元(ノンデュアリティ)について、少しお尋ねしたいことが見つかりました。^^

    No32913
    > おまかせということですよね。
    > 現代版アドヴァイタではあまり神ということは言われないんです。
    > 最終的には純粋意識に溶けていくというような言い方がされ、つまり、いろいろと心配せずにおまかせで安心して過ごすようになるってことのようです。
    > 神は出てこないけど同じ意味合いなのだろうと思っています。

    ・何が何にお任せという事が言われているのでしょうか?
    ・最終的に、何が純粋意識に溶けていくと言われているのでしょうか?
    ・今まで非二元の理解者と会われた(お話された)事はあるのでしょうか?
    ・非二元の理解において、何か生活上での実践も含まれるのでしょうか?それとも読書による知識的な理解という事でしょうか?

    以上の4点になりますが、宜しくお願いします。
引用返信/返信 削除キー/
■32915 / inTopicNo.96)  みのりさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/09/07(Thu) 17:13:48)
    2023/09/07(Thu) 19:47:43 編集(投稿者)

    みのりさんへ。返信をありがとうございます。

    No32913
    > また輪廻をする、解脱には至らない境地だということでしょうか。

    はい。原始の内容での視点でいうのであれば、まだ解脱には至らない境地のようですね。

    > おまかせということですよね。
    > 現代版アドヴァイタではあまり神ということは言われないんです。
    > 最終的には純粋意識に溶けていくというような言い方がされ、つまり、いろいろと心配せずにおまかせで安心して過ごすようになるってことのようです。
    > 神は出てこないけど同じ意味合いなのだろうと思っています。

    はい。同じような内容だと思います。バクティは、絶対神への完全なる帰依と言う意味合いだと思いますので、現代版ではないものには、神という表現が登場するのでしょう。

    > いろいろとお話を聞かせていただいてありがとうございました。^^

    こちらこそ、お付き合いをありがとうございました。^^ ではこの辺で。
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