| 2022/06/05(Sun) 08:21:49 編集(投稿者)
シリーズ世界の思想 ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』古田徹也 著 を読み、理解できそうなところをまとめる、の五回目。
今回は、本でいうとずっと先のほう、私が以前から考えずにいられずにいることについて、ウィトゲンシュタインが何か言っているのを知ったので、今回はそれについて。
◎ 六・四四 世界がいかにあるかが神秘なのではない。世界があるという、 そのことが神秘なのである。
まったくそう思うのです。 そもそもなぜ「ある」のか? その答えを誰も知らないけれど、「ある」ことになっている。 多くの人が不思議を感じることだと思います。
・・・・・ 私たちが「世界がある」という命題で表現しようとする際の世界とは、無限定の対象であり、限界づけられるはずのない対象である。 「世界がある」というのは、命題もどきであり、何の事実も写し取っていない。 無限定の対象、あらゆる対象を含むことができてしまう対象は、対象ではないにも関わらず、私たちは世界が存在することに驚く。 限界づけられるはずのないものを、限界づけられた全体として、「世界」と呼ばれるような何かとして、そう名指しされる一個の対象のようなものとして感じる。
つまり、いかなる事態も描き出していないが(意味はない)が、重要性ないし意義がある(意味はある)というように、「限界づけられた全体として世界を感じる」という時になる。 ・・・・・
同書p318〜p319よりまとめ。
このような「語りえない問題」について、哲学は語ろうとしてきたがそれは無意味だとウィトゲンシュタインは考え、「語りえることと語りえないことの区別」をつけようと、『論考』を書いた、ということですね。
次回からは、また前に戻ります。
とはいえ・・・不思議です。 「なぜ世界があると人間は感じるのか」。 「世界があるというように人間は感じるが、それはどうしてか、そもそも本当に確実に ある ものというものがあるとしたらそれは何なのか? 」とか。 ウィトゲンシュタインはそうしたことについては哲学から排除すべきと考えたみたいですが、考えてしまうのも人間だからこそなんですよね。
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