□投稿者/ みのり -(2023/09/11(Mon) 20:08:16)
| 時さん、こんばんは。 レスありがとうございます。
■No32998に返信(時さんの記事)
> 私個人は、自由意志は存在しないのではないかと考えていますが、その視点で見ると、通常、人は、その自らの自由な意志で何かを取捨選択しながら文明や生活環境等を進化をさせていると同時に、自らも進化していると思い込んでいるのかもしれない。という意味合いで通じるでしょうか? > > ・自然の中で自らの意志・・自然という一つの全体性の中で、自らの意志という幻想。
そういうことでしたか。それならわかりました。_(._.)_
>>無色界定という瞑想をしている時に、どんな感覚になってるのですか? >>とても大雑把な質問ですみません。 > > うーん。。あくまでも感覚的なご説明になるのですが、色がない世界の体験ですので、そこには物質感(物質としての感覚的なクオリア)がありません。色自体のない時間や空間の世界の体験や、それを意識しているというその意識自体の体験(一体化?・溶け込む?)世界とでも表現できるでしょうか。そして、それらすらもない(無分別の世界と言われるのですが)それでもまだそこは無分別という分別された世界での体験となりますかね。感覚的には、瞑想が深く進めば進むほど、何かの思いやそこに残った微々たる意識がフォーカスしていた対象自体もが徐々に消えていく感覚でしょうか。。勿論、仏典にはこのような説明はないのですが。
ご説明ありがとうございます。 想像がつかないのですが、質問してみたいことはありますので、もしご覧になっていたらお願いします。
どなたか師の下で瞑想を習われたのですか?
>>不一不二ですか。パニチェさんのトピにもそのあたり触れられてましたね。 >>一でもなく二でもないんですね。。 >>喩えるならゼロ元なのかな。。 > > はい。この不一不二が、上記の無分別と言う、それでもまだ分別された境地なのですね。これも仏典に記載はないのですが、例えるのなら、ゼロ次元、無次元、無分別次元、そしてこの瞑想の境地を原始では、非想非非想処と表現されているようなのです。
そうなのですね。 その非想非非想処というのは文字でだけでは見たことがありますが、中身としてはまったく想像がつかないです。
> 例えるならば、二ではなく一である境地が不二一元(アドヴァイタ)で、一でもなく二でもない境地が不一不二(非想非非想処)で、それすらもない処が仏陀の説いていた想受滅となるでしょうか。(原始では、不二一元は説かれていませんし、不一不二という表現もありませんが) > > そして過去に私がホゲホゲーと世間を散策しているときに、そこ(非想非非想処)にもまだ無知があるのですよと、過去に教わったという事です。
とてつもなく厳しいのですね。 なんかこんな感想で申し訳ないです。
|
|