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Re[7]: 心の科学とエピステモロジーφ(..)
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□投稿者/ うましか -(2023/09/24(Sun) 22:11:03)
| 2023/09/24(Sun) 22:18:29 編集(投稿者)
No.33254
南学正仁の論文より引用( https://www.jstage.jst.go.jp/article/epstemindsci/5/1/5_12/_pdf/-char/ja )
ただし、私うましかが読みやすいように改行してあります。
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>意識の超難問は、世界中に存在する無数の身体を、どれもが「<私>でありうる身体」であるとして、等価視するところから始まる。
同じような身体、同じような脳を持ち、物質的にはどれが<私>であってもよさそうであるのに、そのなかの、特定の「この」身体だけに<私>が宿る理由を問うことによって、意識の超難問は成立する。
しかし、この問い方は、順序が逆転している。
客観化の原理が指摘するように、<私>は最初から「この」特定の身体に宿っており、「この」特定の身体を通じて世界を見ている。
他者の身体や自己の身体、そして他者の心を観察して客観的世界を構成し、さらに他者の心との類比から自己の心を客観的世界に組み込んでいこうとするプロセスは、あくまで客観化の過程において、後からなされるものである。
こうして、後から構成された客観的世界が、「この」身体を通じて<私>が世界を見ているというそもそもの世界に先立つものであると錯覚することにより、「なぜ世界でひとりだけが<私>なのか?」という問いが意味を成すように思われるのである。<
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うーん、、、「錯覚」なのかなあ(;´・ω・)。私が「私は〜と考える」と言うとき、そもそも上のような問いは発しないです。そうした問いを発するとき、その人は「私は〜と考える」という言い方は選ばないんじゃないかな(。´・ω・)?
「私は〜と考える」という言明は、(たとえ他人から錯覚と言われようと)「世界でひとりであるこの私」という信念が前提になければ意味をもたない。だって、そう考えている(と言う)当の「私」が、同時に、そう考えているのがこの私かどうか曖昧なんですなんて言ってたら、その主張自体が「身元不明」になってしまう( ノД`)シクシク…
(;´・ω・)沼どころじゃない
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