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■26745 / inTopicNo.85)  Re[12]: 純理の訳の件 資料
  
□投稿者/ おくたがわ -(2022/09/29(Thu) 14:36:07)
    2022/09/29(Thu) 14:42:07 編集(投稿者)

    参照した原文は
    https://www.gutenberg.org/ebooks/6342
    Kritik der reinen Vernunft by Immanuel Kant

    ***
    Die allgemeine Logik abstrahiert, wie wir gewiesen, von allem Inhalt der Erkenntnis, d.i. von aller Beziehung derselben auf das Objekt, und betrachtet nur die logische Form im Verhaltnisse der Erkenntnisse aufeinander, d.i. die Form des Denkens uberhaupt. Weil es nun aber sowohl reine, als empirische Anschauungen gibt, (wie die transzendentale Asthetik dartut,) so konnte auch wohl ein Unterschied zwischen reinem und empirischem Denken der Gegenstande angetroffen werden.
    In diesem Falle wurde es eine Logik geben, in der man nicht von allem Inhalt der Erkenntnis abstrahierte; denn diejenige, welche blos die Regeln des reinen Denkens eines Gegenstandes enthielte, wurde alle diejenigen Erkenntnisse ausschliesen, welche von empirischem Inhalte waren.

    Sie würde auch auf den Ursprung unserer Erkenntnisse von Gegenständen gehen, sofern er nicht den Gegenständen zugeschrieben werden kann; da hingegen die allgemeine Logik mit diesem Ursprunge der Erkenntnis nichts zu tun hat, sondern die Vorstellungen, sie mögen uranfänglich a priori in uns selbst, oder nur empirisch gegeben sein, bloß nach den Gesetzen betrachtet, nach welchen der Verstand sie im Verhältnis gegeneinander braucht, wenn er denkt, und also nur von der Verstandesform handelt, die den Vorstellungen verschafft werden kann, woher sie auch sonst entsprungen sein mögen.

    *****
    Deeple翻訳
    『一般論理は、これまで示したように、認識のすべての内容、すなわち対象とのすべての関係から抽象し、認識の相互の関係における論理形式、すなわち思考の形式一般のみを考慮するものである。しかし、(超越論的美学が示すように)純粋な見方と経験的な見方がある以上、対象物に対する純粋な思考と経験的な思考の違いも見出されうるだろう。
    この場合、知識の内容をすべて抽象化しない論理が存在することになる。なぜなら、ある対象を純粋に考えるための規則だけを含む論理は、経験的な内容をもつすべての認知を排除することになるからである。
    それはまた、対象に帰することができない限り、対象に関する知識の起源に行き着くだろう。
    一方、一般論理学は、このような知識の起源とは何の関係もなく、観念を、それがもともと我々自身の中に先験的に与えられたものであれ、経験的にのみ与えられたものであれ、単に、思考するときに、理解が相互の関係においてそれらを必要とする法則に従って考慮し、したがって、観念が他のどこから生じてきたとしても、そのために調達できる理解の形式だけを扱うのである。』

    ******
    しかしDeeple翻訳ってすごいね。
    昔の自動翻訳のイメージと全然違う。
    ただ、長文を入れると部分的にとばされたり、逆に長文で入れたほうが、とんでた接続詞が訳されたりして、全部訳させるには工夫が必要のよう)

引用返信/返信 削除キー/
■26744 / inTopicNo.86)  Re[12]: 純理の訳の件つづき
□投稿者/ おくたがわ -(2022/09/29(Thu) 13:45:53)
    ちなみに
    『一般論理学は、認識のすべての内容を切り捨て』は他の日訳では『捨象し』
    しかし英訳は abstraction 原文で abstrahiert は「抽象(化)する」。
    後半の、
    『対象の純粋な思考の規則だけを含む論理学で排除されるのは、経験的な内容からなるすべての認識』
    の部分は
    英:exclude / 独:ausschliesen  : 除く

    と抽象化とは異なる言葉が使われる。

    ところが続く部分の中山元訳で
    『この認識の内容を排除しない論理学は、様々な対象についての私たちの認識の起源についても考察することになるだろう』

    と認識自体でなく 認識の内容についても「排除」という言葉を使ってしまい、前段の
    『経験的な内容の認識をすべて排除することになる』と照応するかのようにしてしまうのだが、
    ここでの「認識の内容を排除しない論理学」というのは中山元さん独自の挿入的説明であり、
    原文では「そちらは、」としか書かれていない。
    英文では「This kind of logic」と「論理学」を付加

    おそらく、中山さんは

    「認識のすべての内容を抽象化するわけではない論理学も存在することになろう(=超越論的論理学)」の後に、原文では同じもの(超越論的論理学)について
    「対象についての純粋な思考の規則だけを含むものは、経験的な内容を持つすべての認識を単に除外するから」
    と書いてあるのに、後者を「一般の論理学」への言及と読んでしまったために、

    そこに続く
    「それは、」(「この種の論理学は、」)
    という主部に
    『この認識の内容を排除しない論理学は』と説明を加えて、間に入れてしまった「一般の論理学」のことではないことを示さねばならなくなった。
    直前に「一般の論理学」の話をして、すぐ次の「それは、」が超越論的論理学だと分かりづらかろうという配慮。

    しかし本当は、三つとも超越論的論理学の話なのだから、「それは、」と続けていいわけ。そこはカントが不親切なのではなく。

    このこと(「それは、」という書き方)も、前段が超越論的論理学である根拠2 とほんとならできるかもしれないが、何しろカントの文章なので、そこまでは言えない。

    ***
    根拠2
    『直観に、純粋な直観と経験的な直観の区別があるように』として
    思考にも『対象についての純粋な思考と経験的な思考の区別があることになろう』
    と導いて、新たな論理学(超越論的論理学)を提示している。
    そこでの「純粋」の方に対応するのがアプリオリであったり超越論的だろう。
    続く文脈での、「対象の純粋な思考の規則だけを含み、経験的な内容からなるすべての認識を排除する論理学』が「一般論理学」を指す、とは考えにくのではないか。

    ただ、カントだから「純粋」を異なる意味で2回使ってしまっている可能性はないとは言えないか。
    やはり、一般の論理学が「経験的な内容からなるすべての認識を排除する」わけがない、それをやるのは超越論的論理学、という先に書いた理由が一番かな。

    *******

    以上、かなり断定的な口調で書いていますが、
    異論がありましたら、お願いします。(誰も読んでませんね…)
引用返信/返信 削除キー/
■26743 / inTopicNo.87)  純理の訳
□投稿者/ おくたがわ -(2022/09/29(Thu) 13:40:58)
    2022/09/29(Thu) 14:39:21 編集(投稿者)

    純粋理性批判の中山元訳で間違いではないかと以前から気になっていた部分に取り組みました。

    2巻 第二節超越論的な論理学について
    087 一般論理学の考察対象
    『一般論理学は、認識のすべての内容を切り捨て、認識と客観との関係をすべて無視しながら、認識相互の関係の論理的な形式、すなわち思考一般の形式を考察するのである。ところで直観に、純粋な直観と経験的な直観の区別があるように、[論理学において]対象について考察する場合にも、対象についての純粋な思考と経験的な思考の区別があることになろう。その場合には認識のすべての内容を切り捨てない論理学も存在することになろう。というのは、対象の純粋な思考の規則だけを含む論理学[一般論理学]で排除されるのは、経験的な内容からなるすべての認識だからである。』

    最後のセンテンスの[一般論理学]は中山さんが挿入したもの。
    しかし、これは間違いではないかと思っている。

    根拠1:一般論理学で捨象されるのは「すべての認識の内容」であって、「経験的な内容からなるすべての認識」ではない。
    経験的か否かを問わず全ての認識を同等に扱い、しかし、内容は切り捨て、認識同士の関係(形式)のみを扱う。

    『この認識の内容を排除しない論理学は、様々な対象についての私たちの認識の起源についても考察することになるだろう(ただしこうした認識が対象によって生まれたものである場合を除く)。
    これにたいして一般論理学は、このような認識の起源を考察することはない。一般論理学がとりあつかうのは、心のうちに思い描かれたさまざまな像であり、この像が最初からアプリオリにわたしたちに与えられたものかどうか、それともたんに経験的に与えられたものかどうかは問題にしないのである。』

    一般論理学はアプリオリか経験的かの区別をせず、すべてを扱うことが書かれている。
    問題は、超越的論理学が『様々な対象についての私たちの認識の起源についても考察することになる』の部分だが
    『ただしこうした認識が対象によって生まれたものである場合を除く』
    これが、『経験的な内容からなるすべての認識(を排除する)』ということと読めば辻褄は合う。

    この自分の疑いに対して否定的な材料が一点あって、それは『認識のすべての内容を切り捨てない論理学も存在することになろう。というのは、』と、理由を説明する部分の接続詞が英文訳では
    **
    there would exist a kind of logic, in which we should not make abstraction of all content of cognition; for or logic which should comprise merely the laws of pure thought (of an object), would of course exclude all those cognitions which were of empirical content. 
    **(Kant, Immanuel. The Critique of Pure Reason. J. M. D. Meiklejohn訳)

    for or と書かれている部分。
    or が、「さもなくば」であれば、その後の文章は「一般論理学」について書かれたものとも読みたくなる。

    「すべての内容を切り捨てない論理学も存在することになろう。そうでないと、一般論理学だけならば○○となってしまうから」
    という構文。中山元さんは、まさにそのように読んでいると思われる。(内容的に違うと私は思っており、またそのような for or という表現があるとは私は知らないですが)

    *****
    それで、今回ついに、ドイツ語原文を調べた。

    for or の部分は denn diejenige となっていて、deeple では
    denn: というのも
    diejenige: 此方 (其の者 あの方 あの人) [代名詞]
     googleでは 「それ」

    ってことは、接続詞は denn だけで、diejenige は後に続く関係代名詞(的なもの)の先行詞で、
    「なぜなら、純粋な思考の法則だけで構成されるべきそれ(論理学)は、〜(経験的な内容からなるすべての認識を排除するから)」だろう。ドイツ語文ではそこに「論理学」という明示的主語は無く、英訳や日訳で補われたもののよう。

    原語での Deeple 訳は
    『 この場合、知識の内容をすべて抽象化しない論理があり、ある対象を純粋に考えるためのルールだけを含む論理は、経験的な内容の知識をすべて排除するものであった。』
    接続部分は無視されている。(後で長文で入れたら「なぜなら、」が入ってきた。なんで違いがでるのか)
    google訳
    『この場合、知識のすべての内容を抽象化しないという論理が存在します。なぜなら、対象の純粋な思考の規則のみを含むものは、経験的な内容の認識をすべて排除するからです.』
    「なぜなら〜からです」

    英訳の自動翻訳や「for or」の英辞郎検索もしたが、
    ここでの for or を「さもなくば〜」の反転的意味を含めて訳すのは無理そう。
    英訳の or は おそらく誤植では。

引用返信/返信 削除キー/
■26596 / inTopicNo.88)  経験的世界を超え出てしまう思考・カント
□投稿者/ おくたがわ -(2022/09/22(Thu) 12:01:05)
    No26595に返信(おくたがわさんの記事)
    No26571(悪魔ちゃんさんの記事)の小牧治著「カント」の引用続き
    ***
    『いま、眼前にある机は、われわれに見られ、感じられ、触れられる数々の所与をもとにして、われわれがまとめあげて、机として確認している対象である。われわれにとって捉えられた机という姿であり現象である。したがって、それは、机そのものの姿ではない。われわれに与えられる素材がどこからくるのか、その素材がくる源泉はどういうものなのか、いわば机そのものはどういうものなのか、机の本質というべきものは何であるのか・・・それらは、われわれ人間にはわからない。それは、われわれ人間の知的能力(科学的な知的能力)のおよびえぬところなのである。』***

    ここは物自体が不可知だという説明。
    そこから少し飛躍して、次では、物自体に限らず経験的世界を超え出てしまう思考の話に進む。
     
    ***『われわれの知的能力のおよび得る範囲は、さきの、経験的世界についてだけである。したがって、その世界を超えて考えることはできない。この世界を超えて天がける思考は、空想や妄想でありえても真理であることはできない。かつての形而上学は、こういう独断をおかしていたのではないだろうか、とカントは批判した。』***

    「さきの、経験的世界」とは、触発により生じた感覚をアプリオリな形式がまとめて作り上げる自然の対象や現象で構成される世界だろう。
    これを判断の対象とするならば総合判断が客観性や真理性を持ち得るが、人はそれを逸脱して、
    経験的なものを素材としないで作り上げる対象に、(分析的判断でなく)総合判断を加えてしまうことがある。

    そのとき
    「この世界を超えて天がける思考は、空想や妄想でありえても真理であることはできない」ことになるが、
    このようなことをカント以前の形而上学はおかしていたとカントは批判し、正しい形而上学の基盤を追求した。ということだと思う。

    ここでいう「経験的世界を超えた対象」に判断を加えることで、二律背反が生じ得る。
    その例としてカントがあげたのが、pipitさんが紹介している4つのアンチノミー。
引用返信/返信 削除キー/
■26595 / inTopicNo.89)  判断の対象・カント
□投稿者/ おくたがわ -(2022/09/22(Thu) 11:55:15)
    対象と認識の一致を真理の基準にできないならば、真理の基準は何なのかについて、自分にとってタイムリーで分かりやすかったので、こちらにも頂きます。

    No26571(悪魔ちゃんさんの記事)の小牧治著「カント」の引用(部分)
    ***
    『カントは、「われわれの外に、われわれから独立して自然の対象があるのではなく、我々が、そういう対象をつくりあげていくのだ。」と考えた。「我々の側にある先天的(ア・プリオリ)形式・型が、自然の対象を、経験を、つくりあげていくのであって、その逆ではない。」
    「先天的」(ア・プリオリ)な枠とうのは、生まれながらにある枠という意味ではない。経験的な素材を受け入れてまとめ上げていく(総合してゆく)形式、型、枠、能力である。したがって、自分自身は経験的なものではなく、しかも経験があるかぎり、いつでもそこにまずもって考えられなくてはならない、根本的な形式のことである。こういう先天的な形式によって、構成された対象である以上、それに関し、普遍的・必然的な知識、すなわち真理をもちうることは、あきらかであろう。しかもそれがつくられた対象についての判断であるかぎり、たんなる概念の分析ではない、総合的な判断であることができよう。』***

    「先天的」とあるが生まれつきの意味ではなく、ここでは「経験に先だってある」こと。
    カントの「経験的」は、なにか(物自体)に触発されて受容的に(=感性的に)生じたもの(=感覚)を像に含むこと。
    そのような経験的な素材を
    「我々の側にある先天的(ア・プリオリな)形式・型」(枠・能力)がまとめあげて「自然の対象を、経験を、つくりあげていく」
    このようにして構成したものが判断の対象となる。そのような対象・現象に法則を見出し科学理論を組み立てることもできる。

    ***
    『「われわれの外の自然に、われわれが独立してのものがあるのではなく、逆に、われわれが、そういう経験的対象を構成する」のである。普遍的・必然的な真理(科学的な先天的総合判断)は、われわれが、外のものを正しく描写することに成り立つのではなく、逆に、われわれが、みずからの形式(先天的な)によって、自発的につくりあげたものについての判断なのである。』***


    ちなみに、こういった判断に関し、最近話題になった御子柴さんの
    『私たちが客観的な判断を下すことができると考えるのであれば、そうしたさまざまな主観的な意識を包み超えた、あるいはそうした主観的な意識に通底する「意識一般」が権利上、考えられねばなりません。』

    この意識一般は超越論的意識とか超越論的主観とも呼べる(たぶん)
引用返信/返信 削除キー/
■26530 / inTopicNo.90)  Re[8]: コペルニクス的転回
□投稿者/ おくたがわ -(2022/09/20(Tue) 09:11:35)
    うましかさんが紹介された論文

    ◇ 犬竹正幸『カントの批判哲学とパラダイム論』
    https://takushoku-u.repo.nii.ac.jp/

    コペルニクス的転回について、
    カントは人間中心へ引き戻したことで反革命(転回の方向が逆)というような記述をどこかで見ましたが、

    こちらの論文にあるコペルニクス説についてのカント理解(についての犬竹理解)からすると、
    「人間の置かれた特殊な条件を自明の前提とせず」、それが特殊であることを自覚したうえで、普遍的・客観的な枠組み(座標系)を能動的に設定しようとする、
    という意味では同じ方向という気がした。
引用返信/返信 削除キー/
■26529 / inTopicNo.91)  Re[9]: うましかさんへ
□投稿者/ おくたがわ -(2022/09/20(Tue) 08:25:09)
    No26441に返信(うましかさんの記事)
    おはようございます!
    ありがとうございます。
    返事遅くなりすみません。

    先日、
    >いまや学術論文や専門的な情報がその辺の石ころのようにコロコロ転がっている時代です

    と書かれていましたが、自分はそれを探すのがうまくない、というより怠惰なため探して読もうとしないので、うましかさんやpipitさんが話題に関連する論文を紹介されるのがありがたいです。
    それと右京さん的こだわり(ほめてます)に触発されます。
    私の方は世界一内容の薄い投稿を目指しますが(なんでやねん)、いろいろとよろしくお願いいたします。


引用返信/返信 削除キー/
■26441 / inTopicNo.92)  おくたがわさんへ(;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2022/09/16(Fri) 19:35:09)
    こんばんはー(・ω・)ノ

    おじゃまします。

    ごあいさつにまいりましたm(__)m

    いつも内容の濃いコメントをいただき、感謝です! (・∀・)

    *******

    No.26406 (おくたがわさん)

    >「不可知」を、対象についてまったく一切知り得ない。という意味とすると、
    >「〇〇は不可知である」はパラドックスを生じる。
    >〇〇の「不可知だ」という特徴を知ってるやん、と。

    おおウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』に解説を寄せたラッセル先生みたいだ! (;・∀・)、、、とおもいました。



    これからも、よろしくお願いいたしますm(__)m




引用返信/返信 削除キー/
■26407 / inTopicNo.93)  Re[7]: 物自体
□投稿者/ おくたがわ -(2022/09/15(Thu) 09:45:16)
    No26360に返信(pipitさんの記事)
    おはようございます。
    > お名前などを失念してしまったのですが、以前にネットでおもしろい論文をチラリと読んだ記憶がありまして、その論文では、(ずっと触発されっぱなしなんだ)みたいな考え方としてpipitは受け取ったんです。
    >
    > 【心?意識?が生じること=触発されている事態】みたいに読めて(精読はできてなかったんですけど)、おもしろいなぁ!と。

    カントでは感性は自発性がなく受動でしたよねたしか。
    そうすると、意識あるときは常に触発されている。触発がなければ意識が無い。となるのかな。
    >
    > にしても、やっぱりこんなにややこしくなるのは、カントのせい!
    > あ、触発されなかったら、ややこしさも無くなるのだなぁ、と、今思いました
    > (・・;)

    簡単に分からないから継続的に触発してきて、いまだに多くの研究者が関わってしまうと(しまう、って)
引用返信/返信 削除キー/
■26406 / inTopicNo.94)  メモ
□投稿者/ おくたがわ -(2022/09/15(Thu) 09:10:55)
    不可知について
    「不可知」を、対象についてまったく一切知り得ない。という意味とすると、
    「〇〇は不可知である」はパラドックスを生じる。
    〇〇の「不可知だ」という特徴を知ってるやん、と。

    なので「〇〇は不可知である」のように述語として使用できる「不可知」は、(側面なり観点なり方法なりを)限定した意味になるだろう。


    物自体について
    見えている一本の木は、(何らかのものに触発されて)人の観念に生じている。
    しかし、触発した側(物自体の世界)に、木と対応する一個の何かがあるのではない。
    物自体は、時空と関係せず、カテゴリーも適用できないのだから、一個二個…はなく、全体と部分もない。当然、物体も物質もない。
    人が直接把握できる様態になく、イメージもできない。
    物自体と、人の中に生じる表象や現象との関係として、一対一対応とか写像のようなものはイメージできない。


    物自体の不可知

    物自体のありかたを、知覚として、感性による表象として、知ることはできない。
    悟性・思考によって知れる部分はある (感性を触発する何かである。時空と関係がなくカテゴリーを適用できない(因果律がない)。など)


    随時修正していくと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■26360 / inTopicNo.95)  Re[6]: 物自体
□投稿者/ pipit -(2022/09/14(Wed) 08:46:23)
    2022/09/14(Wed) 08:57:40 編集(投稿者)
    2022/09/14(Wed) 08:49:16 編集(投稿者)

    おくたがわさん、おはようございます(o^^o)

    No26355
    > そして下に引用する千葉さんの解釈は、山下さんの「物自体」解釈を含みうる。矛盾しないように思いますが、pipitさんはどう考えられますか?
    『「物自体」とは,「我々の心のうちに(自発性から独立に)感覚が生じる」という過程,あるいはその際の単なる秩序のようなものであるのかもしれないし,』<

    私も、山下さんの引用箇所と千葉さんの上記引用箇所は、矛盾しないと思います。

    No26334 千葉さん論文の引用
    > 議論 T は,「物自体 Dinge an sich」についての通常の理解の変更を迫る,ということは強調に値する。議論 T は,触発する物自体が,個体としてイメージされるようないわゆる「物」とは根本的に異なるものであるかもしれない,という可能性を排除しない。
    例えば,「物自体」とは,「我々の心のうちに(自発性から独立に)感覚が生じる」という過程,あるいはその際の単なる秩序のようなものであるのかもしれないし,あるいはそれどころか,およそ我々にとって端的に理解不可能なものでさえあるのかもしれないのだ。(それがともかくも我々の認識から独立に存立するものである,ということだけは理解されるが。)  
    しかし,このような可能性は,カント哲学において「物自体」という語を用いることの障害になるとは考え難い。<

    千葉さんが
    > 議論 T は,「物自体 Dinge an sich」についての通常の理解の変更を迫る,ということは強調に値する。議論 T は,触発する物自体が,個体としてイメージされるようないわゆる「物」とは根本的に異なるものであるかもしれない,という可能性を排除しない。<

    に関する事柄についてなのですが、

    お名前などを失念してしまったのですが、以前にネットでおもしろい論文をチラリと読んだ記憶がありまして、その論文では、(ずっと触発されっぱなしなんだ)みたいな考え方としてpipitは受け取ったんです。

    【心?意識?が生じること=触発されている事態】みたいに読めて(精読はできてなかったんですけど)、おもしろいなぁ!と。

    にしても、やっぱりこんなにややこしくなるのは、カントのせい!
    あ、触発されなかったら、ややこしさも無くなるのだなぁ、と、今思いました
    (・・;)


引用返信/返信 削除キー/
■26355 / inTopicNo.96)  Re[5]: 物自体
□投稿者/ おくたがわ -(2022/09/14(Wed) 07:32:58)
    No26339に返信(pipitさんの記事)
    おはようございます! 

    > おくたがわさん、こんにちは!
    > pipitはおくたがわさんのトピできて嬉しいなー
    > よろしくお願いします(*^◯^*)♪

    ありがとうございます。こちらこそよろしくお願いします。

    > 過去投稿で物自体を対象とした認識上の不可知性と、認識システムの存在性についてなどを記述して、山下和也先生の本を引用したものがあったので、投稿させていただきます。

    すごく!面白いです。やはり良い本みたいですね。
     
    > ==========過去投稿↓
    > No20838
    > pipitはいろいろなものを認識してます。
    >
    > @例えば目の前の『本』。
    > このとき、
    >
    > Aどのように『本』と認識したか、を調べるのが『純粋理性批判』だとすると、
    >
    > ------------------------
    >
    > 山下和也先生の言う【二つの視点】とは、
    >
    >
    > @『本』が観察、観察者は『認識システム(理性)』であり、
    >
    > A観察者(認識システム)に現れる観察(認識対象)に至る順路を、観察者自身の内部から追った記述
    >
    > という@Aの視点ということかなと思いました。
    > ------------------------
    >
    > このAの視点についての、山下先生の文章を引用します。
    >
    > 『カントとオートポイエーシス』山下和也先生p38.39より引用
    > 『この視点は、いわば認識システム自身の体感になっている。そして、この視点にはシステム自身のその都度の作動しか把捉されない。システムの構造もシステムの環境も、それどころかシステム自身の全体すら把捉されないのである。
    > システム自身にもシステムそのものは見えないわけで、ルーマンの「システムはそれ自身にとってどこまでも不透明である」(Luhmann 1990: 483)という記述はこれを意味する。
    > さらに、この視点には環境も他のオートポイエーシス・システムも現れてこない。
    > ただしそれにもかかわらず、システムそのものにとっての視点はシステム自身の実在を知っている。
    > なぜなら、この視点の絶対的前提条件はシステムの実在であり、かつ、この視点はまさに実在するシステムそれ自身の視点だからである。システムが実在しないなら、システムそのものにとっての視点も存在しえない。
    > また環境の実在を把捉するのも、この視点である。
    > オートポイエーシスの本性上、環境なくしてシステムは実在しえないのであるから。と言っても、把捉できるのは実在だけで、その具体的なあり方までもわかるわけではない。
    > こうした把捉の仕方は無論、観察ではなく、何かの現れを現す表象の産出とは異なる。
    > それは否定しようのない直接性をもった把捉である。
    > こうした把捉の仕方を「直接知」と名付けてみた(山下二〇一〇:一八三)』
    > 引用終了
    >
    > pipit私見です。
    >
    > カント哲学において、不可知の対象として設定されている【物自体】という概念に、カントはどうして身も蓋もなく確実な実在性を与えているのか、
    >
    > という、なぜ? に対する山下先生の考えが、上記引用部分なのではないのか、と思いました。

    同意です。
    まさに、どのような意味で「不可知」で、しかし、どうして、どのように「知っている(面もある)」のか。を合理的に説明されているように思いました。

    そして下に引用する千葉さんの解釈は、山下さんの「物自体」解釈を含みうる。矛盾しないように思いますが、pipitさんはどう考えられますか?

    『「物自体」とは,「我々の心のうちに(自発性から独立に)感覚が生じる」という過程,あるいはその際の単なる秩序のようなものであるのかもしれないし,』


    > ちなみにpipitがpipitのトピで引用した御子柴先生訳のカントの文章で気になってるのは、
    > No26322
    > 『したがって、悟性は、まさに現象を〔それとして〕認めることによって、物それ自体の現存在をも容認する。
    > そして、その限りで、私たちは次のように言うことができる。
    > 諸現象の根拠として存するような何らかのものの表象、したがって、たんなる悟性体の表象は、たんに認められるのみならず不可避である』
    > の中の
    > 『たんなる悟性体の表象』という言葉。
    > 自信ないのですが、
    > 物自体という対象を悟性だけで表象してる、って意味なのかなぁ、と。

    私にもそのように読むのが全体を解釈しやすいと思われ、
    その場合は、不可知だが知っている、その知り方のほうの説明になりますよね?

    ただ、「悟性体の表象」って表現。。
    悟性による表象とかでなく、その表現は何故? と・・

    > それか、知的直観系???
    > 全く違うかもなんですけど。
    > ちょっと気になってました。

    自分も気になってきました。

    **********

    いずれにしてもやはり、不可知なのに知っている、その知り方を皆さん考えておられるのでしょうね。

    > それでは失礼しまーす(*^▽^*)

    またよろしくお願いします!

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