TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 親記事をトピックトップへ ]

このトピックに書きこむ

レス数の限度を超えたのでレスできません。

(レス数限度:100 現在のレス数:100) → [トピックの新規作成]
■26339 / inTopicNo.97)  Re[4]: 物自体
  
□投稿者/ pipit -(2022/09/13(Tue) 17:43:18)
    おくたがわさん、こんにちは!
    pipitはおくたがわさんのトピできて嬉しいなー
    よろしくお願いします(*^◯^*)♪

    過去投稿で物自体を対象とした認識上の不可知性と、認識システムの存在性についてなどを記述して、山下和也先生の本を引用したものがあったので、投稿させていただきます。
     
    ==========過去投稿↓
    No20838
    pipitはいろいろなものを認識してます。

    @例えば目の前の『本』。
    このとき、

    Aどのように『本』と認識したか、を調べるのが『純粋理性批判』だとすると、

    ------------------------

    山下和也先生の言う【二つの視点】とは、


    @『本』が観察、観察者は『認識システム(理性)』であり、

    A観察者(認識システム)に現れる観察(認識対象)に至る順路を、観察者自身の内部から追った記述

    という@Aの視点ということかなと思いました。
    ------------------------

    このAの視点についての、山下先生の文章を引用します。

    『カントとオートポイエーシス』山下和也先生p38.39より引用
    『この視点は、いわば認識システム自身の体感になっている。そして、この視点にはシステム自身のその都度の作動しか把捉されない。システムの構造もシステムの環境も、それどころかシステム自身の全体すら把捉されないのである。
    システム自身にもシステムそのものは見えないわけで、ルーマンの「システムはそれ自身にとってどこまでも不透明である」(Luhmann 1990: 483)という記述はこれを意味する。
    さらに、この視点には環境も他のオートポイエーシス・システムも現れてこない。
    ただしそれにもかかわらず、システムそのものにとっての視点はシステム自身の実在を知っている。
    なぜなら、この視点の絶対的前提条件はシステムの実在であり、かつ、この視点はまさに実在するシステムそれ自身の視点だからである。システムが実在しないなら、システムそのものにとっての視点も存在しえない。
    また環境の実在を把捉するのも、この視点である。
    オートポイエーシスの本性上、環境なくしてシステムは実在しえないのであるから。と言っても、把捉できるのは実在だけで、その具体的なあり方までもわかるわけではない。
    こうした把捉の仕方は無論、観察ではなく、何かの現れを現す表象の産出とは異なる。
    それは否定しようのない直接性をもった把捉である。
    こうした把捉の仕方を「直接知」と名付けてみた(山下二〇一〇:一八三)』
    引用終了

    pipit私見です。

    カント哲学において、不可知の対象として設定されている【物自体】という概念に、カントはどうして身も蓋もなく確実な実在性を与えているのか、

    という、なぜ? に対する山下先生の考えが、上記引用部分なのではないのか、と思いました。

    ============過去投稿終了↑

    (pipit私見)
    山下先生の場合は、オートポイエーシスシステム自体を物自体と捉えて、現れる認識を現象と考えられているようですね。
    これも数ある考え方の一つになるのかな、と、思いました。

    他にも読者によって様々な解釈がなされているようですね(^^;;

    ちなみにpipitがpipitのトピで引用した御子柴先生訳のカントの文章で気になってるのは、
    No26322
    『したがって、悟性は、まさに現象を〔それとして〕認めることによって、物それ自体の現存在をも容認する。
    そして、その限りで、私たちは次のように言うことができる。
    諸現象の根拠として存するような何らかのものの表象、したがって、たんなる悟性体の表象は、たんに認められるのみならず不可避である』
    の中の
    『たんなる悟性体の表象』という言葉。
    自信ないのですが、
    物自体という対象を悟性だけで表象してる、って意味なのかなぁ、と。
    それか、知的直観系???
    全く違うかもなんですけど。

    ちょっと気になってました。

    それでは失礼しまーす(*^▽^*)
引用返信/返信 削除キー/
■26335 / inTopicNo.98)  Re[3]: 物自体
□投稿者/ おくたがわ -(2022/09/13(Tue) 13:03:21)
    No26334に返信(おくたがわさんの記事)

    もともと自分は、不可知であるはずの物自体が「存在する」となぜ言えるのか、存在するかどうかも不可知ではないか?という疑問を持っていましたが。
    論文にあるように、感性が触発されて感覚が生じているのならば、触発する何かがあるはずだという推論、
    あるいは、この理論のもとでは、触発する何かを仮定せざるを得ない・その存在が要請される。といった主張ならばありかなと。

    次に、「不可知」について考えてみた。
    コピー機で黒色に設定したら、出力されたものを見て、もとのものの色は分からない。また、それが立体である場合、そのことは分からない。
    もし我々の受容の形式が平面だけだったら、もとのものが立体であっても分からない。というより、立体という概念が無ければ、そういうものを想像もできない。
    そのように空間と時間という形式に乗せないと像を受け取れない人間には、そこに乗せる前の「何か」がどのようなものなのかは一切分からない。
    それを「不可知」と自分は勝手に受け止めていましたが、
    「触発するものである」とか、ともかく物自体についてカントが語っている以上、それ(物自体)について少なくとも一部分を知っているのではないか。
    となると、限定的な「不可知」というべきなのかな。

    変なことを書いていたら遠慮なくご指摘ください。
引用返信/返信 削除キー/
■26334 / inTopicNo.99)  物自体
□投稿者/ おくたがわ -(2022/09/13(Tue) 12:54:57)
    うましかさんが紹介された論文
    『「物自体は存在するか」という伝統的な問題の解決によせて』
    https://www-hs.yamagata-u.ac.jp/wp-content/uploads/2017/10/kiyou12_02.pdf

    ここから引用しつつ思うところをちょこっと書きます。ただし、全要旨をまとめるものではありません。

    『物自体の存在の問題に関する解釈者の間の不一致が生ずる原因のうち最も重要なものは,この問題について,カント自身が相反する言明をなしている,ということである。
    私は,これが単なる,カントの「筆が滑った」ものとして片づけることができない,真の不整合であるということを認める。
    その上で,私が目指すことは,『純粋理性批判』の全ての主張,ではなく,少なくともその諸主張・議論のうちの重要なものを整合的に理解可能にするような,物自体についての理論を提示することである。』

    『 物自体の存在を証する,カント哲学における論拠としては二種類がある。
    一つは,ヘンリー・アリソンが「意味論的議論」と呼ぶところの,
    《現象が存在するならば,現象してくる当のものが存在するのでなければならない》と論じるものであるが,この論拠の難点はよく知られている。
     本論考が,物自体の存在主張を基礎づける論拠として注目するのは,いわゆる「触発からの議論」というものである。』

    『この議論(いわゆる「触発からの議論」)の中心的論拠は受容性である。ここで,カントにおける受容性の二つの含意を確認しておこう。
    1 [非自発性]我々認識主観が受容する感覚は,我々の自発性の所産ではない。
    2 [他のものからの影響]感覚が生ぜしめられるのは,認識主観とは数的に異なるものが認識主観に影響を及ぼすことによる。

    含意1が受容性の概念のうちに含まれることは明らかだが,無視できない多くのカントの言明は,彼がさらに含意2も受容性の要件とみなしていたことを証拠立てる。
    例えば,「対象が我々を触発する」というタイプの全ての表現がそれにあたる。(自己触発でもない限り,この対象は認識主観とは別のもののはずである。)
    また,こうした表現においては,まさに他のものからの因果的影響すら示唆されている。』

    上記にもとずく「触発からの議論」の
    『Step 2:触発するものは認識主観とは数的に異なるものでなければならない(受容性の含意)』

    について著者は、
    『上の議論はそれ自体で欠陥を持つこともまた示され得る。ここでは特に Step 2に注目しよう。一体どうやったら,我々に感覚が与えられている,ということから,感覚を生ぜしめる我々とは数的に異なるものが存在する,ということを結論することができるのだろうか。
    感覚は,我々の自発性によって生ぜしめられるのではないにせよ,他のものからの影響を全く必要とせず,それ自体でいわば「自動的に」我々の心のうちに生じてくるようなものであるかもしれないではないか?』

    そこで、「触発からの議論」の修正版を著者は提示する。それが以下

    『Step 1:経験的認識のためには,触発によって認識主観に感覚が与えられなければならない。(受容性の事実)
    Step 2:感覚は我々の自発性の所産ではない(受容性の含意)。換言すれば,感覚が我々の心性において生ぜしめられる過程──すなわち,触発の過程──は,我々の自発性に依存しない。 
    Step 3:従って,この過程は,我々の認識にも依存しない。というのも,我々の認識は受容性と自発性の協働によって初めて生じるがゆえに,自発性から独立なものは認識全体からも独立であるはずだからである。 
    Step 4:しかしながら,超越論的観念論によれば,認識から独立なものは空間的対象ではあり得ない。従って,触発の過程は物自体の側で生じている過程であらざるを得ない。──さて,我々には実際に感覚が与えられているから,少なくともそれを生ぜしめる物自体的過程は現実的である(あるいはそのようなものとしての物自体が存在する)。』

    この場合、

    『議論 T は,「物自体 Dinge an sich」についての通常の理解の変更を迫る,ということは強調に値する。議論 T は,触発する物自体が,個体としてイメージされるようないわゆる「物」とは根本的に異なるものであるかもしれない,という可能性を排除しない。
    例えば,「物自体」とは,「我々の心のうちに(自発性から独立に)感覚が生じる」という過程,あるいはその際の単なる秩序のようなものであるのかもしれないし,あるいはそれどころか,およそ我々にとって端的に理解不可能なものでさえあるのかもしれないのだ。(それがともかくも我々の認識から独立に存立するものである,ということだけは理解されるが。)  
    しかし,このような可能性は,カント哲学において「物自体」という語を用いることの障害になるとは考え難い。
    というのも,物自体とは,すでにカント自身の理解において,そのあり方が全く認識不可能なもの,通常の時空的事物とは全く異種なものであるはずだからだ。従って,議論 T が,「物自体」や「触発」のあり方を未規定のままに残す,ということは,カントによる物自体の不可知性テーゼに照らして,よりふさわしいことである,とすら言えよう。』

    この部分は、物自体について自分の持つイメージにしっくりくるものと感じました。
引用返信/返信 削除キー/
■26329 / inTopicNo.100)  ありがとうございます。
□投稿者/ おくたがわ -(2022/09/13(Tue) 07:23:56)
    早速トピを作成していただきありがとうございます。
    アドバイス頂いたように、マイペースで続けていければと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■26314 / inTopicNo.101)  探査日記
□投稿者/ パニチェ -(2022/09/12(Mon) 20:49:03)
    トピ主:おくたがわさん

    ネットや本、他の人のトピ等を見て知ったこと・考えたことの書き残し

    よろしくお願いします
引用返信/返信 削除キー/

<前の12件

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 >>
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -