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No33251 の記事


■33251 / )  みのりさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/09/20(Wed) 17:44:11)
    みのりさんへ。こんにちは。返信をありがとうございます。

    No33245
    > 食厭逆想の修習ですか。
    > 渇愛(貪り)が激減するのですね。

    はい。好物のイチゴの場合はそうですね。好物のイチゴに対する渇愛は激減、消滅します。他も同じ事ですが。残るのは、そこにただイチゴがあるだけ。→美味しいイチゴがあるだけあたりで、それに対するそれ以上の欲は消滅するのではないでしょうか。

    色々な表現がされているようですが、あるとき、弟子たちに向かって「夜食は控えるようになさい」と仏陀は言いますが、その通りに控える者とそうしない者とに分かれます。夜食を控える理由としては「それがあなた方の為になるからです」という事のようです。ただこれだけの一文から読者が何を読み解くかだろうと思います。腹が減るからとか習慣的に今までそうだったから控えないのか?涅槃=心の平穏に向けて必要なことだと捉えるのか?ですね。とりあえずは、原始の中の仏陀との無言での対話です。(笑)

    No32879 に書いてみましたが、幼稚園児の時には砂場の取り合いをしますが、大人になればそれはただの砂場でしょ?あれだけ「砂場こそわが命!砂場での陣取りこそわが使命!」と言わんがばかりの思いがあったのにですね。そのような欲(煩悩)も消滅するような心の変化が起こるのですね。(笑)

    > そうなんですね。 いい香りにうっとりするというようなことも、修行においては煩悩になるということなのでしょうね。

    そうですね。この場合には、花を見て花だと認識するだけ。あー、このような香りだ、いい香りだな、美しい花だな、あたりだけで止まればよいですが、ここで「うっとり」という感情が入り込むと、そこ(香り)に無意識にでも取着している証であり、そこに対する妄想が生起します。その妄想が妄想を呼び、迷妄(物事の道理を知らず、誤りを真実と思い込む事。心の迷いの事)に陥りますね。

    > > 私の理解では、この表現での状態ならば、想受滅です。通常では簡単には至れないと思いますが、みのりさんならば至れるのかもしれませんね。では何故に気絶状態とも言える想受滅を自覚できるのかについては、また機会があれば。

    > 私は絶対ないですよ。(笑) 
    > 深い瞑想は、自分がしようとするとしたら怖いと思ってしまいます。

    例えば、一度、2メートル程の高さからプールに足からでも飛び込んでみる。それに慣れたら、次は3メートルでといった感覚で、徐々に深い瞑想に入り込めれば、何も怖いことは起こりませんし、実際、怖いことはないですよ。(笑)それが怖くないことを知っているのか?知らないのか?の違い、ご存じないから怖いという様にも感じますが。所詮、そのプールの底には、涅槃や解脱という事が書かれてますので、底なしではないですよ。(笑)

    > なぜ気絶状態とも言える想受滅を自覚できるのかについて、これ知りたいです。
    > よかったら教えてください。

    これは、私自身も一応の答えらしきものを感じつつ疑問だったところなのですね。涅槃や想受滅をなぜ認識できるのか?です。

    原始の中で、あるとき弟子の一人が問いかけます。「有想(地水火風の各処等や初禅から非想非非想処まで)ではないのに無想(想受滅)を認識することは可能なのでしょうか?」と。つまりは、どの処にも取着せず、どの処にも何の認識もないのに、それ(想受滅)を認識することは可能なのか?認識できるという事は、どこかの想を有しているのではないか?という問いですが、その問いに対する仏陀の答えは「あり得ます」の一言ですが、兄弟子が自らの体験談として譬えを使っての説明をします。

    木片が燃えるとき、一方では炎が生じ一方では炎が滅ぶのと同じように、一方では、これは有の滅尽たる涅槃だという想が生じ、一方ではその想が滅びました。ですので、この時には、有の滅尽たる涅槃だという想ある者であったのですよ。と。

    もちろん、想受滅自体をそのままでは認識できないと思いますので、どっぷりと想受滅の処を体験しているという現在進行形では認識できません。もしもそれを認識していると言うのであれば、それはイリュージョン(錯覚・幻想・妄想・思い込み・嘘・迷妄)ですが、その時々で、ふっと一瞬、想(有想)が生起するのですね。これは涅槃だと。(この場合には、涅槃と想受滅が同じ地平で描かれているようですね)勿論、ここでも自由意志は効きません(笑)

    そして再度、例えの木片の炎の消えた部分の状態(想受滅)に戻るという事でしょう。木片の炎がある処が有想で炎が消えた処が想受滅の例えですが、その時に一瞬気づくのですね。「ここが涅槃だ、想受滅だ」と。気づけるのは勿論、瞬間であれ有想の時です。ですのでこの兄弟子も仏陀と同じく「あり得ます」と言う答えだったのでしょう。

    「ある」ではなくて「あり得ます」です。なぜならば、仏陀たちが「ある」と言い切ってしまうと、それを聞いた弟子が、現在進行形での想受滅を体験していると言う誤認での幻想体験になるからですね。この場合には、この弟子は仏陀の説いた涅槃や想受滅を体得できないことになりますから。

    ですので、九次第定(初禅・二禅・三禅・四禅・空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処・想受滅)の順番通りに進まなければ、想受滅には至れないというのでもありません。

    > 自分なりに例で考えてみますね。
    > エアコンはついていてもあまり涼しくない部屋にいて、さらに温度設定を下げ快適になります。
    > しばらくすると寒すぎてきて、また温度設定を上げると快適になります。
    > 温度設定を下げたり上げたりを繰り返しすることが実際にあります。(笑)

    エアコンの例で言うと、その通りです。みのりさんの自由意志(笑)で、温度の上げ下げを自らで行い快適な状態を保とうとしますね。しかし、学ばなければ、通常での我々凡夫は、そこ(世間=一切皆苦)から抜け出せないという状態です。そして抜け出せなければ、苦しみの輪廻転生を繰り返すという思想のようですね。

    原始の世界観は現代日本と比較して、非常識そのものです。言い換えると、極端にシンプルな世界観だと感じます。着ていた衣は、虻や蛇除け、暑さ除け等が目的ですし、村を廻って得た食事は、最低限度身体を維持するだけのものを摂取していたようですし、おまけに余った食事は、草木を避けて土や水中に還していたようですしね。

    つまりは、ここでいうエアコンの温度設定という基準のものがありませんで、エアコンの温度設定という基準の代わりに、自由意志でのコントロールの範疇にはない、無常なる自らの心の内の三受(苦・楽・不苦不楽)を基準にします。

    > この無知とはどういうものなのでしょうか?
    > これも前に聞いたことがあるのですが、はっきりとしたことを記憶していないのです。
    > 平穏さになんとなく物足りなさを感じるというようなことだったかなぁ。。

    原始では、楽(快)・苦(不快)・不苦不楽と感受は一応の分類をされていますが、楽(快)な時には貪りが生じ、苦(不快)な時には、瞋恚(怒り)や悩み等が生じます。その中間の不苦不楽には無知(愚痴)が潜在します。

    この場合の無知(愚痴)とは、仏陀の教えである、涅槃や解脱をこの状態ではまだ体得できていませんので、その処(不苦不楽)でホゲホゲしているから(仏陀視点で)無知なのですね。無知(愚痴)では無くなるときがあるとするならば、解脱や涅槃の体得時となるでしょうか。つまりは、苦の滅尽がされたときですね。そしてこの時には無知(不苦不楽)ではなくなっています。

    原始の中での説明の一つでは、涅槃は(貪欲の滅尽、瞋恚の滅尽、愚痴の滅尽)と定義されています。貪欲の滅尽のためには快(楽)を、瞋恚(怒り)の滅尽のためには不快(苦)を、そして無知(愚痴)の滅尽のためには四聖諦を知り、迷妄からの離脱が説かれているのですね。そのために行われるのが、煩悩の根を根こそぎ根絶やしにする、四禅定という瞑想です。

    細かいことを書き出すと、貪欲(激しく求める欲望)、瞋恚(人を害する心や悪意を持つこと)愚痴(無明、迷妄のこと)。愚痴の中の無明(四聖諦を知らないこと)、迷妄(物事の道理を知らず、誤りを真実と思い込む事。心の迷いの事)等々、文字にするとややこしいですね。

    これらを書いたり記憶することには何の意味もないと思いますが、これを達成するために行われるメインのものが、四聖諦の中の一つ道聖諦(八支聖道)だという理解です。

    調子に乗ってつらつらと書いていますが、ご興味のない箇所、全てかも?があればスルーという事でお願いします。m(__)m
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