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■33251 / inTopicNo.25)  みのりさんへ
  
□投稿者/ 時 -(2023/09/20(Wed) 17:44:11)
    みのりさんへ。こんにちは。返信をありがとうございます。

    No33245
    > 食厭逆想の修習ですか。
    > 渇愛(貪り)が激減するのですね。

    はい。好物のイチゴの場合はそうですね。好物のイチゴに対する渇愛は激減、消滅します。他も同じ事ですが。残るのは、そこにただイチゴがあるだけ。→美味しいイチゴがあるだけあたりで、それに対するそれ以上の欲は消滅するのではないでしょうか。

    色々な表現がされているようですが、あるとき、弟子たちに向かって「夜食は控えるようになさい」と仏陀は言いますが、その通りに控える者とそうしない者とに分かれます。夜食を控える理由としては「それがあなた方の為になるからです」という事のようです。ただこれだけの一文から読者が何を読み解くかだろうと思います。腹が減るからとか習慣的に今までそうだったから控えないのか?涅槃=心の平穏に向けて必要なことだと捉えるのか?ですね。とりあえずは、原始の中の仏陀との無言での対話です。(笑)

    No32879 に書いてみましたが、幼稚園児の時には砂場の取り合いをしますが、大人になればそれはただの砂場でしょ?あれだけ「砂場こそわが命!砂場での陣取りこそわが使命!」と言わんがばかりの思いがあったのにですね。そのような欲(煩悩)も消滅するような心の変化が起こるのですね。(笑)

    > そうなんですね。 いい香りにうっとりするというようなことも、修行においては煩悩になるということなのでしょうね。

    そうですね。この場合には、花を見て花だと認識するだけ。あー、このような香りだ、いい香りだな、美しい花だな、あたりだけで止まればよいですが、ここで「うっとり」という感情が入り込むと、そこ(香り)に無意識にでも取着している証であり、そこに対する妄想が生起します。その妄想が妄想を呼び、迷妄(物事の道理を知らず、誤りを真実と思い込む事。心の迷いの事)に陥りますね。

    > > 私の理解では、この表現での状態ならば、想受滅です。通常では簡単には至れないと思いますが、みのりさんならば至れるのかもしれませんね。では何故に気絶状態とも言える想受滅を自覚できるのかについては、また機会があれば。

    > 私は絶対ないですよ。(笑) 
    > 深い瞑想は、自分がしようとするとしたら怖いと思ってしまいます。

    例えば、一度、2メートル程の高さからプールに足からでも飛び込んでみる。それに慣れたら、次は3メートルでといった感覚で、徐々に深い瞑想に入り込めれば、何も怖いことは起こりませんし、実際、怖いことはないですよ。(笑)それが怖くないことを知っているのか?知らないのか?の違い、ご存じないから怖いという様にも感じますが。所詮、そのプールの底には、涅槃や解脱という事が書かれてますので、底なしではないですよ。(笑)

    > なぜ気絶状態とも言える想受滅を自覚できるのかについて、これ知りたいです。
    > よかったら教えてください。

    これは、私自身も一応の答えらしきものを感じつつ疑問だったところなのですね。涅槃や想受滅をなぜ認識できるのか?です。

    原始の中で、あるとき弟子の一人が問いかけます。「有想(地水火風の各処等や初禅から非想非非想処まで)ではないのに無想(想受滅)を認識することは可能なのでしょうか?」と。つまりは、どの処にも取着せず、どの処にも何の認識もないのに、それ(想受滅)を認識することは可能なのか?認識できるという事は、どこかの想を有しているのではないか?という問いですが、その問いに対する仏陀の答えは「あり得ます」の一言ですが、兄弟子が自らの体験談として譬えを使っての説明をします。

    木片が燃えるとき、一方では炎が生じ一方では炎が滅ぶのと同じように、一方では、これは有の滅尽たる涅槃だという想が生じ、一方ではその想が滅びました。ですので、この時には、有の滅尽たる涅槃だという想ある者であったのですよ。と。

    もちろん、想受滅自体をそのままでは認識できないと思いますので、どっぷりと想受滅の処を体験しているという現在進行形では認識できません。もしもそれを認識していると言うのであれば、それはイリュージョン(錯覚・幻想・妄想・思い込み・嘘・迷妄)ですが、その時々で、ふっと一瞬、想(有想)が生起するのですね。これは涅槃だと。(この場合には、涅槃と想受滅が同じ地平で描かれているようですね)勿論、ここでも自由意志は効きません(笑)

    そして再度、例えの木片の炎の消えた部分の状態(想受滅)に戻るという事でしょう。木片の炎がある処が有想で炎が消えた処が想受滅の例えですが、その時に一瞬気づくのですね。「ここが涅槃だ、想受滅だ」と。気づけるのは勿論、瞬間であれ有想の時です。ですのでこの兄弟子も仏陀と同じく「あり得ます」と言う答えだったのでしょう。

    「ある」ではなくて「あり得ます」です。なぜならば、仏陀たちが「ある」と言い切ってしまうと、それを聞いた弟子が、現在進行形での想受滅を体験していると言う誤認での幻想体験になるからですね。この場合には、この弟子は仏陀の説いた涅槃や想受滅を体得できないことになりますから。

    ですので、九次第定(初禅・二禅・三禅・四禅・空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処・想受滅)の順番通りに進まなければ、想受滅には至れないというのでもありません。

    > 自分なりに例で考えてみますね。
    > エアコンはついていてもあまり涼しくない部屋にいて、さらに温度設定を下げ快適になります。
    > しばらくすると寒すぎてきて、また温度設定を上げると快適になります。
    > 温度設定を下げたり上げたりを繰り返しすることが実際にあります。(笑)

    エアコンの例で言うと、その通りです。みのりさんの自由意志(笑)で、温度の上げ下げを自らで行い快適な状態を保とうとしますね。しかし、学ばなければ、通常での我々凡夫は、そこ(世間=一切皆苦)から抜け出せないという状態です。そして抜け出せなければ、苦しみの輪廻転生を繰り返すという思想のようですね。

    原始の世界観は現代日本と比較して、非常識そのものです。言い換えると、極端にシンプルな世界観だと感じます。着ていた衣は、虻や蛇除け、暑さ除け等が目的ですし、村を廻って得た食事は、最低限度身体を維持するだけのものを摂取していたようですし、おまけに余った食事は、草木を避けて土や水中に還していたようですしね。

    つまりは、ここでいうエアコンの温度設定という基準のものがありませんで、エアコンの温度設定という基準の代わりに、自由意志でのコントロールの範疇にはない、無常なる自らの心の内の三受(苦・楽・不苦不楽)を基準にします。

    > この無知とはどういうものなのでしょうか?
    > これも前に聞いたことがあるのですが、はっきりとしたことを記憶していないのです。
    > 平穏さになんとなく物足りなさを感じるというようなことだったかなぁ。。

    原始では、楽(快)・苦(不快)・不苦不楽と感受は一応の分類をされていますが、楽(快)な時には貪りが生じ、苦(不快)な時には、瞋恚(怒り)や悩み等が生じます。その中間の不苦不楽には無知(愚痴)が潜在します。

    この場合の無知(愚痴)とは、仏陀の教えである、涅槃や解脱をこの状態ではまだ体得できていませんので、その処(不苦不楽)でホゲホゲしているから(仏陀視点で)無知なのですね。無知(愚痴)では無くなるときがあるとするならば、解脱や涅槃の体得時となるでしょうか。つまりは、苦の滅尽がされたときですね。そしてこの時には無知(不苦不楽)ではなくなっています。

    原始の中での説明の一つでは、涅槃は(貪欲の滅尽、瞋恚の滅尽、愚痴の滅尽)と定義されています。貪欲の滅尽のためには快(楽)を、瞋恚(怒り)の滅尽のためには不快(苦)を、そして無知(愚痴)の滅尽のためには四聖諦を知り、迷妄からの離脱が説かれているのですね。そのために行われるのが、煩悩の根を根こそぎ根絶やしにする、四禅定という瞑想です。

    細かいことを書き出すと、貪欲(激しく求める欲望)、瞋恚(人を害する心や悪意を持つこと)愚痴(無明、迷妄のこと)。愚痴の中の無明(四聖諦を知らないこと)、迷妄(物事の道理を知らず、誤りを真実と思い込む事。心の迷いの事)等々、文字にするとややこしいですね。

    これらを書いたり記憶することには何の意味もないと思いますが、これを達成するために行われるメインのものが、四聖諦の中の一つ道聖諦(八支聖道)だという理解です。

    調子に乗ってつらつらと書いていますが、ご興味のない箇所、全てかも?があればスルーという事でお願いします。m(__)m
引用返信/返信 削除キー/
■33293 / inTopicNo.26)  時さんへ
□投稿者/ みのり -(2023/09/21(Thu) 15:04:15)
    2023/09/21(Thu) 15:13:02 編集(投稿者)

    時さん、こんにちは。
    レスありがとうございます。

    No33251に返信(時さんの記事)

    > はい。好物のイチゴの場合はそうですね。好物のイチゴに対する渇愛は激減、消滅します。他も同じ事ですが。残るのは、そこにただイチゴがあるだけ。→美味しいイチゴがあるだけあたりで、それに対するそれ以上の欲は消滅するのではないでしょうか。

    時さんはイチゴが好物なのですか?^^
    というのはともかくとして、書いていただいたこと了解です。

    > 色々な表現がされているようですが、あるとき、弟子たちに向かって「夜食は控えるようになさい」と仏陀は言いますが、その通りに控える者とそうしない者とに分かれます。夜食を控える理由としては「それがあなた方の為になるからです」という事のようです。ただこれだけの一文から読者が何を読み解くかだろうと思います。腹が減るからとか習慣的に今までそうだったから控えないのか?涅槃=心の平穏に向けて必要なことだと捉えるのか?ですね。とりあえずは、原始の中の仏陀との無言での対話です。(笑)

    夜食を控えるお話があったのは少し驚きです。
    托鉢でいただいたものをかつかつにしか食べないのが当たり前のように想像していましたので。
    涅槃に向けて生活のすべてを整えていく、というのが基本だったのでしょうね。

    > No32879 に書いてみましたが、幼稚園児の時には砂場の取り合いをしますが、大人になればそれはただの砂場でしょ?あれだけ「砂場こそわが命!砂場での陣取りこそわが使命!」と言わんがばかりの思いがあったのにですね。そのような欲(煩悩)も消滅するような心の変化が起こるのですね。(笑)

    大人は砂場はいらないでしょうけど、経済力や社会的地位などには執着して苦しむというのは十分にありますものね。

    > そうですね。この場合には、花を見て花だと認識するだけ。あー、このような香りだ、いい香りだな、美しい花だな、あたりだけで止まればよいですが、ここで「うっとり」という感情が入り込むと、そこ(香り)に無意識にでも取着している証であり、そこに対する妄想が生起します。その妄想が妄想を呼び、迷妄(物事の道理を知らず、誤りを真実と思い込む事。心の迷いの事)に陥りますね。

    はい。

    > 例えば、一度、2メートル程の高さからプールに足からでも飛び込んでみる。それに慣れたら、次は3メートルでといった感覚で、徐々に深い瞑想に入り込めれば、何も怖いことは起こりませんし、実際、怖いことはないですよ。(笑)それが怖くないことを知っているのか?知らないのか?の違い、ご存じないから怖いという様にも感じますが。所詮、そのプールの底には、涅槃や解脱という事が書かれてますので、底なしではないですよ。(笑)

    そうなんですか。 いやでもやはり、日常の中で苦を減らす意識で過ごすぐらいにしておきます。^^

    >>なぜ気絶状態とも言える想受滅を自覚できるのかについて、これ知りたいです。
    >>よかったら教えてください。
    >
    > これは、私自身も一応の答えらしきものを感じつつ疑問だったところなのですね。涅槃や想受滅をなぜ認識できるのか?です。
    >
    > 原始の中で、あるとき弟子の一人が問いかけます。「有想(地水火風の各処等や初禅から非想非非想処まで)ではないのに無想(想受滅)を認識することは可能なのでしょうか?」と。つまりは、どの処にも取着せず、どの処にも何の認識もないのに、それ(想受滅)を認識することは可能なのか?認識できるという事は、どこかの想を有しているのではないか?という問いですが、その問いに対する仏陀の答えは「あり得ます」の一言ですが、兄弟子が自らの体験談として譬えを使っての説明をします。
    >
    > 木片が燃えるとき、一方では炎が生じ一方では炎が滅ぶのと同じように、一方では、これは有の滅尽たる涅槃だという想が生じ、一方ではその想が滅びました。ですので、この時には、有の滅尽たる涅槃だという想ある者であったのですよ。と。
    >
    > もちろん、想受滅自体をそのままでは認識できないと思いますので、どっぷりと想受滅の処を体験しているという現在進行形では認識できません。もしもそれを認識していると言うのであれば、それはイリュージョン(錯覚・幻想・妄想・思い込み・嘘・迷妄)ですが、その時々で、ふっと一瞬、想(有想)が生起するのですね。これは涅槃だと。(この場合には、涅槃と想受滅が同じ地平で描かれているようですね)勿論、ここでも自由意志は効きません(笑)
    >
    > そして再度、例えの木片の炎の消えた部分の状態(想受滅)に戻るという事でしょう。木片の炎がある処が有想で炎が消えた処が想受滅の例えですが、その時に一瞬気づくのですね。「ここが涅槃だ、想受滅だ」と。気づけるのは勿論、瞬間であれ有想の時です。ですのでこの兄弟子も仏陀と同じく「あり得ます」と言う答えだったのでしょう。

    なるほどです。体験している最中にはわからないけれど、一瞬、想受滅から有想に戻った時に気づけるということなのですね。

    > 「ある」ではなくて「あり得ます」です。なぜならば、仏陀たちが「ある」と言い切ってしまうと、それを聞いた弟子が、現在進行形での想受滅を体験していると言う誤認での幻想体験になるからですね。この場合には、この弟子は仏陀の説いた涅槃や想受滅を体得できないことになりますから。

    現在進行形の想受滅を体験しているその時に気づくというのは不可能なのに、それを求めてしまう、それができるのだと勘違いしてしまったら体得できなくなってしまう、ということですね。

    > ですので、九次第定(初禅・二禅・三禅・四禅・空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処・想受滅)の順番通りに進まなければ、想受滅には至れないというのでもありません。
    >
    >>自分なりに例で考えてみますね。
    >>エアコンはついていてもあまり涼しくない部屋にいて、さらに温度設定を下げ快適になります。
    >>しばらくすると寒すぎてきて、また温度設定を上げると快適になります。
    >>温度設定を下げたり上げたりを繰り返しすることが実際にあります。(笑)
    >
    > エアコンの例で言うと、その通りです。みのりさんの自由意志(笑)で、温度の上げ下げを自らで行い快適な状態を保とうとしますね。しかし、学ばなければ、通常での我々凡夫は、そこ(世間=一切皆苦)から抜け出せないという状態です。そして抜け出せなければ、苦しみの輪廻転生を繰り返すという思想のようですね。

    はい。

    > 原始の世界観は現代日本と比較して、非常識そのものです。言い換えると、極端にシンプルな世界観だと感じます。着ていた衣は、虻や蛇除け、暑さ除け等が目的ですし、村を廻って得た食事は、最低限度身体を維持するだけのものを摂取していたようですし、おまけに余った食事は、草木を避けて土や水中に還していたようですしね。

    そこまで徹底は無理でしょうけど、世界がどんどん貧しくならざるをえない昨今ですし、そういうシンプルなところに戻るしか、そしてそれを苦しみとは思わず過ごすしかなくなっていきそうですよね。
    なんか皆で修行する世の中がスタンバイしつつあったりして。(;^_^A
    私はけっこうそれは大丈夫かもですよ。 質素、平気です。(笑)

    > つまりは、ここでいうエアコンの温度設定という基準のものがありませんで、エアコンの温度設定という基準の代わりに、自由意志でのコントロールの範疇にはない、無常なる自らの心の内の三受(苦・楽・不苦不楽)を基準にします。
    >
    >>この無知とはどういうものなのでしょうか?
    >>これも前に聞いたことがあるのですが、はっきりとしたことを記憶していないのです。
    >>平穏さになんとなく物足りなさを感じるというようなことだったかなぁ。。
    >
    > 原始では、楽(快)・苦(不快)・不苦不楽と感受は一応の分類をされていますが、楽(快)な時には貪りが生じ、苦(不快)な時には、瞋恚(怒り)や悩み等が生じます。その中間の不苦不楽には無知(愚痴)が潜在します。
    >
    > この場合の無知(愚痴)とは、仏陀の教えである、涅槃や解脱をこの状態ではまだ体得できていませんので、その処(不苦不楽)でホゲホゲしているから(仏陀視点で)無知なのですね。無知(愚痴)では無くなるときがあるとするならば、解脱や涅槃の体得時となるでしょうか。つまりは、苦の滅尽がされたときですね。そしてこの時には無知(不苦不楽)ではなくなっています。

    そうなんですね。不苦不楽なら上出来というか良い状態にも思えるけど、解脱して苦の滅尽に至らないと無知はなくならないということなのですね。

    > 原始の中での説明の一つでは、涅槃は(貪欲の滅尽、瞋恚の滅尽、愚痴の滅尽)と定義されています。貪欲の滅尽のためには快(楽)を、瞋恚(怒り)の滅尽のためには不快(苦)を、そして無知(愚痴)の滅尽のためには四聖諦を知り、迷妄からの離脱が説かれているのですね。そのために行われるのが、煩悩の根を根こそぎ根絶やしにする、四禅定という瞑想です。
    >
    > 細かいことを書き出すと、貪欲(激しく求める欲望)、瞋恚(人を害する心や悪意を持つこと)愚痴(無明、迷妄のこと)。愚痴の中の無明(四聖諦を知らないこと)、迷妄(物事の道理を知らず、誤りを真実と思い込む事。心の迷いの事)等々、文字にするとややこしいですね。
    >
    > これらを書いたり記憶することには何の意味もないと思いますが、これを達成するために行われるメインのものが、四聖諦の中の一つ道聖諦(八支聖道)だという理解です。

    道聖諦(八支聖道)というのは、八正道でいいですか?

    > 調子に乗ってつらつらと書いていますが、ご興味のない箇所、全てかも?があればスルーという事でお願いします。m(__)m

    いえいえ、勉強になり嬉しいです。
    苦から離れ、とりあえずいつも平穏な精神で過ごせたらいいなぁ、というのは思います。
    仏教を知り何か立派な人間になろうみたいに思うのは我であり違う話になってしまうと思うのですが、細々と切実に(?)、地道にやっていき、いつも平穏でいられたらというのはほんとに思います。
引用返信/返信 削除キー/
■33338 / inTopicNo.27)  みのりさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/09/21(Thu) 19:53:33)
    みのりさんへ。こんばんは。レスをありがとうございます。

    No33293
    > 夜食を控えるお話があったのは少し驚きです。
    > 托鉢でいただいたものをかつかつにしか食べないのが当たり前のように想像していましたので。
    > 涅槃に向けて生活のすべてを整えていく、というのが基本だったのでしょうね。

    はい。仏陀は一貫して苦と苦の滅尽を説いていたようですね。ですので、涅槃や解脱に向けての教えとなるのでしょうね。

    > そうなんですか。 いやでもやはり、日常の中で苦を減らす意識で過ごすぐらいにしておきます。^^

    了解です^^

    > なるほどです。体験している最中にはわからないけれど、一瞬、想受滅から有想に戻った時に気づけるということなのですね。

    その通りです。

    > 現在進行形の想受滅を体験しているその時に気づくというのは不可能なのに、それを求めてしまう、それができるのだと勘違いしてしまったら体得できなくなってしまう、ということですね。

    はい。これもその通りです。

    > そこまで徹底は無理でしょうけど、世界がどんどん貧しくならざるをえない昨今ですし、そういうシンプルなところに戻るしか、そしてそれを苦しみとは思わず過ごすしかなくなっていきそうですよね。
    > なんか皆で修行する世の中がスタンバイしつつあったりして。(;^_^A
    > 私はけっこうそれは大丈夫かもですよ。 質素、平気です。(笑)

    もしかしたら、そのようになるかもですね。。
    でも、皆で仏陀の言う修業をしたら、皆が木の下で瞑想にふけるような気が、、食事関係はどうしましょうか?(笑)冗談はさておき、贅沢三昧も良いかもしれませんが、質素も良いですね。^^

    > そうなんですね。不苦不楽なら上出来というか良い状態にも思えるけど、解脱して苦の滅尽に至らないと無知はなくならないということなのですね。

    はい。通常の感覚では、不苦不楽の境地に至れれば十分だと思います。これは多少の誤解を生む可能性のあることなのですが、不苦不楽について書きましたことは、あくまでも原始仏教という基準の括りの中でのお話なのですね。この中の基準では、不苦不楽ではまだ無知が残っているので、輪廻の終焉はまだ迎えないのですよとなるという事だと理解しています。

    > 道聖諦(八支聖道)というのは、八正道でいいですか?

    はい。八正道、八支聖道、八聖道等、(多分)同じ事だと思います。

    > いえいえ、勉強になり嬉しいです。
    > 苦から離れ、とりあえずいつも平穏な精神で過ごせたらいいなぁ、というのは思います。
    > 仏教を知り何か立派な人間になろうみたいに思うのは我であり違う話になってしまうと思うのですが、細々と切実に(?)、地道にやっていき、いつも平穏でいられたらというのはほんとに思います。

    そうですね。仏教の目的を一つに絞るのであれば、仰るように日々の生活を平穏な精神で過ごせる事でしょう。そして、仏教を知って立派な人になろうというのは、仏教を正しく学べていないように思いますね。仏教を知るならば、立派な人にはなれないことは理解できているはずだと思うのですが。。(笑)

    アドヴァイタや自由意志に続いて、今回も対話を楽しめました。ありがとうございました。
引用返信/返信 削除キー/
■33423 / inTopicNo.28)  時さんへ
□投稿者/ みのり -(2023/09/23(Sat) 07:19:42)
    時さん、レスありがとうございます。

    No33338に返信(時さんの記事)


    >>そうなんですね。不苦不楽なら上出来というか良い状態にも思えるけど、解脱して苦の滅尽に至らないと無知はなくならないということなのですね。
    >
    > はい。通常の感覚では、不苦不楽の境地に至れれば十分だと思います。これは多少の誤解を生む可能性のあることなのですが、不苦不楽について書きましたことは、あくまでも原始仏教という基準の括りの中でのお話なのですね。この中の基準では、不苦不楽ではまだ無知が残っているので、輪廻の終焉はまだ迎えないのですよとなるという事だと理解しています。

    わかりました。^^
    では、私は輪廻からの離脱を目指してはいないので、不苦不楽の境地でいられるよう、でも、それを求めることが逆に苦しみにならないようにしていこうと思います。
    >>道聖諦(八支聖道)というのは、八正道でいいですか?
    >
    > はい。八正道、八支聖道、八聖道等、(多分)同じ事だと思います。

    ありがとうございます。

    > そうですね。仏教の目的を一つに絞るのであれば、仰るように日々の生活を平穏な精神で過ごせる事でしょう。そして、仏教を知って立派な人になろうというのは、仏教を正しく学べていないように思いますね。仏教を知るならば、立派な人にはなれないことは理解できているはずだと思うのですが。。(笑)

    どこまでも自分の渇愛に気づき続けないといけないことからすれば、立派な人になりたいが渇愛ですものね。

    > アドヴァイタや自由意志に続いて、今回も対話を楽しめました。ありがとうございました。

    こちらこそありがとうございました。_(._.)_
引用返信/返信 削除キー/
■33540 / inTopicNo.29)  よさこいソーラン
□投稿者/ みのり -(2023/09/26(Tue) 20:50:25)
    幼稚園の体操着を着た、お兄ちゃんと弟だと思う二人がお母さんといっしょにドラッグストアにいた。

    二人のうちのどっちかが、「そやそやそやそや」って言い始めた。

    「ん? そやそやそやそやってなに? もしやよさこいソーランかな?」と私が心の中で思ったら、
    片方が「よさこい?」ともう片方に訊いていた。
    弟が兄に訊いてたのか、逆なのかは不明。。

    いや〜、何かめっちゃ可愛かったな〜。

    でも、「そやそやそやそや」じゃなく、「そいやそいやそいやそいや」だとは思うんだ、とその時に思ったのさ。(笑)

    まぁ園児だし、「そやそやそやそや♪」でOKだわね。

    うちのもう大人になりきってる息子も、学校の運動会、学習発表会で何度もよさこいソーランはしてたな。

    どっこいしょ〜どっこいしょって。


    今、幼稚園で、マツケンサンバ玉入れってのが流行してるそうなのね。

    マツケンのかっこした先生が籠しょってクルクル踊ってるところに園児たちがお手玉を投げ入れる。
    曲のサビ部分になると、園児たちもいったん玉入れをやめて、マツケンサンバを踊り出し、それが終わるとまた玉入れを始めるそうなのだ。

    想像すると可愛いなぁ。

    マツケンサンバって人を幸せにするね。

    あ、タイトルは、よさこいだったのに、いつの間にかマツケンサンバで閉めるようじゃんじゃん。
引用返信/返信 削除キー/
■33567 / inTopicNo.30)  マルクス・ガブリエル
□投稿者/ みのり -(2023/09/28(Thu) 08:12:44)
    世界はなぜあるのか、あるというのはどういうことか、などを考えていた時、いや、けっこうよくこれは考えてしまうことなのだけど、そんなことがふと思いうかんできて、Amazonの本屋さんをあちこち覗いていた時、
    『世界はなぜ存在しないのか』という本があるのを知った。
    その著者がタイトルにしたマルクス・ガブリエル。

    世界は存在しない? なぜ存在しないのか?
    って、刺激的な観方だと思い、興味は津々だったけど、その時、その本をポチるまではいかなかった。

    たまたま最近購入してパラパラと読んでいた『哲学名著の50冊が1冊でざっと学べる』岡本一郎 著 で一番最終に紹介されていたのがマルクス・ガブリエルだった。
    この本を購入した理由は、自分が興味を持ち、読んで理解することができ、
    なおかつ自分の考えと遠くはない哲学者を見つけられたらいいな、というウィンドウショッピング的感覚♪で。

    ガブリエルの世界観はウィトゲンシュタインの影響を受けているよう。

    この概説本のガブリエルのところを次回少しまとめてみようと思います。

引用返信/返信 削除キー/
■33576 / inTopicNo.31)  Re[29]: マルクス・ガブリエル
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/09/28(Thu) 19:56:17)
    みのりさん、ちょとお邪魔します。

    >世界はなぜあるのか、あるというのはどういうことか<
    >世界はなぜ存在しないのか<
    どうしてこんなこと考えるのかわかんないから、関心ある。
    っていうのは、「世界」、メルポンの本にもそんなことが書いてあったから。
    ここの話題と違うかもしれないから、わたしのところでそこのところで書くことにするね。

    ガブリエルさん、どんなこと言ってるのかなんか楽しみ。
引用返信/返信 削除キー/
■33615 / inTopicNo.32)  Re[29]: マルクス・ガブリエル
□投稿者/ みのり -(2023/09/30(Sat) 08:29:05)
    No33567に返信(みのりさんの記事)

    > 『世界はなぜ存在しないのか』という本があるのを知った。
    > その著者がタイトルにしたマルクス・ガブリエル。

    前の投稿で触れていた『哲学名著の50冊が1冊でざっと学べる』岡本一郎 著
    を読みまとめてみます。

    p251より。

    ガブリエルの哲学の中心的なテーマは、現代の哲学的な状況をいかに切り開いていくか。
    相対主義的な思考法、自然主義的な思考法が力をもち、人間の心の探究も脳科学でできるという考えが支配的になっている傾向に対して、哲学がどのような答えを用意し問題解決を図るのか。

    p252より。

    『なぜ世界は存在しないのか』は、2013年の出版。
    「新実在論」という立場を取っている。

    「世界は存在しない」という命題は、「世界以外のものはすべて存在する」という命題とペアになっている。
    ガブリエルによると、この2つを証明することが、『なぜ世界は存在しないのか』の課題。

    ガブリエルは、「世界」という概念を2点で定義する。

    1. 最も大きな領域を指す概念であること。
      したがって、物理学的な「宇宙」よりも「世界」のほうがもっと大きな概念。

    (私見) 普通の感覚では、世界より宇宙のほうが大きな概念なのだけれど、あえとこう定義したわけですね。
    これはおそらく、宇宙については様々に考察したり文章化することが可能であることが関わっているのだととりあえず考えます。

    2. モノではなく事柄の総体であること。
      
      モノ(机、パソコン、椅子などなど)が集まっているのが世界なのではなく、
      文章で表現されうる事柄を全部まとめたものが「世界」。

    (私見)つまり、無限に語りうるということなのだと思います。


    p253より。

    ガブリエルの独自性は、事柄の総体という世界概念に、「意味の場」を付加したこと。

    「AはXという意味においてBである」となる。
    ここで例として、ユニコーンは神話という場において存在する、というのが出ています。

    (私見)似たようなことなら、 幽霊は心霊というカテゴリーにおいて存在する、
    なんていうのもそうですね。
    実在が当然とされる人間にしても、地球の人間界という場において存在するのですね。

    ☆どんなものも無条件に存在するのではなく、「Xという意味の場において存在する」となる。(p253)

    それなら「世界」は、「Xという場において存在するのか」を考えると・・・

    そうなると「X」は世界よりも大きくなければならない。

    (私見)大きな、包括する概念でなければならない、ということだと思います。

       しかし、「世界」という概念は、限定的なものではなく、いくらでも語り
       うる可能性のある概念であり、それを包括する「X」は存在しない。

    ===
    そして、「X」が存在しないのであるから、「世界」も当然存在することはない。
    これがガブリエルの言う、「なぜ世界は存在しないのか」のロジックである。
    ===p254より引用

    (私見)何かが存在するという時、必ず、意味の場においてそれは存在する。
    ユニコーン、幽霊、人間の例を出しました。
    それぞれに、神話、心霊、地球というそれより大きな包括するもの(「場」「X」)において存在する。

    しかし、無限に語ることのできる「世界」を包括する「X」は存在しないので、「世界」も存在しない。

    ということなのですね。


     ☆悪魔ちゃん、おとといは投稿ありがとうね。
引用返信/返信 削除キー/
■33632 / inTopicNo.33)  Re[30]: マルクス・ガブリエル
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/09/30(Sat) 20:06:24)
    お邪魔しま〜す、みのりさん。
    わたしいま、「世界」っていうの、考えてるところだから。

    No33615 、ちょっと想い出したの書くね。

    ガブリエルさんにおける「世界」という語の概念、
    >1. 最も大きな領域を指す概念であること。したがって、物理学的な「宇宙」よりも「世界」のほうがもっと大きな概念。<
    >2. モノではなく事柄の総体であること。モノ(机、パソコン、椅子などなど)が集まっているのが世界なのではなく、文章で表現されうる事柄を全部まとめたものが「世界」。<

    2で想い出したのが、

    【ウィットゲンシュタイン著『論理哲学論考』1921矢野茂樹訳/岩波書店/2003】の、
    1世界は成立していることがらの総体である。
    1・1世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。
    1・2世界は諸事実によって、そしてそれが事実のすべてであることによって、規定されている。
    1・3なぜなら、事実の総体は、何が成立しているのかを規定すると同時に、何が成立していないのかを規定するからである。
    1・13論理空間の中にある諸事実、それが世界である。
    1・2世界は諸事実へと分解される。
    1・21他のすべてのことの成立・不成立を変えることなく、あることが成立していることも、成立していないことも、ありうる。
    (わたし、はっきり言って、ウィットちゃん、何言ってるのかさっぱりだけどね)

    >ガブリエルの独自性は、事柄の総体という世界概念に、「意味の場」を付加したこと。<
    で想い出したのが、
    フッサールの「意味を通じて世界とかかわる」。

    ガブリエルさんの、なんかわたしのとちょっと見方の方向が違うみたいだからこんなのしか思いつかなかった。

引用返信/返信 削除キー/
■33633 / inTopicNo.34)  Re[31]: マルクス・ガブリエル
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/09/30(Sat) 20:22:03)
    あ、ちなみに、わたし、

    ウィトちゃんの1の『成立している』を「存在する」って見てる。

    ガブちゃんの『なぜ世界は存在しないのか』っていう問い?は、「世界」と「存在」の関係を語ってるようにわたし見えるから、ちょっとわたしの。
引用返信/返信 削除キー/
■33635 / inTopicNo.35)  Re[32]: マルクス・ガブリエル
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/09/30(Sat) 20:47:51)
    もうちょっと。

    ガブちゃんの「世界」という語の概念は、
    <文章で表現されうる事柄を全部まとめたものが「世界」>

    ウィットちゃんの場合はたしか、
    7.語りえぬものについては、沈黙せなばならない。
    だった。

    ・・・・

    ごめん、わたしの世界に入ってきてる。ここに書くのもうやめるね。




引用返信/返信 削除キー/
■33638 / inTopicNo.36)  Re[31]: マルクス・ガブリエル
□投稿者/ みのり -(2023/09/30(Sat) 21:39:45)
    悪魔ちゃん、こんばんは! レスありがとう。

    No33632に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > お邪魔しま〜す、みのりさん。
    > わたしいま、「世界」っていうの、考えてるところだから。
    >
    > No33615 、ちょっと想い出したの書くね。
    >
    > ガブリエルさんにおける「世界」という語の概念、
    > >1. 最も大きな領域を指す概念であること。したがって、物理学的な「宇宙」よりも「世界」のほうがもっと大きな概念。<
    > >2. モノではなく事柄の総体であること。モノ(机、パソコン、椅子などなど)が集まっているのが世界なのではなく、文章で表現されうる事柄を全部まとめたものが「世界」。<
    >
    > 2で想い出したのが、
    >
    > 【ウィットゲンシュタイン著『論理哲学論考』1921矢野茂樹訳/岩波書店/2003】の、
    > 1世界は成立していることがらの総体である。
    > 1・1世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。
    > 1・2世界は諸事実によって、そしてそれが事実のすべてであることによって、規定されている。
    > 1・3なぜなら、事実の総体は、何が成立しているのかを規定すると同時に、何が成立していないのかを規定するからである。
    > 1・13論理空間の中にある諸事実、それが世界である。
    > 1・2世界は諸事実へと分解される。
    > 1・21他のすべてのことの成立・不成立を変えることなく、あることが成立していることも、成立していないことも、ありうる。
    > (わたし、はっきり言って、ウィットちゃん、何言ってるのかさっぱりだけどね)

    そうなの。本にも『論考』のその部分との共通として書いてあったよ。

    「世界」というのは、家やビルや人や木などの模型のような「モノ」がただ並んでいるのではなく、「雨が降っている」「犬の赤ちゃんが生まれた」「今年の夏は猛暑だった」「私は眠くなった」などなど膨大な無数のそうした事柄の総体だ、とガブリエルは言っていて、
    『論考』の悪魔ちゃんが載せてくれた文章も、おおよそ今私が書いたのと同じようなことを難し気に書いているのだと思ってるよ。

    > >ガブリエルの独自性は、事柄の総体という世界概念に、「意味の場」を付加したこと。<
    > で想い出したのが、
    > フッサールの「意味を通じて世界とかかわる」。

    フッサールのそういうのがあるんだね。
    ごめん、私ぜんぜんわからなくて。

    > ガブリエルさんの、なんかわたしのとちょっと見方の方向が違うみたいだからこんなのしか思いつかなかった。

    書いてくれてありがとう〜。

    私は哲学の話題、たまにしか書かないけど、何か気になる話題があれば遠慮なくまた書きに来てね。^^
引用返信/返信 削除キー/

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