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Re[14]: 中山元訳「純粋理性批判」について
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□投稿者/ おくたがわ -(2024/01/01(Mon) 13:29:01)
| 2024/01/01(Mon) 13:37:40 編集(投稿者)
話題にするのは中山元さん訳の挿入文の適否ですが、添付の画像は石川文康訳です。また適宜、原佑訳、天野訳も参照します。 (A)(B)…は私が目印として付けたものです。
『(A)われわれが示したように、一般の論理学は認識の内容をすべて度外視する。すなわち、客体への認識の関係をすべて度外視する。』
経験的な内容かそうでない(純粋≒アプリオリ)かを度外視する。 「認識の内容」という言葉が客体への認識の関係、つまり経験に由来するかアプリオリかを意味していること。少なくとも、この見出下では一貫しているもよう。
『(B)〜必ずしも認識の内容を度外視しないような論理学が存在するであろう。というのは、(C)単に対象の純粋な思考の規則を含むような論理学は、経験的な内容に関するような認識を、全て排除するだろうからである。(D)そのような論理学は、対象に関するわれわれの認識の起源にまでさかのぼるであろう。』
中山元訳では、(C)の論理学に[一般論理学]との補足が挿入されている。 (中山訳では原文に無い中山自身による補足が[ ]に入れて文中に挿入される。) この補足が妥当かどうかという疑問を、以前私は投稿していました。
1 単にこの引用部の文章の流れだけを見ると、 (B)と(D)がカントが提示する論理学(超越論的)を指すのは間違いないとして、真ん中にある(C)が一般論理学とすると、直後の(D)における『そのような論理学は』が(C)をとばして(B)を受けるというのは不自然に見えます。なお、この部分で中山訳のみが(D)の前に改行を入れているが、他の3者ともに改行はありません。
次に(A)からの文脈で見ると、一般の論理学では認識の内容をすべて度外視し、超越論的論理学は度外視しないわけなので、一見すると「経験的な認識」を排除するのは、一般論理学の方であるかのような印象を受けるかもしれません。 しかし、「認識の内容を度外視する」と「(経験的な)認識を除外する」はまったく異なる事態を表していると思います。 「経験的であるか否かを問わず全ての認識の内容を度外視して、認識間の関係(形式)のみを扱う」一般論理学が 『経験的な内容に関するような認識を、全て排除するだろう』 というのは、むしろ矛盾するのではないか。 (また細かいことですが既に一般に確立している論理学の特徴ならば「〜だろう」と推量(未来)形で表現するのも違和感。)
昨日まとめた中で、一般論理学の純粋論理学について、「知性行使の際の経験的条件を全て度外視 経験的な原理を持たない」旨の説明の後に、わざわざ 『ただしそれは、知性・理性使用の形式面に関してのみであり、内容がどうであるか(経験的か超越論的かは)問わない。』とことわられていることに注意。
私は、一つの可能性として、『経験的な内容に関するような認識』が「経験的な内容の(経験に由来する)認識」ではなく、上記の『知性行使の際の経験的条件』にまつわるような認識を表現していて、一般論理学がそれを排除するという意味ならば、辻褄は合うのか、とも考えましたが、 しかし、『経験的な内容に関するような認識』が『知性行使の際の経験的条件』と同一であるとはやはり読みがたいし、また 原、天野は『経験的な内容を含む認識』、中山は『経験的な内容からなる認識』と訳しており、やはり見出し冒頭で「度外視される」とする「内容」、それが経験的であるような「認識」と読むのが自然だと思います。 つまり度外視されるのは内容であって、認識自体が除外されるとは考えられない。
ちなみに万が一、『経験的な内容に関するような認識』が『知性行使の際の経験的条件』の間違いだとしたら(可能性は0に等しいと思うが) 挿入は[(一般論理学の中の)純粋論理学]とすべきで、[一般論理学]であってはならない。 一般論理学のうち応用論理学は『知性行使の際の経験的条件』を除外しないことが明記されているので。
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(C)において『経験的な内容に関するような認識(石川)』『経験的な内容からなる認識(中山)』を「全て排除する」の意味が、冒頭(A)の『認識の内容をすべて度外視する。すなわち、客体への認識の関係をすべて度外視する。』と同じである場合をもう一度考えると(そうは読めないものの)、 その場合に『経験的な内容』の方だけを取り上げる理由が不明。一般論理学が度外視するのは「経験的か否かを問わずすべての内容」のはずなので。
また、(C)の主語を一般論理学とする場合、それが『経験的な内容』を除外してしまうから、除外しない論理学が他に必要なのだ、という流れになるでしょう。(文章自体がそのような理由-結論の形式になっていないことも、この読みへの疑問になるかも) その場合は、超越論的論理学の方で除外されてはならない「認識」として「経験的な内容の認識」が強調されていることになります。経験的か否かを問わず内容を度外視する一般論理学に対し、わざわざ経験的な認識の方だけを取り上げているわけだから。 しかし、経験的な内容を持つ認識だけを取り上げて、除外または内容度外視があってはならない対象と強調する理由は無いと思われます。むしろ「超越論的」にとって重要なのは純粋≒アプリオリの方のはずなのに。
つまり一般論理学・超越論的論理学、どちらサイドから見ても、「経験的な内容の認識」と限定して除外・度外視を述べる理由が不明。(対して(C)の主語が超越論的論理学ならば、この理由が付く)
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そもそも2ページほど前で一般論理学について 『〜内容がどうであるか(経験的か超越論的かは)問わない。』とあり、原さんも後者を『超越論的』と訳している。原文でそう書いてあるのだろう。 つまり、超越論的 - 経験的を対比的に使っているのだから、 シンプルに「経験的な内容の認識を除外する」のは「超越論的論理学」である傍証の一つになるのではないか。
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p.115 石川『(超越論的論理学は)単に知性と理性の諸法則に関係し、しかも、ひたすらアプリオリな対象に向けられるかぎりにおいてであって、一般の論理学のように、無差別に経験的理性認識にも純粋な理性認識にも向けられることはないからである』 末尾の表現がやや語弊あるかもですが、同じ個所 中山元『この論理学(超越論的論理学)は一般論理学とは違って、理性認識が経験的なものであるか、純粋なものであるかを問わずに適用されるような学ではないからである』
「一般の論理学は、無差別に経験的理性認識にも純粋な理性認識にも向けられる」と言っちゃってるわけですね。
以上のように見ると (C)が一般論理学を指すとするのはかなり不自然な気がします。 少なくとも、わざわざ[一般論理学]と挿入して決め打ちしてしまうのは危険ではないかと。
間違いであると断定するのももちろん危険であるし、可謬主義というまでもなく、カントの読みを素人が(いや専門家でも)簡単に断定できるはずもないでしょうが、逆に中山元さんが読みを決め打ちしてしまっているのも疑問 - 程度は言っていいんじゃないかと。
次に (C)の主語が超越論的論理学である場合に、これらの文章間に齟齬・矛盾が生じるか、それとも矛盾の生じない解釈が可能かについて書くつもりですが、またこんど。
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