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■32833
/ inTopicNo.1)
うましか帖 3
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■
□投稿者/ パニチェ
-(2023/09/03(Sun) 06:31:00)
トピ主:うましかさん
■
No26040
に返信(うましかさんの記事)
> ◇ 内 容 : うましかのメモ書きです(´-`).。oO
引き続きよろしくお願いします。
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■32838
/ inTopicNo.2)
パニチェさんへ(・ω・)ノ☆
▲
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■
□投稿者/ うましか
-(2023/09/03(Sun) 09:18:53)
おはようございます、パニチェさん
いつも大変お世話になっておりますm(__)m
「うましか帖3」の作成、ありがとうございます!
(/・ω・)/ぬまうましか
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■32959
/ inTopicNo.3)
心身二元論は独我論に行きつくか(´・ω・)?
▲
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■
□投稿者/ うましか
-(2023/09/10(Sun) 00:42:13)
◇ 松田克進『デカルト的二元論は独我論に帰着するか』,1995年
・
https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy1952/1995/46/1995_46_60/_article/-char/ja/
*******
◇G.ライル『心の概念』
・
https://www.msz.co.jp/book/detail/01770/
引用返信
/
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■32960
/ inTopicNo.4)
Wikipediaでいこう! (/・ω・)/
▲
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■
□投稿者/ うましか
-(2023/09/10(Sun) 01:03:40)
・
https://ja.wikipedia.org/wiki/
他我
>デカルトは、懐疑主義的立場からしても絶対に疑えない精神の存在を出発点とし、物体・身体・世界等の存在について証明しようとした。このように近代哲学では、自我の存在は確実であるとされるが、他我の存在は(懐疑主義的に)、必ずしも自明のこととは言えない、と考えることができ、「他者の持っている我=他我を体験することは不可能である」といわれることがある。これは独我論の裏返しである。
イギリス経験論は、私の心と身体的状態の経験から類推して他人の身体的状態から他人の心を認識するという「類推説」の伝統があるが、T.リップスは「感情移入説」をもってこれを批判した。
デカルトは他我問題は理性の問題ではなく、実生活の問題であるとし、カントは同様に純粋理性の問題でなく、実践理性の問題とした。<
*******
思いつきですご〜く素朴な、かつ大いに的外れかもしれない疑問がわく。たまに二元論の克服として一元論だという主張をみかけることがありますが、一元論は独我論をどうあつかうのだろうか(;´・ω・)?
引用返信
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■32961
/ inTopicNo.5)
看護師は患者の立場にたてるのか(´・ω・)?
▲
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■
□投稿者/ うましか
-(2023/09/10(Sun) 01:27:21)
たまには、こういう論文もいいよね〜(;´・ω・)
看護研究者曰く、
◇ 林智子『“否認”という無意識の患者心理理解における看護師の思考過程の分析 − 患者心理推測から看護援助へ −』,2012年
・
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsnr/35/1/35_20111222002/_article/-char/ja
*******
◇ 種村剛「他我問題(other mind problem)」
・
http://tanemura.la.coocan.jp/re3_index/4T/ta_other_mind_problem.html
>◆類推説
□「イギリス経験論の伝統に立つ類推説(私の心的状態と私の身体的状態との結びつきに基づいて、他人の身体的状態から他人の心的状態を類推するとする説)に対して、T.リップスは感情移入説(他我への感情移入は人間にとって根源的な本能または衝動であるとする説)によって批判を加えた」(浜渦[1998:1029])<
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■32991
/ inTopicNo.6)
訂正します(´;ω;`)ウゥゥ
▲
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■
□投稿者/ うましか
-(2023/09/10(Sun) 21:47:36)
No.32955
において、私は以下のように書きましたが、、、
*******
◆ヴォルフの影響を受けたカントは『人間学』第1篇第2節において、自分の判断を他人の悟性について吟味することを無用とみなす「論理的エゴイズム」、他人の評価を気にせず、自己自身の趣味に満足する「美的エゴイズム」、あらゆる目的を自己自身にのみ限定し、自分に役立つもの意外のものには何の利益も見いださないような「道徳的エゴイズム」の三つを区別
* 先述の
No.32884
であげた倉本論文によれば、カントは『人間学』において「「一切の目的を自分の上だけに限り己れに役立つもの以外には何の効用も認めない幸福論者」を「道徳的エゴイスト」」と呼び、そうした幸福論者を「自己中心的な我執(selbstsuch)」即ち、独我論(solipsismus)に陥っている」としたとあります。
・
https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy1952/1997/48/1997_48_227/_article/-char/ja
*******
>* 先述の
No.32884
であげた倉本論文によれば、カントは『人間学』において「「一切の目的を自分の上だけに限り己れに役立つもの以外には何の効用も認めない幸福論者」を「道徳的エゴイスト」」と呼び、そうした幸福論者を「自己中心的な我執(selbstsuch)」即ち、独我論(solipsismus)に陥っている」としたとあります。
↓
* 先述の
No.32884
であげた倉本論文によれば、カントは『人間学』におい「「一切の目的を自分の上だけに限り己れに役立つもの以外には何の効用も認めない幸福論者」を「道徳的エゴイスト」」と呼び、そうした幸福論者を『実践理性批判』において「自己中心的な我執(selbstsuch)」即ち、独我論(solipsismus)に陥っている」としたとあります。
・
https://www.gutenberg.org/cache/epub/49543/pg49543-images.html#Pg071
倉本論文では引用箇所をV73、すなわちアカデミー版のV巻、p.73としておりましたm(__)m どうりで『人間学』を読んでもみつけられないはずだ(´;ω;`)ウゥゥ
引用返信
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■33208
/ inTopicNo.7)
T.リップス感情移入論(;´・ω・)
▲
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■
□投稿者/ うましか
-(2023/09/19(Tue) 18:08:23)
石田三千雄『テオドール・リップスの感情移入論を巡る問題』,1999年
・
https://repo.lib.tokushima-u.ac.jp/ja/85984
引用返信
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■33254
/ inTopicNo.8)
心の科学とエピステモロジーφ(..)
▲
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■
□投稿者/ うましか
-(2023/09/20(Wed) 21:14:24)
◇ 「こころの科学とエピステモロジー」
・
https://www.jstage.jst.go.jp/browse/epstemindsci/list/-char/ja
*******
◇ 南学正仁『「なぜ私が死ななければならないのですか」− 科学としての医療が崩れるとき 』,2023年
・
https://www.jstage.jst.go.jp/article/epstemindsci/5/1/5_12/_article/-char/ja
人文死生学という分野、あるんですね。。。。(;´・ω・)
・
https://sites.google.com/view/thanatology-as-humanities
引用返信
/
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■33506
/ inTopicNo.9)
ショーペンハウアー「生」の概念(;´・ω・)
▲
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■
□投稿者/ うましか
-(2023/09/24(Sun) 20:59:58)
2023/09/24(Sun) 22:29:04 編集(投稿者)
◇ 竹内綱史『ショーペンハウアーにおける「生」の概念』, 2008年
・
https://www.jstage.jst.go.jp/article/diltheygsj/2008/19/2008_62/_article/-char/ja/
◇ 飯田隆『ウィトゲンシュタインとゲーテ的伝統』,2001年
・
https://www.jstage.jst.go.jp/article/morpho1979/2001/23/2001_23_2/_article/-char/ja
飯田論文の冒頭、ストローソンによるウィトゲンシュタイン「青色本」に対する「剥き出しの思考を初めて見た」という感想、にもかかわらず、それは決して無からの創造ではなく、彼の最初の哲学がショーペンハウアー哲学だったという言葉に裏付けられるカント的伝統に位置付けられ、さらにゲーテ的伝統とつながりも認められるという内容は今でも興味深いです。
*******
ちなみに、ゲーテとショーペンハウアーは交流がありましたね(;´・ω・)
◇ 堀 郁『ゲーテとショーペンハウアーにみる〈自然〉の哲学的考察』,2019年
・
https://kwansei.repo.nii.ac.jp/records/27553
◇ 酒井剛『ショーペンハウアー自然哲学とゲーテ形態学』,2003年
・
https://www.jstage.jst.go.jp/article/morpho1979/2003/25/2003_25_113/_article/-char/ja
*******
ゲーテ、ショーペンハウアー、そしてウィトゲンシュタイン、、、三者ともに「色彩論」があるのも興味深いですね。もっとも、下記の村田論文によればウィトゲンシュタインがゲーテ『色彩論』を集中的に読んだのは死の直前1950-51年にかけてらしいですが(;´・ω・)
◇ 酒井剛『眼と構想力 − ショーペンハウアーの色彩論 −』,2004年
・
https://www.jstage.jst.go.jp/article/morpho1979/2004/26/2004_26_73/_article/-char/ja
◇村田純一『色彩の多次元性 − ゲーテとウィトゲンシュタイン −』,2001年
・
https://www.jstage.jst.go.jp/article/morpho1979/2001/23/2001_23_16/_article/-char/ja
*******
なんだかタイトルから横道にそれてしまった。。。(;´Д`A ```
引用返信
/
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■33514
/ inTopicNo.10)
衝撃
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□投稿者/ 田秋
-(2023/09/24(Sun) 21:59:36)
こんばんは、うましかさん
>ゲーテとショーペンハウアーは交流がありましたね
震度5強くらいの衝撃です!
ショーペンハウアーの方がずっと後だと思ってますたぁ〜!
引用返信
/
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■33515
/ inTopicNo.11)
Re[7]: 心の科学とエピステモロジーφ(..)
▲
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■
□投稿者/ うましか
-(2023/09/24(Sun) 22:11:03)
2023/09/24(Sun) 22:18:29 編集(投稿者)
No.33254
南学正仁の論文より引用(
https://www.jstage.jst.go.jp/article/epstemindsci/5/1/5_12/_pdf/-char/ja
)
ただし、私うましかが読みやすいように改行してあります。
*******
>意識の超難問は、世界中に存在する無数の身体を、どれもが「<私>でありうる身体」であるとして、等価視するところから始まる。
同じような身体、同じような脳を持ち、物質的にはどれが<私>であってもよさそうであるのに、そのなかの、特定の「この」身体だけに<私>が宿る理由を問うことによって、意識の超難問は成立する。
しかし、この問い方は、順序が逆転している。
客観化の原理が指摘するように、<私>は最初から「この」特定の身体に宿っており、「この」特定の身体を通じて世界を見ている。
他者の身体や自己の身体、そして他者の心を観察して客観的世界を構成し、さらに他者の心との類比から自己の心を客観的世界に組み込んでいこうとするプロセスは、あくまで客観化の過程において、後からなされるものである。
こうして、後から構成された客観的世界が、「この」身体を通じて<私>が世界を見ているというそもそもの世界に先立つものであると錯覚することにより、「なぜ世界でひとりだけが<私>なのか?」という問いが意味を成すように思われるのである。<
*******
うーん、、、「錯覚」なのかなあ(;´・ω・)。私が「私は〜と考える」と言うとき、そもそも上のような問いは発しないです。そうした問いを発するとき、その人は「私は〜と考える」という言い方は選ばないんじゃないかな(。´・ω・)?
「私は〜と考える」という言明は、(たとえ他人から錯覚と言われようと)「世界でひとりであるこの私」という信念が前提になければ意味をもたない。だって、そう考えている(と言う)当の「私」が、同時に、そう考えているのがこの私かどうか曖昧なんですなんて言ってたら、その主張自体が「身元不明」になってしまう( ノД`)シクシク…
(;´・ω・)沼どころじゃない
引用返信
/
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■33517
/ inTopicNo.12)
Re[8]: 心の科学とエピステモロジーφ(..)
▲
■
□投稿者/ パニチェ
-(2023/09/24(Sun) 22:38:06)
2023/09/26(Tue) 08:28:07 編集(投稿者)
こんばんは、うましかさん。横レス失礼しますがスルーでいいですよ、^^
■
No33515
に返信(うましかさんの記事)
>
No.33254
> 南学正仁の論文より引用(
https://www.jstage.jst.go.jp/article/epstemindsci/5/1/5_12/_pdf/-char/ja
)
> ただし、私うましかが読みやすいように改行してあります。
> *******
> >意識の超難問は、世界中に存在する無数の身体を、どれもが「<私>でありうる身体」であるとして、等価視するところから始まる。
> 同じような身体、同じような脳を持ち、物質的にはどれが<私>であってもよさそうであるのに、そのなかの、特定の「この」身体だけに<私>が宿る理由を問うことによって、意識の超難問は成立する。
> しかし、この問い方は、順序が逆転している。
> 客観化の原理が指摘するように、<私>は最初から「この」特定の身体に宿っており、「この」特定の身体を通じて世界を見ている。
> 他者の身体や自己の身体、そして他者の心を観察して客観的世界を構成し、さらに他者の心との類比から自己の心を客観的世界に組み込んでいこうとするプロセスは、あくまで客観化の過程において、後からなされるものである。
> こうして、後から構成された客観的世界が、「この」身体を通じて<私>が世界を見ているというそもそもの世界に先立つものであると錯覚することにより、「なぜ世界でひとりだけが<私>なのか?」という問いが意味を成すように思われるのである。<
> *******
> うーん、、、「錯覚」なのかなあ(;´・ω・)。私が「私は〜と考える」と言うとき、そもそも上のような問いは発しないです。そうした問いを発するとき、その人は「私は〜と考える」という言い方は選ばないんじゃないかな(。´・ω・)?
> 「私は〜と考える」という言明は、(たとえ他人から錯覚と言われようと)「世界でひとりであるこの私」という信念が前提になければ意味をもたない。だって、そう考えている(と言う)当の「私」が、同時に、そう考えているのがこの私かどうか曖昧なんですなんて言ってたら、その主張自体が「身元不明」になってしまう( ノД`)シクシク…
「意識の超難問」は「意識の難問」とは根本的に異なり、答えを求める問いではありません。
ネーゲルの「コモウモリであるということはどのようなことか」と同類で、〈私〉に気付くための問いです(ネーゲルの問いは〈私〉に気付くための問いではありませんが答えを求める問いではないという意味で同類)。
上記の論文の著者は「意識の超難問」が公案であることに気付いてない、つまり〈私〉に気付いてないということが分かります。
自分事として〈私〉に気付いてから探究が始まるのですが、少なくとも私にとってその探究は「何故、私は他の誰でもなくこの私なのか?」というような問いに対する探究にはなりません。
> (;´・ω・)沼どころじゃない
雲を掴むような話ですね(笑)。
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