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No32913 の記事


■32913 / )  時さんへ
□投稿者/ みのり -(2023/09/07(Thu) 16:41:17)
    2023/09/07(Thu) 16:46:17 編集(投稿者)

    時さん、レスありがとうございます。

    >> 薄っすらとした記憶をたどり、今、ネットで調べてみてなのですが、スッタニパータの第五章にある記述がそれに相当しますか?

    >いいえ。それを書いた時に思いの中にあった「私は存在するというこのは妄想ですよ」と言う表現は、中部経典の140経「界分別経」にあるのですね。後は、小部経典の3経「ウダーナ」の1-10の「バーヒヤ」に、「バーヒヤよ、あなたはまさにこの世になく、あの世になく、両者の中間において存在しないのです。」等の訳文があるようです。他にも探せば見つかるように思います。^^

    そうなんですね。ありがとうございます。
    私は読んだことがないのです。

    >私もみのりさんと同じく「生まれてきてよかった」と思えるような世の中になればいいなぁと思います。現実には、難しいのかもしれませんが^^

    そうですよね。 いつかそんな世界になればと思います。
    でも、気候や社会状況など厳しくなってきててたいへんな世界になっていってしまうのかなぁ。。

    >私の場合には、10数年前までは多くの書籍を読んでいましたが、眼が悪くなり、細かい字が読みにくくなりだしてからはほとんど書籍を読んでいませんし、電子書籍も最初はお試しでやった記憶はありますが、感覚的に合わなさそうでしたので利用していませんね。でも、仰るように、電子書籍ならば場所を取りませんので、そう言った意味では良いと思います。ですので今は、興味を引くようなものはもっぱらネットで読んだりしています。

    そうでしたか。ありがとうございます。

    >たくさん読書される方個人の世界では、読むのが普通であり、あまり読書をされない方個人の世界では、読まないのが個人的には普通なのでしょう。でも、両者が入り乱れての各人の視点での世界観=世間でしょうから、、、これも無理くり定義するのならば、世間の普通とは、各人の世界観における最低6割以上の人が行う行為。と、私ならば自身を一応は納得させるでしょうか(笑)

    >つまりは、みのりさん個人はたくさん読書をするのが個人の世界での普通なのですが、みのりさんの世界観に登場する周りの人々は、あまり読書をされない方が多く(6割以上)おられるという事で、その世界観での中では、読書をされない方の人が多いという事ですね。そしてみのりさん個人の世界とは相反して、みのりさんの世界観でそれが普通(6割以上)だとみのりさんが感じるという事でしょう。その普通の人々(読書をしない人々)から見れば、異質(頭だいじょうぶ? みたいに)、気持ち悪いみたいに思われてもおかしなことではないですね。逆に、読書家のみのりさんからすれば、読書をあまりしない人々を、異質と感じても、何も感じなくても良いことですものね。どちらにしても、問題なさそうですよ^^

    >という事で、みのりさんのご認識での「世間の普通ってそうなんだと思う」という事と合致しそうですね。

    >ですので、哲学の世界では、その人物の周りに観念論者が6割以上ならば、その場においては観念論が普通であり、唯物論者が6割以上ならば、その場においては唯物論が普通。天動説が普通の時代には、それが普通であり、地動説の時代では、それが普通ですものね。(笑)

    >なにか趣旨とはずれたややこしげなお話になりましたので、スルーという事でご容赦いただければと思います。

    私はいわゆる読書家ではないのですが、家族や親族の中では相対的にそうなっしまいます。(;^_^A

    >>>私の場合には、今から思うとそのアドヴァイタの境地を知り、ホゲホゲーっと問題のない世界を散策していた時に、原始に詳しい人との出会いがあり、こう言われました。「時さん、そこにはまだ無知が存在しているのですよ」と。・・・問題がないという認識の世界観のはずなのに、まだ何かありそうだなとの予感が起こり、その興味の触手が仏教という道の世界に向いたのですね。(笑)そこで教わった事がもう一つ。「時さん、大乗と原始は違うものですよ」と。。。まぁ、これで原始に関わることになりました。^^そして現在では、何の事を無知だと仰っていたのか、私なり理解できたつもりでいます。一言で「なるほど」です。

    >> 存在している無知ってなんでしょう?
    >> よかったら教えていただけますか。

    >アドヴァイタの境地は、この世での普通の二元と相対する一元の世界観ですので、二元の存在から見れば言わば神の処(視点)という感覚なのですね。でもそこには、うーん。。これ以上の境地がないのかぁ?というぼんやりとした感想を持ちつつ、その当時、でもこれが最高の処なんだろうなと感じていましたが、、、そのような事も忘れていて、そのような事も意識もせずホゲホゲーっと散策しているときにそれを言われたのですが、その方は、原始を数十年学ばれていた方だったようで、(時にとって)運よくその真髄をご存じだったと今から思うとそう思いますが、、、当時の私は、原始も何もほぼ知らなかったのですね。

    >その処(アドヴァイタ獲得の境地)では、まだ現世での神の処なので、輪廻転生の終焉はなされないという事です。これ(アドヴァイタではまだ輪廻の終焉を迎えずに、終焉を迎えないことをも知らずにホゲホゲしている事)を無知と仰ったのだと思います。(不二一元でも次の不一不二でも、その死後には天界への転生で、その天界からも輪廻転生し続けます)

    また輪廻をする、解脱には至らない境地だということでしょうか。

    >原始では、現世での神の処(天界の視点)では、まだ有の世界内ですので、輪廻転生は終焉を迎えないという思想なのですね。つまりは、次世があるという事です。そこでいくら有頂天(不一不二の境地)の体現者で、難しげな顔をしていてもホゲホゲーとしていても、所詮は、その死後には天界に転生するだけで、そこから再度の輪廻転生が続きますよという事ですね。

    はい。

    >「時さん、そこにはまだ無知が存在しているのですよ」の意味は、このようなことだったのだろうと、現在では納得できましたので「なるほど」なのですね。^^

    ありがとうございます。_(._.)_

    >> あ、でも、アドヴァイタと言っても私の場合、現代版のだけですし、境地の理解も知的理解だけで実際にいつでもその境地にいるのでもないです。
    > というのを付け加えます(;^_^A

    >了解しました。^^

    >その境地の理解だけでも大したものだと思います。そして、アドヴァイタ等の境地に至れても、常に自らの意志でそこに留まれるわけではなく、二元の世界に引き戻され、そして再度その境地へと行ったり来たりしつつ、最終的にはその境地に留まってしまっている方は留まっているし、留まっていない方は留まっていないということなのですね。そこに自らの意志で留まることはできませんので、全ては自覚なき運命に身を委ねるという事になりそうですね。そこには、留まるという心の行為もそれを選択する自由意志もありませんしね(笑)

    私はそんなぜんぜんたいしたものではないのですが・・。

    書かれていることはそうですよね。そういうことをそもそもアドヴァイタでは語っているわけで・・。

    >そしてバクティにより、神への帰依という行為が、ある人に結果的に自然選択されたとき、そしてそれが結果的に自然に上手く行ったときには、アドヴァイタという境地に至れるのでしょう。そしてそこには、神しか実在しないという深い理解が自然に生じますね。

    おまかせということですよね。
    現代版アドヴァイタではあまり神ということは言われないんです。
    最終的には純粋意識に溶けていくというような言い方がされ、つまり、いろいろと心配せずにおまかせで安心して過ごすようになるってことのようです。
    神は出てこないけど同じ意味合いなのだろうと思っています。

    >まぁ、これらは、生活の役に立つかは分かりませんが。自らの心を整えるという意味では、大きな助けにはなるようには思います。^^

    なにかせかせかしたり心配しすぎたりして良くなるものでもない、なるようになるさっていうのは気楽でいいですよね。
    私はそうでもないので、これはこれでいいと思ってればそれでいいのかも。
    そのうち自然に変わるかもしれないですし。(笑)


    いろいろとお話を聞かせていただいてありがとうございました。^^
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