TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 親記事をトピックトップへ ]

このトピックに書きこむ

レス数の限度を超えたのでレスできません。

(レス数限度:100 現在のレス数:100) → [トピックの新規作成]
■36146 / inTopicNo.49)  ヤフー!のアホー!
  
□投稿者/ パニチェ -(2024/01/12(Fri) 21:56:55)
    2024/01/13(Sat) 09:00:50 編集(投稿者)

    No36138に返信(おくたがわさんの記事)
    > 遅レスですみません。

    全然OK!です。^^

    > ■No36002に返信(パニチェさんの記事)
    >>■No35948に返信(おくたがわさんの記事)

    > >>探査日記というトピ題は、その昔ヤフー掲示板というところで使っていたハンドルです。
    > >>おくたがわの前に、主にお笑い・大喜利系のトピで使用したのでパニチェさんたちはたぶん知らない。
    > >>その後、ヤフー以外のネット大喜利にも進出して(名前は変えましたが)大会的なもので上位に入ったことも。プロのお笑い芸人にもけっこう高評価されてたこともありました。(河本とか。藤原もいたような… - なんかやらかしたやつばっかりか…)

    >>これは全く知りませんでした。
    >>哲カテ全般「神はいるか」トピでおくたがわさんと出会う前ですね。
    >>そんなキャラの側面もあったとは当時のおくたがわさんからは想像できませんでした。。。^^;

    > そうですか? でも、哲学のことを知らないのになんでこいつは哲学カテをうろうろしてるんだろうという感じではなかったですか?
    > ネットお笑いのログは長く残っていましたが、今回検索してみたら全くヒットせず。さすがに全部消えたか…。寂しい気もします。

    当時のおくたがわさんのイメージはパンドラ先生と同じく論理学の印象が強いです。
    残念ですよね、当時のレス交換やカキコが残ってないのは、Yahoo!はほんまにahoo!ですね。

    > ヤフーで一番古くから知っている名前は地下猫で、彼は今もX(ツイッター)で活躍中。実はパニチェさんよりも前、一番最初にぶつかった(対立した)投稿者の一人でしたが、今は懐かしいのみです。
    > その次に長く知っているのがパニチェさんかエフニさんかどちらかですね(たぶん同時期に知ったと思います)。

    地下猫は誰でも衝突するでしょ(笑)。修辞罵倒学だったかな?を看板にしてましたし。
    まぁ私も負けず劣らずコテハン多キャラで毒入りパニチェでもあったので対立しますよね(笑)。
    私もそうですが初対面は対立や衝突からってのは哲カテでは日常茶飯事でした。

    もう時効だからいいかな。。。(笑)
    転法祖師はYahoo!掲示板を飛び越えて、NATROM氏の「進化論と創造論」サイトまで殴り込みに行くし(笑)
    その炎上はYahoo!掲示板哲カテまで延焼して、地下猫から暗黙裡に水面下でもって仲裁を頼まれましたが、そんな政治屋みたいな裏取引は大嫌いでキッパリ断ったり、ニーチェトピを喧嘩場として提供したり、いろいろありました。。。

    私はおくたがわさんは毛ツルット(ktsurut)の古くからの知り合いだと思ってたのですがそうではなかったのですか?
    あとセキバ(he_is_sekiba=sekiba_black_magic=sekiba_renaissance)も印象に残ってますねぇ〜。^^

引用返信/返信 削除キー/
■36139 / inTopicNo.50)  Re[19]: 中山元訳「純粋理性批判」について
□投稿者/ おくたがわ -(2024/01/12(Fri) 13:23:22)
    No36007に返信(pipitさんの記事)

    pipitさん、こんにちは。遅いレスですみません。
    自分だけの興味で書いていて誰にも読まれなくてもしかたないと思っていたので、丁寧に読んでいただけてありがたいです。

    >pipitも今の時点では、(C)は「超越論的論理学」のことを述べてるように思えます。

    そうですか、嬉しいです。

    >>次に(A)からの文脈で見ると、一般の論理学では認識の内容をすべて度外視し、超越論的論理学は度外視しないわけなので、一見すると「経験的な認識」を排除するのは、一般論理学の方であるかのような印象を受けるかもしれません。
    >>しかし、「認識の内容を度外視する」と「(経験的な)認識を除外する(中山『経験的な内容からなる認識』」はまったく異なる事態を表していると思います。<
    >
    > はい。調べてみると、
    > 「内容」の原語はInhalt (英訳はcontent )でした。
    > (C)は、【「内容」から「経験的な内容に関するような認識を、全て排除する」】という文意に捉えることも可能なのではないか、、、
    > 対象の内容から経験的な要素を排除し、対象認識のアプリオリな悟性規則をまとめたものが超越論的論理学という捉え方もできるのではないかと思いました。

    「認識の内容を度外視する」と「(経験的な)認識を除外する」の違いについての現時点での自分の解釈は、こんど、(C)の主語が超越論的論理学である場合に全体のつじつまが合うかどうか(合うと私は考えています)を書く際に、書きますね。(いつやるの)

    >>そもそも2ページほど前で一般論理学について
    >>『〜内容がどうであるか(経験的か超越論的かは)問わない。』とあり、原さんも後者を『超越論的』と訳している。原文でそう書いてあるのだろう。<
    >
    > Kindleのドイツ語本を見てみました。
    > transzendental(超越論的)ですね。
    > ドイツ語とDeepLの英訳をコピペします。

    ***
    投稿エラーになるので、この部分に載せていただいた原語と英文の引用を割愛してみます。すみません
    *****

    >>つまり、超越論的 - 経験的を対比的に使っているのだから、
    >>シンプルに「経験的な内容の認識を除外する」のは「超越論的論理学」である傍証の一つになるのではないか。<
    >
    > そうですね。
    > 超越論的の説明も、この後続きますしね。

    原語と英文を調べてくださってありがとう! 
    やはりそうなのですね。「経験的かアプリオリか」ではなく「経験的か超越論的か」と対立させているのですね。

    >>*********
    >>
    >>p.115
    >>石川『(超越論的論理学は)単に知性と理性の諸法則に関係し、しかも、ひたすらアプリオリな対象に向けられるかぎりにおいてであって、一般の論理学のように、無差別に経験的理性認識にも純粋な理性認識にも向けられることはないからである』
    >>末尾の表現がやや語弊あるかもですが、同じ個所
    >>中山元『この論理学(超越論的論理学)は一般論理学とは違って、理性認識が経験的なものであるか、純粋なものであるかを問わずに適用されるような学ではないからである』
    >>
    >>「一般の論理学は、無差別に経験的理性認識にも純粋な理性認識にも向けられる」と言っちゃってるわけですね。<
    >
    > はい。思考の形式だけを抽象してるのが一般論理学ということなのかな、と、思いました。

    自分もそう思います。

    『一般の論理学は認識の内容をすべて度外視する。すなわち、客体への認識の関係をすべて度外視する。そうして、諸認識間における論理的関係だけを考察する』
    についての自分のイメージですが、

    たとえば
    「(1)円には角が無く、かつ、(2)近年の日本で最も人気のあった総理は小泉である」

    という命題があったとして、この全体が「真」になるのは、(1)と(2)の両方ともに真の場合のみ。それ以外は全て全体が「偽」
    ( (1)をアプリオリ、(2)を経験的のつもりで書いていますが、異なる考え方もあるかもしれません)

    『「かつ」で結ばれているならば、両方とも真の場合のみ全体が真』 という関係は(1)や(2)がアプリオリな認識か経験的に得られた認識かには関係ありません。
    こういった形式論理学では、(1)や(2)の内容(=由来)は問わず、それらの関係(真理値の関係)のみを扱う。
    (さらに言うと、(1)や(2)が現実において正しいか否かについても論理学は関知しない。)

    そんなことでイメージしています。

    対して、
    超越論的論理学では、諸認識の内容(アプリオリか経験的か)を問うて区別するとカントは言う。


    >きちんと複数の可能性を考えられているのですね、すごいなー(*_*)

    一応、間違っているのではないかという指摘なので、間違っていなくて中山さんの挿入のままで正しく読める可能性もできるだけ考えないといけないと。
    ご存知だと思いますが、「寛容の原則」みたいなことで。
    他者の主張なり文章に対しては、できるだけ辻褄の合うような解釈を探すという(安易に批判する前に)。
    (カントの文章自体、そういう読み方しないと読めないかも…?)

    >>以上のように見ると
    >>(C)が一般論理学を指すとするのはかなり不自然な気がします。
    >>少なくとも、わざわざ[一般論理学]と挿入して決め打ちしてしまうのは危険ではないかと。
    >>
    >>
    >>間違いであると断定するのももちろん危険であるし、可謬主義というまでもなく、カントの読みを素人が(いや専門家でも)簡単に断定できるはずもないでしょうが、逆に中山元さんが読みを決め打ちしてしまっているのも疑問 - 程度は言っていいんじゃないかと。
    >>
    >>
    >>次に (C)の主語が超越論的論理学である場合に、これらの文章間に齟齬・矛盾が生じるか、それとも矛盾の生じない解釈が可能かについて書くつもりですが、またこんど。<
    >
    > おつかれさまです!
    > 第一はカントがひどい、と、思うのですが、
    > いろいろじっくりカントの文章について読んだり考えたりできてとても勉強になりました。
    > ありがとうございます!

    こちらこそありがとうございます。

引用返信/返信 削除キー/
■36138 / inTopicNo.51)  Re[16]: 今年もよろしくお願いします
□投稿者/ おくたがわ -(2024/01/12(Fri) 13:04:32)
    こちらこそよろしくお願いいたします。
    遅レスですみません。

    No36002に返信(パニチェさんの記事)
    > ■No35948に返信(おくたがわさんの記事)
    >
    >>探査日記というトピ題は、その昔ヤフー掲示板というところで使っていたハンドルです。
    >>おくたがわの前に、主にお笑い・大喜利系のトピで使用したのでパニチェさんたちはたぶん知らない。
    >>その後、ヤフー以外のネット大喜利にも進出して(名前は変えましたが)大会的なもので上位に入ったことも。プロのお笑い芸人にもけっこう高評価されてたこともありました。(河本とか。藤原もいたような… - なんかやらかしたやつばっかりか…)
    >
    > これは全く知りませんでした。
    > 哲カテ全般「神はいるか」トピでおくたがわさんと出会う前ですね。
    > そんなキャラの側面もあったとは当時のおくたがわさんからは想像できませんでした。。。^^;

    そうですか? でも、哲学のことを知らないのになんでこいつは哲学カテをうろうろしてるんだろうという感じではなかったですか?
    ネットお笑いのログは長く残っていましたが、今回検索してみたら全くヒットせず。さすがに全部消えたか…。寂しい気もします。

    ヤフーで一番古くから知っている名前は地下猫で、彼は今もX(ツイッター)で活躍中。実はパニチェさんよりも前、一番最初にぶつかった(対立した)投稿者の一人でしたが、今は懐かしいのみです。
    その次に長く知っているのがパニチェさんかエフニさんかどちらかですね(たぶん同時期に知ったと思います)。

引用返信/返信 削除キー/
■36013 / inTopicNo.52)  Re[18]: 中山元訳「純粋理性批判」について
□投稿者/ pipit -(2024/01/04(Thu) 07:57:10)
    2024/01/04(Thu) 08:12:16 編集(投稿者)
    2024/01/04(Thu) 08:01:10 編集(投稿者)

    現時点の感想ですけど、「度外視する」という訳語は、意味的にはわかりやすい上手な訳だなぁと思えました。

    内容を度外視する論理学(一般論理学)と、

    内容のある部分を排除する(度外視しない)論理学(超越論的論理学)と、、、

    特徴の差別化になるといえばなると思えます、、、けど、、、

    やっぱりカント先輩のせい、、、、、
引用返信/返信 削除キー/
■36012 / inTopicNo.53)  Re[17]: 中山元訳「純粋理性批判」について
□投稿者/ pipit -(2024/01/04(Thu) 07:49:59)
    おくたがわさん、おはようございます(^O^)

    ふと思いつきまして、「度外視する」と訳されている箇所の原語とDeepL英訳を投稿いたします。
    m(_ _)m
    原語は「abstrahiert」みたいですね。

    (ドイツ語)
    Die allgemeine Logik abstrahiert, wie wir gewiesen, von allem Inhalt der Erkenntnis,
    (DeepL英訳)
    General logic, as we have shown, abstracts from all content of knowledge,
引用返信/返信 削除キー/
■36009 / inTopicNo.54)  Re[16]: 中山元訳「純粋理性批判」について
□投稿者/ pipit -(2024/01/03(Wed) 20:28:21)
    2024/01/04(Thu) 07:32:19 編集(投稿者)
    2024/01/03(Wed) 23:04:58 編集(投稿者)

    No36007
    おくたがわさん、こんばんは!
    さっき思いついたのですが、

    論理学はアプリオリな思考規則についての学なので、対象の内容を全てバッサリ切り捨てた(度外視した)のが一般論理学だけど、
    カントは
    「内容一切を切り捨てなくても(度外視しなくても)、内容についての思考の中にもアプリオリなものがありますよ(内容を捨てない(度外視しない)論理学も可能ですよ・なぜなら内容の中にもアプリオリな認識と経験的な認識があるので)」と言っているのが、(ABC)なのかも、と思いました。

    初期仏教と大乗仏教みたいな関係性で、
    初期仏教「滅苦のために一切を捨てよ」
    大乗仏教「一切を捨てなくても、ある部分を捨てるだけで滅苦できますよ」みたいな。

    もちろん、全然違うかもですけど(^^;;

引用返信/返信 削除キー/
■36007 / inTopicNo.55)  Re[15]: 中山元訳「純粋理性批判」について
□投稿者/ pipit -(2024/01/03(Wed) 19:38:34)
    2024/01/03(Wed) 19:45:54 編集(投稿者)

    おくたがわさん、こんばんは♪
    No35962
    読書にチャレンジ参加させてください!(^人^)

    pipitも今の時点では、(C)は「超越論的論理学」のことを述べてるように思えます。

    (&カント先輩の悪文との感想も相変わらずに出ます(ーー;))

    > 1 単にこの引用部の文章の流れだけを見ると、
    > (B)と(D)がカントが提示する論理学(超越論的)を指すのは間違いないとして、真ん中にある(C)が一般論理学とすると、直後の(D)における『そのような論理学は』が(C)をとばして(B)を受けるというのは不自然に見えます。なお、この部分で中山訳のみが(D)の前に改行を入れているが、他の3者ともに改行はありません。<

    はい。

    > 次に(A)からの文脈で見ると、一般の論理学では認識の内容をすべて度外視し、超越論的論理学は度外視しないわけなので、一見すると「経験的な認識」を排除するのは、一般論理学の方であるかのような印象を受けるかもしれません。
    > しかし、「認識の内容を度外視する」と「(経験的な)認識を除外する」はまったく異なる事態を表していると思います。<

    はい。調べてみると、
    「内容」の原語はInhalt (英訳はcontent )でした。
    (C)は、【「内容」から「経験的な内容に関するような認識を、全て排除する」】という文意に捉えることも可能なのではないか、、、
    対象の内容から経験的な要素を排除し、対象認識のアプリオリな悟性規則をまとめたものが超越論的論理学という捉え方もできるのではないかと思いました。

    > 「経験的であるか否かを問わず全ての認識の内容を度外視して、認識間の関係(形式)のみを扱う」一般論理学が
    > 『経験的な内容に関するような認識を、全て排除するだろう』
    > というのは、むしろ矛盾するのではないか。
    > (また細かいことですが既に一般に確立している論理学の特徴ならば「〜だろう」と推量(未来)形で表現するのも違和感。)
    >
    > 昨日まとめた中で、一般論理学の純粋論理学について、「知性行使の際の経験的条件を全て度外視 経験的な原理を持たない」旨の説明の後に、わざわざ
    >  『ただしそれは、知性・理性使用の形式面に関してのみであり、内容がどうであるか(経験的か超越論的かは)問わない。』とことわられていることに注意。
    >
    >
    > 私は、一つの可能性として、『経験的な内容に関するような認識』が「経験的な内容の(経験に由来する)認識」ではなく、上記の『知性行使の際の経験的条件』にまつわるような認識を表現していて、一般論理学がそれを排除するという意味ならば、辻褄は合うのか、とも考えましたが、
    > しかし、『経験的な内容に関するような認識』が『知性行使の際の経験的条件』と同一であるとはやはり読みがたいし、また
    > 原、天野は『経験的な内容を含む認識』、中山は『経験的な内容からなる認識』と訳しており、やはり見出し冒頭で「度外視される」とする「内容」、それが経験的であるような「認識」と読むのが自然だと思います。
    > つまり度外視されるのは内容であって、認識自体が除外されるとは考えられない。
    >
    > ちなみに万が一、『経験的な内容に関するような認識』が『知性行使の際の経験的条件』の間違いだとしたら(可能性は0に等しいと思うが)
    > 挿入は[(一般論理学の中の)純粋論理学]とすべきで、[一般論理学]であってはならない。
    > 一般論理学のうち応用論理学は『知性行使の際の経験的条件』を除外しないことが明記されているので。<

    きちんと複数の可能性を考えられているのですね、すごいなー(*_*)

    > ***
    >
    > (C)において『経験的な内容に関するような認識(石川)』『経験的な内容からなる認識(中山)』を「全て排除する」の意味が、冒頭(A)の『認識の内容をすべて度外視する。すなわち、客体への認識の関係をすべて度外視する。』と同じである場合をもう一度考えると(そうは読めないものの)、
    > その場合に『経験的な内容』の方だけを取り上げる理由が不明。一般論理学が度外視するのは「経験的か否かを問わずすべての内容」のはずなので。
    >
    > また、(C)の主語を一般論理学とする場合、それが『経験的な内容』を除外してしまうから、除外しない論理学が他に必要なのだ、という流れになるでしょう。(文章自体がそのような理由-結論の形式になっていないことも、この読みへの疑問になるかも)
    > その場合は、超越論的論理学の方で除外されてはならない「認識」として「経験的な内容の認識」が強調されていることになります。経験的か否かを問わず内容を度外視する一般論理学に対し、わざわざ経験的な認識の方だけを取り上げているわけだから。
    > しかし、経験的な内容を持つ認識だけを取り上げて、除外または内容度外視があってはならない対象と強調する理由は無いと思われます。むしろ「超越論的」にとって重要なのは純粋≒アプリオリの方のはずなのに。
    >
    > つまり一般論理学・超越論的論理学、どちらサイドから見ても、「経験的な内容の認識」と限定して除外・度外視を述べる理由が不明。(対して(C)の主語が超越論的論理学ならば、この理由が付く)
    >
    > *******
    >
    > そもそも2ページほど前で一般論理学について
    > 『〜内容がどうであるか(経験的か超越論的かは)問わない。』とあり、原さんも後者を『超越論的』と訳している。原文でそう書いてあるのだろう。<

    Kindleのドイツ語本を見てみました。
    transzendental(超越論的)ですね。
    ドイツ語とDeepLの英訳をコピペします。

    (ドイツ語)
    Eine allgemeine, aber reine Logik, hat es also mit lauter Prinzipien a priori zu tun, und ist ein Kanon des Verstandes und der Vernunft, aber nur in Ansehung des Formalen ihres Gebrauchs, der Inhalt mag sein, welcher er wolle, (empirisch oder transzendental).
    (DeepL英訳)
    A general but pure logic, therefore, has to do with nothing but a priori principles, and is a canon of understanding and reason, but only with regard to the formal aspect of its use; the content may be what it will (empirical or transcendental).



    > つまり、超越論的 - 経験的を対比的に使っているのだから、
    > シンプルに「経験的な内容の認識を除外する」のは「超越論的論理学」である傍証の一つになるのではないか。<

    そうですね。
    超越論的の説明も、この後続きますしね。


    > *********
    >
    > p.115
    > 石川『(超越論的論理学は)単に知性と理性の諸法則に関係し、しかも、ひたすらアプリオリな対象に向けられるかぎりにおいてであって、一般の論理学のように、無差別に経験的理性認識にも純粋な理性認識にも向けられることはないからである』
    > 末尾の表現がやや語弊あるかもですが、同じ個所
    > 中山元『この論理学(超越論的論理学)は一般論理学とは違って、理性認識が経験的なものであるか、純粋なものであるかを問わずに適用されるような学ではないからである』
    >
    > 「一般の論理学は、無差別に経験的理性認識にも純粋な理性認識にも向けられる」と言っちゃってるわけですね。<

    はい。思考の形式だけを抽象してるのが一般論理学ということなのかな、と、思いました。


    > 以上のように見ると
    > (C)が一般論理学を指すとするのはかなり不自然な気がします。
    > 少なくとも、わざわざ[一般論理学]と挿入して決め打ちしてしまうのは危険ではないかと。
    >
    >
    > 間違いであると断定するのももちろん危険であるし、可謬主義というまでもなく、カントの読みを素人が(いや専門家でも)簡単に断定できるはずもないでしょうが、逆に中山元さんが読みを決め打ちしてしまっているのも疑問 - 程度は言っていいんじゃないかと。
    >
    >
    > 次に (C)の主語が超越論的論理学である場合に、これらの文章間に齟齬・矛盾が生じるか、それとも矛盾の生じない解釈が可能かについて書くつもりですが、またこんど。<

    おつかれさまです!
    第一はカントがひどい、と、思うのですが、
    いろいろじっくりカントの文章について読んだり考えたりできてとても勉強になりました。
    ありがとうございます!

引用返信/返信 削除キー/
■36002 / inTopicNo.56)  今年もよろしくお願いします
□投稿者/ パニチェ -(2024/01/03(Wed) 12:04:08)
    No35948に返信(おくたがわさんの記事)

    > 探査日記というトピ題は、その昔ヤフー掲示板というところで使っていたハンドルです。
    > おくたがわの前に、主にお笑い・大喜利系のトピで使用したのでパニチェさんたちはたぶん知らない。
    > その後、ヤフー以外のネット大喜利にも進出して(名前は変えましたが)大会的なもので上位に入ったことも。プロのお笑い芸人にもけっこう高評価されてたこともありました。(河本とか。藤原もいたような… - なんかやらかしたやつばっかりか…)

    これは全く知りませんでした。
    哲カテ全般「神はいるか」トピでおくたがわさんと出会う前ですね。
    そんなキャラの側面もあったとは当時のおくたがわさんからは想像できませんでした。。。^^;
引用返信/返信 削除キー/
■36000 / inTopicNo.57)  自己投影と対人批判
□投稿者/ おくたがわ -(2024/01/03(Wed) 10:39:27)
    2024/01/03(Wed) 13:11:27 編集(投稿者)

    2年くらい前になるのか、ここの常連の方の投影解釈についての投稿を見たのをきっかけに、つぶやきトピに2,3行のつぶやきをしたことがありました。その後詳しく書いていけたらと思っていましたが、事情があってそのままに。(その事情がなくても続けなかったかもしれませんが…。)
    後に、あて先不明の投稿をしているというような批判を受けたとき、その投稿が例として上がっていた気がしますが…

    そのつぶやきはだいたい以下のようなものだったと思います。

    『自己投影(あるいは投影解釈)によって他者を批判してしまうことを確実に避けるには、他者の心を推測しての批判自体をしないこと。』


    その呟きにこめていた私のテーマは二つ


    1、自己投影解釈。

    他人の心の中を推測するとき、本人自身の内面が投影されることが起きうるようだ。これは私だけが思っていることではなさそうで、時々関連の意見を見聞きする(上記の常連さんの投稿もその一つ)。
    一方、内面(本心・行為の動機等)について不当と思われる推測や決めつけで批判されるといった不快な事態は、SNSを長く利用していれば経験する人が多いのだと思う。それについての抗議・トラブルもよく目撃した。
    他者の内面への決めつけを見て『それは、言っている本人のこと(投影)ではないのか』と言いたくなることも(少なくとも私にはあった)。自分が受けた場合だけでなく、他人同士のやりとりを第三者として見ている場合にも。
    実際「げすの勘ぐり」という言葉も存在する。

    しかし、それが本人の自己投影であろうと考えるのもまた、他者の内面を推測していることになるだろう。相手の日頃の言動に手がかりが多い場合もあるにしても、それでも他人の内面を確かに知ることはできないはずだから、どこまでも「推測・憶測」でしかないと思われ。
    他者の内面に対する決めつけが実は言っている本人自身の内面と一致しているという推測と、それが投影によって起きているという推測。

    げすの勘ぐり(と感じる決めつけ)に腹立たしい思いをした経験があるのならば(私は何度もある)、なおさら、自分が他人にそれをしてはいけないと、考えるべきだろう -- と。
    すると、他者の自己投影を批判するよりも先にできることは、自分自身の自己投影を避ける努力なのだろうと。(他者を変えることはできない、変えられるのは自分自身だけとも言われる)

    しかし、自分自身をひな形にして他者の内面をモニターしてしまうことが、もしも根深く人の身に付いた様式であるとしたら(少なくとも私がそうであるとしたら)。
    私が投影解釈について考え出した最初のきっかけは忘れたが、考える際の手がかりは、自分自身のそれだったのかもしれず。

    ******
    中学か高校くらいの一時期、他人の心が分かる、見通せると感じていたことがありまして。
    しかしそれは単に、自分の中で推測を作れるということにすぎず、また、その推測が正しいと思い込んでいただけだったのだろうと後に気づきました。合っているかどうかの照合先(相手の内面・心)が実体としては存在しない、少なくとも見えないのだから、「図星だ」と相手が認めでもしない限り答え合わせはないのだし。
    しかも、見通せるとまで感じたのは、己自身の投影だったからではないかと。
    単に相手の言動から推測しているだけなら、見えるという実感は持たなかったのではないか。

    ともかく、「当たっていないことがある」とだんだん気づいた。むしろ自分自身がけっこう少数派の考え方・感じ方をする面も多いと分かっていったこともあって、逆に、他人の心など分からないという方向に針が振れました。他人が私を分かっていない(的外れなことを言われる)ということと抱き合わせで。
    特に大きく影響したのは、異性と付き合い始めたことだった気もする。人それぞれの感じ方考え方の違いの大きさを端的に分からされるという。
    ***********

    それやこれやで、『こいつ自己投影で他人のことを分かったつもりになっている』という推測もまた、昔の未熟な自分を投影しているのかもしれないわけで。
    それも含めて「他人のことは分からない」を、できるだけ意識すべきだと。分かるのは外形的な言動だけだと思うようになり。

    2、対人批判→人格攻撃
    人を批判する際の限界というのが自分の中のテーマとして、このところ(4,5年)あります。
    単純に言うと、批判の対象は意見、事実(科学的or学問的な正誤)、行為まで。
    対人批判、なかんずく相手の内面(人格含め)に触れる批判はトラブルに直結すると。
    これは私一人の考えではなく、議論について一般に言われることのように思います。
    ディベートでも、その辺で線引きしていることが多いと。

    けれども、相手の内面を推測して批判するのは、SNSでよく見る光景。
    私も無頓着な頃にはやっていたと思います。
    しかし、ヤフー掲示板という人格攻撃やげすの勘ぐりが乱れ飛んでいた場で傷だらけの人生(笑)を送った中で、
    上の基準を意識するようになったと思います。


    で、先に書いたつぶやき投稿ですが

    『自己投影(あるいは投影解釈)によって他者を批判してしまうことを確実に避けるには、他者の心を推測しての批判自体をしないこと。』

    車の運転ミスを避ける決定的な方法は車を運転しないこと。
    下手な文字を書かないための方法は、文字を書かないこと。
    といった、少々のお笑いも意識してはいますが(誰にも伝わらなかったようで、やはり自分のお笑い力は終わっているもよう)

    しかし、自戒自体はまじめ。

    そもそも他人の内面を推測して批判するようなこと(当然、対人批判・人格批判になる)は議論の上で必要ないし、社交の場でも無用。必要もないそれらをしなければ、自己投影で誤った批判をしてしまうことも起きない。

    とまあ、2つのテーマを絡めていたわけです。


    *********
    当然、私が意識する基準であって、正式にルールを決めて行うディベートでもない限り、SNSでどのように話し合い、人と付き合うかは個々人の自由だと分かっていますよ。(ただ、好き嫌いが生じることはありますけどね)

    単に、自分の目標であるとご理解いただければ幸甚です

    *****

    こうやって書いてみると、新しい問題点も見えてきたので、また考えて書くと思います。
    文字にして書いてみること大事のよう。
引用返信/返信 削除キー/
■35985 / inTopicNo.58)  X(旧ツイッター)から
□投稿者/ おくたがわ -(2024/01/02(Tue) 12:55:31)
    バク@ 精神科医@DrYumekuiBaku

    安心なところに居る人へ

    安全な所にいることは罪ではありません。自分を責めないで落ち着いて下さい

    何ならニュースを見るのをやめて本とかで気を逸らしましょう
    息苦しいなら呼吸時意識して吐いて下さい(過換気は吸い続けて起こる)
    緊急時のニュースは見なくてもいい人は見ない方が良いです 
     
    ---ここまで引用

    ***
    おくたがわ:昨日のNHKの緊急放送の絶叫が自分にはこたえて、落ち着いた声を求めてチャンネルをかえた。ただ実際に危険な場所にいる人には、あのくらいきつく注意喚起すべきという判断なのか、とも思っていたところ、
    ツイッターでも賛否両論出ているが、喫緊の非難を促すためには必要という支持も多いよう。
引用返信/返信 削除キー/
■35962 / inTopicNo.59)  Re[14]: 中山元訳「純粋理性批判」について
□投稿者/ おくたがわ -(2024/01/01(Mon) 13:29:01)
    2024/01/01(Mon) 13:37:40 編集(投稿者)

    話題にするのは中山元さん訳の挿入文の適否ですが、添付の画像は石川文康訳です。また適宜、原佑訳、天野訳も参照します。
    (A)(B)…は私が目印として付けたものです。

    『(A)われわれが示したように、一般の論理学は認識の内容をすべて度外視する。すなわち、客体への認識の関係をすべて度外視する。』

    経験的な内容かそうでない(純粋≒アプリオリ)かを度外視する。
    「認識の内容」という言葉が客体への認識の関係、つまり経験に由来するかアプリオリかを意味していること。少なくとも、この見出下では一貫しているもよう。

    『(B)〜必ずしも認識の内容を度外視しないような論理学が存在するであろう。というのは、(C)単に対象の純粋な思考の規則を含むような論理学は、経験的な内容に関するような認識を、全て排除するだろうからである。(D)そのような論理学は、対象に関するわれわれの認識の起源にまでさかのぼるであろう。』

    中山元訳では、(C)の論理学に[一般論理学]との補足が挿入されている。
    (中山訳では原文に無い中山自身による補足が[ ]に入れて文中に挿入される。)
    この補足が妥当かどうかという疑問を、以前私は投稿していました。


    1 単にこの引用部の文章の流れだけを見ると、
    (B)と(D)がカントが提示する論理学(超越論的)を指すのは間違いないとして、真ん中にある(C)が一般論理学とすると、直後の(D)における『そのような論理学は』が(C)をとばして(B)を受けるというのは不自然に見えます。なお、この部分で中山訳のみが(D)の前に改行を入れているが、他の3者ともに改行はありません。

    次に(A)からの文脈で見ると、一般の論理学では認識の内容をすべて度外視し、超越論的論理学は度外視しないわけなので、一見すると「経験的な認識」を排除するのは、一般論理学の方であるかのような印象を受けるかもしれません。
    しかし、「認識の内容を度外視する」と「(経験的な)認識を除外する」はまったく異なる事態を表していると思います。
    「経験的であるか否かを問わず全ての認識の内容を度外視して、認識間の関係(形式)のみを扱う」一般論理学が
    『経験的な内容に関するような認識を、全て排除するだろう』
    というのは、むしろ矛盾するのではないか。
    (また細かいことですが既に一般に確立している論理学の特徴ならば「〜だろう」と推量(未来)形で表現するのも違和感。)

    昨日まとめた中で、一般論理学の純粋論理学について、「知性行使の際の経験的条件を全て度外視 経験的な原理を持たない」旨の説明の後に、わざわざ
     『ただしそれは、知性・理性使用の形式面に関してのみであり、内容がどうであるか(経験的か超越論的かは)問わない。』とことわられていることに注意。


    私は、一つの可能性として、『経験的な内容に関するような認識』が「経験的な内容の(経験に由来する)認識」ではなく、上記の『知性行使の際の経験的条件』にまつわるような認識を表現していて、一般論理学がそれを排除するという意味ならば、辻褄は合うのか、とも考えましたが、
    しかし、『経験的な内容に関するような認識』が『知性行使の際の経験的条件』と同一であるとはやはり読みがたいし、また
    原、天野は『経験的な内容を含む認識』、中山は『経験的な内容からなる認識』と訳しており、やはり見出し冒頭で「度外視される」とする「内容」、それが経験的であるような「認識」と読むのが自然だと思います。
    つまり度外視されるのは内容であって、認識自体が除外されるとは考えられない。

    ちなみに万が一、『経験的な内容に関するような認識』が『知性行使の際の経験的条件』の間違いだとしたら(可能性は0に等しいと思うが)
    挿入は[(一般論理学の中の)純粋論理学]とすべきで、[一般論理学]であってはならない。
    一般論理学のうち応用論理学は『知性行使の際の経験的条件』を除外しないことが明記されているので。

    ***

    (C)において『経験的な内容に関するような認識(石川)』『経験的な内容からなる認識(中山)』を「全て排除する」の意味が、冒頭(A)の『認識の内容をすべて度外視する。すなわち、客体への認識の関係をすべて度外視する。』と同じである場合をもう一度考えると(そうは読めないものの)、
    その場合に『経験的な内容』の方だけを取り上げる理由が不明。一般論理学が度外視するのは「経験的か否かを問わずすべての内容」のはずなので。

    また、(C)の主語を一般論理学とする場合、それが『経験的な内容』を除外してしまうから、除外しない論理学が他に必要なのだ、という流れになるでしょう。(文章自体がそのような理由-結論の形式になっていないことも、この読みへの疑問になるかも)
    その場合は、超越論的論理学の方で除外されてはならない「認識」として「経験的な内容の認識」が強調されていることになります。経験的か否かを問わず内容を度外視する一般論理学に対し、わざわざ経験的な認識の方だけを取り上げているわけだから。
    しかし、経験的な内容を持つ認識だけを取り上げて、除外または内容度外視があってはならない対象と強調する理由は無いと思われます。むしろ「超越論的」にとって重要なのは純粋≒アプリオリの方のはずなのに。

    つまり一般論理学・超越論的論理学、どちらサイドから見ても、「経験的な内容の認識」と限定して除外・度外視を述べる理由が不明。(対して(C)の主語が超越論的論理学ならば、この理由が付く)

    *******

    そもそも2ページほど前で一般論理学について
    『〜内容がどうであるか(経験的か超越論的かは)問わない。』とあり、原さんも後者を『超越論的』と訳している。原文でそう書いてあるのだろう。
    つまり、超越論的 - 経験的を対比的に使っているのだから、
    シンプルに「経験的な内容の認識を除外する」のは「超越論的論理学」である傍証の一つになるのではないか。

    *********

    p.115
    石川『(超越論的論理学は)単に知性と理性の諸法則に関係し、しかも、ひたすらアプリオリな対象に向けられるかぎりにおいてであって、一般の論理学のように、無差別に経験的理性認識にも純粋な理性認識にも向けられることはないからである』
    末尾の表現がやや語弊あるかもですが、同じ個所
    中山元『この論理学(超越論的論理学)は一般論理学とは違って、理性認識が経験的なものであるか、純粋なものであるかを問わずに適用されるような学ではないからである』

    「一般の論理学は、無差別に経験的理性認識にも純粋な理性認識にも向けられる」と言っちゃってるわけですね。



    以上のように見ると
    (C)が一般論理学を指すとするのはかなり不自然な気がします。
    少なくとも、わざわざ[一般論理学]と挿入して決め打ちしてしまうのは危険ではないかと。


    間違いであると断定するのももちろん危険であるし、可謬主義というまでもなく、カントの読みを素人が(いや専門家でも)簡単に断定できるはずもないでしょうが、逆に中山元さんが読みを決め打ちしてしまっているのも疑問 - 程度は言っていいんじゃないかと。


    次に (C)の主語が超越論的論理学である場合に、これらの文章間に齟齬・矛盾が生じるか、それとも矛盾の生じない解釈が可能かについて書くつもりですが、またこんど。
2461×1813 => 600×442

junisi_0057a.jpg
/1416KB
引用返信/返信 削除キー/
■35948 / inTopicNo.60)  本題はまた今度にして
□投稿者/ おくたがわ -(2023/12/31(Sun) 20:22:52)
    マトメとか要約作業はとても不得手で疲れたので、カントの続きは来年ということで。

    探査日記というトピ題は、その昔ヤフー掲示板というところで使っていたハンドルです。
    おくたがわの前に、主にお笑い・大喜利系のトピで使用したのでパニチェさんたちはたぶん知らない。
    その後、ヤフー以外のネット大喜利にも進出して(名前は変えましたが)大会的なもので上位に入ったことも。プロのお笑い芸人にもけっこう高評価されてたこともありました。(河本とか。藤原もいたような… - なんかやらかしたやつばっかりか…)
    ただ、時は流れ、今はもうついていけないだろうな。今の流行り、特にゲームとかアニメを踏まえたネタは全然共有できないので。カントをネタにしてもあかんでしょう。そりゃそうだ。

    *******

    今年は、以前から応援していたスポーツ選手が不思議(?)に開花した年だった。
    阪神の坂本誠志郎、常時使えばあのくらいやれるのは当然。木浪 - これもちゃんと使い続ければやれる子やとは思ってたけど、想定を超えた爆発力。(大山は言うまでもなく。あと言わなくてもいいことやろけど、梅野は嫌いです-捕手に全く向いてない性格なだけかもしれんけど)
    錦木 - やれるかどうかは分からんけど好きな力士だったところ、予想外の大躍進。
    それぞれ来年も続けてほしい。

    そして、平野美宇は五輪の個人代表枠2人で現在ポイント2位、たしか一月の大会で決着がつくのだと思う。美誠ファンには悪いけど今回は平野を。
引用返信/返信 削除キー/

<前の12件 | 次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 >>
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -