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■23738 / inTopicNo.73)  論理哲学論考 5
  
□投稿者/ みのり -(2022/06/05(Sun) 08:16:32)
    2022/06/05(Sun) 08:21:49 編集(投稿者)

    シリーズ世界の思想 ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』古田徹也 著
    を読み、理解できそうなところをまとめる、の五回目。

    今回は、本でいうとずっと先のほう、私が以前から考えずにいられずにいることについて、ウィトゲンシュタインが何か言っているのを知ったので、今回はそれについて。


    ◎ 六・四四 世界がいかにあるかが神秘なのではない。世界があるという、
           そのことが神秘なのである。

    まったくそう思うのです。
    そもそもなぜ「ある」のか? その答えを誰も知らないけれど、「ある」ことになっている。
    多くの人が不思議を感じることだと思います。


    ・・・・・
    私たちが「世界がある」という命題で表現しようとする際の世界とは、無限定の対象であり、限界づけられるはずのない対象である。
    「世界がある」というのは、命題もどきであり、何の事実も写し取っていない。
    無限定の対象、あらゆる対象を含むことができてしまう対象は、対象ではないにも関わらず、私たちは世界が存在することに驚く。
    限界づけられるはずのないものを、限界づけられた全体として、「世界」と呼ばれるような何かとして、そう名指しされる一個の対象のようなものとして感じる。

    つまり、いかなる事態も描き出していないが(意味はない)が、重要性ないし意義がある(意味はある)というように、「限界づけられた全体として世界を感じる」という時になる。
    ・・・・・

    同書p318〜p319よりまとめ。


    このような「語りえない問題」について、哲学は語ろうとしてきたがそれは無意味だとウィトゲンシュタインは考え、「語りえることと語りえないことの区別」をつけようと、『論考』を書いた、ということですね。


    次回からは、また前に戻ります。


    とはいえ・・・不思議です。
    「なぜ世界があると人間は感じるのか」。
    「世界があるというように人間は感じるが、それはどうしてか、そもそも本当に確実に ある ものというものがあるとしたらそれは何なのか? 」とか。 
    ウィトゲンシュタインはそうしたことについては哲学から排除すべきと考えたみたいですが、考えてしまうのも人間だからこそなんですよね。




引用返信/返信 削除キー/
■23695 / inTopicNo.74)  Re[24]: 価値と努力
□投稿者/ みのり -(2022/06/03(Fri) 11:17:53)
    ずっと洗わないでいたコップを洗ってみた。
    これも、努力の一つだと思いますよ。
    自分に可能そうなことを、少しずつ。
引用返信/返信 削除キー/
■23693 / inTopicNo.75)  価値と努力
□投稿者/ みのり -(2022/06/03(Fri) 08:27:17)
    2022/06/03(Fri) 09:31:37 編集(投稿者)

    アートポットさんが書かれていたものを引用させていただいて、私の考えを書かせていただいてみます。
    それについてのレスを書いてほしいとかではないですよ。
    ただ、書いてみたくなったのでそうしてみるということです。
    哲学とも無縁ではないと思いますし。


    >【自分の価値は他人が決める】
    学校でこのように教わる。
    正確には「あの人は立派な人だと称賛される人間になりなさい。」と。

    ワタクシは、これは本当だと思う。

    じゃあ誉められないヒトは、どうすりゃいいの?

    ネットでは有りがちな「自分の価値は自分が決める」。

    これしかないでしょうね。。

    アドラー心理学では「毎日の仕事が嫌で嫌で仕様がない人は自分の価値を自分で決めていない。」

    【自分の価値は他人が決めるけど、正気を保つために自分の価値を自分で決める】<


    そもそも、自分というものの評価に拘りすぎてもしかたないと思うのです。
    人から褒められることを第一の目標にするのは虚しいと、私は思います。
    「自分の価値は他人が決める」って、奴隷道徳っぽいなぁ、とも。

    自分が価値を創造したもの、つまり、「自分がこうしたい」「自分はこれがしてみたい」「自分はこうありたい」と自ら価値を創造したものを、自分なりに追求する、というのがまず第一にくるんじゃないのかな。

    その後に、場合によっては、他人からの評価なりというのがついて来る場合も社会活動にはたくさんあるけれど。
    例えば、会社で商品開発をしていれば、他社との競争はもちろんあるし、小説を書く人たちにしても、自分の書きたい物をもちろん書くけれど、出版してもらうための工夫(競争ということにもなりますね)が必要になったりと。

    田秋さんもたしかだいぶ前だったと思うのですが、「評価は後からついてくるもの」のように書いていらしたと思います。
    記憶違いかもですが・・。

     ディオゲネスという古代の哲学者。樽の中で日がな一日思索して過ごし、奇行でも有名な人ですね。
    こういう人ぐらい徹底して、他者からの評価を気にしない、努力しているようにも見えない(思索という努力はしていたるかもだけど)人も、自分が自分でいいと思えばそれでいいんだと思いますし、私はこの人は興味深いというかおもしろいなとも思うんです。

    ようは、まず第一は、「自分がいいようにやる」じゃないのかな。
    人への迷惑とか、社会通念上どうかとかも大切だけど、まずは自分がどうしたいか。



    >【努力は戦争の始まり】


    なぜ? と思いました。
    努力するということが競争と結びつくから、ということなのかな。

    私は、「努力は戦争の始まり」とは思わないです。
    自ら進んでする努力は、充実とか愉しさ、やりがいと結びつくと思います。

    何かができるようになるためには、大なり小なりの努力が必要じゃないですか。
    小さい子が自転車に乗れるように練習するのもそうだし、大人になってから何か勉強してみるのもそうだし。

    仮に、他者より勝ることを目的としてよからぬ努力をするなら、戦争に結びつくかもしれないですね。
    A国とB国は、ある農産物生産の競合国だとして。
    自らの生産する農産物の品質を上げようと努力するのは素晴らしいけれど、競合国の農産物についての良くない風評を流すなどしたら、争いに繋がる可能性はありますね。




引用返信/返信 削除キー/
■23574 / inTopicNo.76)  論理哲学論考 4
□投稿者/ みのり -(2022/05/29(Sun) 08:27:29)
    シリーズ世界の思想 ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』古田徹也 著
    を読み、理解できそうなところをまとめる、の四回目。

     今、前回の三の上の文章をコピペして貼ったら、それだけで間違えてなぜか投稿してしまってびっくり。。(;'∀')
    先日に設定してたキーで削除しました。

    さて、今回の本文を。今回は長いです。


    二・〇一二  論理においては何ひとつ偶然ではない。ある物がある事態のなかに
           現れることが可能であるなら、その事態の可能性はその物のなかで
           予定されているのでなければならない。

    二・〇一二一 ・・・・・物が事態のなかに現れることが可能であるなら、その
           可能性は物のなかにすでにあるのでなければならない。
           (論理的なことは、単に可能なことにとどまるものではありえない。
           論理はすべての可能性を扱い、そして、すべての可能性は論理に
           とっての事実となる。)・・・・・

    二・〇一二三 私が対象を捉えているとき、私はまた、その対象が事態のなかに
           現れるすべての可能性も捉えている。
           ・・・・・後から新たな可能性が発見されるということはありえ
           ない。 

    二・〇一二四 すべての対象が与えられたならば、それとともに、すべての可能な
           事態も与えられる。

    二・〇一四  対象はあらゆる状況の可能性を含んでいる。

    二・〇一四一 事態のなかに現れる可能性が、対象の形式である。

    ・・・・・・同書 p43〜p44より引用。

    命題が有意味なものとして成立するためには、ある対象が結びつく他の対象の可能性はあらかじめ予定されている、というのがまずあって。

    これについての例として、前に読んだ別の本で、「花は白いとは結びつくが、円周率とは結びつかない」というのが出ていました。
    わかりやすいですよね。

    花を例に考えてみると。花が他の対象と結びつく可能性は、無数にあります。

    花を見る、花を描く、あの花は美しい、食用できる花もある、花をエベレストの山頂に植えてくる などなど無数に。
     
    二・〇一四一 事態のなかに現れる可能性が、対象の形式である。

    こうしたことが、↑になります。 対象の形式っていうのですね。

引用返信/返信 削除キー/
■23536 / inTopicNo.77)  植民地支配
□投稿者/ みのり -(2022/05/28(Sat) 07:53:09)
    悪魔ちゃんが引用していらした植民地支配の歴史について、を拝見して、
    それと、昨日たまたまテレビで観た内容も併せて考えたこと。

    アフリカにロシアが経済援助の名目で接近して、友好な関係を作っているらしい、というのを報道でこのごろ観る。
    欧米から奴隷としての扱いを受けたり、植民地としての扱いを受けて来たアフリカにとって、それらの国々よりもロシアの方が信頼が持てると感じるのは自然なんだろうな。

    現在、世界で起きている争いは、過去の遺恨とも複雑に絡み合っていて、今の争いがまた後世に遺恨として引き継がれていくのだろうな。。。


    対価としてそれなりのものを支払いもせずに、人を搾取して自分たちだけ儲けようというのは、まず人道的ではないし、後々に遺恨を残す愚かな方法なのにね。
    目先で得しよう得しようとして、争いが絶えていないのが世界、という感じ。

引用返信/返信 削除キー/
■23489 / inTopicNo.78)  論理哲学論考 3
□投稿者/ みのり -(2022/05/25(Wed) 14:45:46)
    シリーズ世界の思想 ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』古田徹也 著
    を読み、理解できそうなところをまとめる、の三回目。


    二    成立している事柄、すなわち事実とは、事態の成立のことをいう。

    二・〇一 事態とは、対象(もの、物)の結合である。

    二・〇二 事態の構成要素になりうることが、物にとって本質的である。

    今日はこれらの部分を見ます。


    まずは、
    二    成立している事柄、すなわち事実とは、事態の成立のことをいう。

    前回は、
    一・一一 世界は諸事実によって規定される。さらに、それらが事実のすべてであ
         ことによって規定される。
    を見ました。

    二では、「成立している事柄、すなわち事実とは、事態の成立のことをいう。」とあります。

    「事態」というのが新たに出て来たのですが、これは何なのでしょう、となりますよね。

    ・・・・・
    事実として成立しているにせよ、成立していないにせよ、論理的に可能な事柄。
    それをウィトゲンシュタインは「事態」あるいは「状況」と呼ぶ。
    逆に言えば、成立している「事態」(=状況、事柄)のことを彼は「事実」と呼ぶのである。
    ・・・・・

    ・・・・・
    世界ははじめから事実の総体としてあり、そして同時に、世界のあらゆる可能性を含んだ論理空間 ─ 事態の総体 ─ が限りなく広がっている
    ・・・・・
    同書p45より引用

    論理的に可能な事柄、それが「事態」。
    前回、例に出したもので言えば、「明日、紫式部に会う」という蓋然性の低いものも事態には含まれる。

    論理空間=事態の総体ということになる。


    次に
    二・〇一 事態とは、対象(もの、物)の結合である。

    二・〇二 事態の構成要素になりうることが、物にとって本質的である。

    ここは二つまとめて。

    ※ ウィトゲンシュタインは、物のことを「対象」と呼ぶことが多いそうです。

    ・・・・・
    いずれにせよ、ここでまず重要なのは、物ないし対象が結合することによって事態が構成されるとはいえ、事態の構成に先立って物(対象)がそれ単独で存在するわけではない、ということである。
    むしろ、物は事態ありきで、事態から特定の仕方で切り分けられる ─ 分節化される ─ ものとしてはじめて輪郭づけられる。

    すなわち、「事態の構成要素になりうることが物にとって本質的」(二・〇一一節)なことであり、事態の中に現れることなしには物は存在しえないのである。
    ・・・・・
    同書p45〜p46から引用

    以前にも触れているように、私たちが世界のうちで出会うのは、物ではなく事実だとウィトゲンシュタインはします。

    薔薇の花を知らず、初めて観た人がいたとして、「これは花だと思うのですが、何という花ですか?」と花屋さんで質問して、「その花は薔薇といいます。」と教えてもらうというのを例にすると・・。
    「花屋さんで売られている薔薇という名前の花」、として初めて薔薇と出会います。

    また。薔薇は、「庭に植えられたり」、「誕生日プレゼントとして送られたり」、「綺麗な薔薇には棘がある」という譬えに使われたりします。

    そうした「事態」の中に現れる要素として、薔薇という物(対象)を見出す。

    事態(成立していないものも含まれる)なので、「薔薇を燃料として走る車を開発した」なんていうのも含み、そうした事態の中に現れる「要素」として、例として出している薔薇は見出される。

    こうしたことが、引用した、

    「むしろ、物は事態ありきで、事態から特定の仕方で切り分けられる ─ 分節化される ─ ものとしてはじめて輪郭づけられる。」

    だとすると解りやすいかな、と思います。

引用返信/返信 削除キー/
■23467 / inTopicNo.79)  ハキリアリ
□投稿者/ みのり -(2022/05/24(Tue) 10:14:14)
    昨日たまたまBSプレミアムで観た、ハキリアリというアリたちの習性が興味深かったです。
    ジャングルの中で、木が伐採されて太陽光が当たりやすくなった土地に、植物たちが上に上にと伸びて生存競争が行われていて、ひときわ大きな葉を持つ植物の葉をハキリアリたちが顎だったかで切り取り巣に運び込む。
    緑の葉っぱをせっせと運ぶ虫、というのは以前にも何かで観たんだけど、それがハキリアリだったのかな。
    体重の10倍の重さの葉を運ぶそうです。

    巣に持ち帰ると、それを巣穴でアリたちが飼育している菌類に食べさせ、その菌類を増やし、アリたちは増えた菌類を食料にしているのだそうでした。
    農業をするアリ。 おもしろいなぁ。

    そのアリたちに切り取られて運ばれていた植物も、その木が枯れそうになると、葉に毒素を発生し、その葉を食べた菌類が弱ってしまうようになるので、アリたちは他の木に行くようになるのだそうです。

    偶然に偶然が重なって生き延びる術を生み出したものたちによる命の営みが、地上のあらゆるところで起きているのだな〜、と思ったら、感動しにくい私も(笑)、久しぶりにわくわくしました。


    そうそう。 苔(コケ)。 これが庭に生えやすくて、石灰でもまけばいいのかな、とか思ってたのですが、熱湯かけると枯れると知り、してみたらほんとに翌日には枯れてました。
    枯れたところは綺麗に取れやすいと思うのです。
    まだ枯らしただけで取ってはないけど。

引用返信/返信 削除キー/
■23403 / inTopicNo.80)  論理哲学論考
□投稿者/ みのり -(2022/05/22(Sun) 08:22:47)
    シリーズ世界の思想 ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』古田徹也 著
    を読み、理解できそうなところをまとめる、の二回目。

    今日は、以下の『論理哲学論考』(以下、『論考』)本文について考えます。
    一 などの番号がふってある文章というのは、『論考』の本文です。
    以降、ご了承ください。


    一・一一 世界は諸事実によって規定される。さらに、それらが事実のすべてであ
         ことによって規定される。


    前回見たように、世界は物の総体ではなく、成立している事柄の総体であり、事実の総体である。 と、ウィトゲンシュタインは言います。
    名もなき何かがただ雑然と立ち並んでいるのが世界なのではなく、意味が言語表現されうるのが世界である。

    例えば、「イチゴ」という単語だけであっても、それを誰かが言う時それは、「イチゴがあるよ」「イチゴが食べたい」「イチゴ買ってきて」など、イチゴにまつわる事実が表現されているのだ、ということ。
    「イチゴ」というものがどういうものかという意味付けが既になされていなければ、「イチゴ」という単語を用いて言語表現することも不可能である。


    一・一二 なぜなら、事実の総体は、どのようなことが成立しているかを規定する
         と同時に、どのようなことが成立していないかも規定するからである。

    ここについては。同書p40の例を引用します。

    ・・・・・
    それはちょうど、自分がこれまでどの都道府県に行ったかがはっきりすれば、それによって同時に、自分がこれまでどの都道府県に行っていないかもはっきりするようなものである。
    ・・・・・

    わかりやすいですよね。


    一・一三 論理空間にある事実が世界である。


    ここも引用で。
    ・・・・・
    成立している事柄であれ、成立していない事柄であれ、それ等のすべて ─ 世界の可能性の全体 ─ を、彼はさらに一・一三のなかで、「論理空間」と呼んでいる。
    ・・・・・
    同書p40より引用

    つまり、論理空間というのは。成立していない事柄(=事実ではないこと)も含むものである、ということ。
    ありうる、起こりうる可能性のあるものすべてを含むのが論理空間。

    論理空間には「明日、紫式部に会う」「月に別荘を建てようと思う」なんていうのも含まれます。

    ただ、論理的に破綻している、意味をなしていないものは、論理空間にであっても含まれない。
    例えば、「ほは※ひけは、P@Dだ」とか。


     以降、引用として示されていない例は、わたしが考えたものということでご了承ください。(今、書いた例も私が考えたものです。)


    ウィトゲンシュタインの言っていることはとても難しいのですが、おもしろいと思うんです。
    それと、人物としてもウィトゲンシュタインはおもしろいと思います。
    今のところ、哲学者のなかで人物として最も興味深い人かなぁ。
    自分で建てた別荘の写真というのも本で観たのですが、剪定もしたり、設計もしたりととにかく器用で、金持ちだったから逆になのかどうか金銭欲がなかったり(財産権を放棄してしまった)、戦争では有能な兵士だったりと。
    小学校教師をしていた時は、キレたりすることも度々ありながら、後でとても後悔して謝罪に出向いたとか。

    次回また、わかりそうなとこだけ続けてみます。


      
引用返信/返信 削除キー/
■23353 / inTopicNo.81)  論理哲学論考
□投稿者/ みのり -(2022/05/20(Fri) 10:25:55)
    シリーズ世界の思想 ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』古田徹也 著
    を理解できそうなところだけでもと思い、少しずつ読んでいます。
    古田さんの『はじめてのウィトゲンシュタイン』も、なんとなくわかりそうなところだけを読んでみて、和訳されている文章そのものが載っている本も読んでみたいなと思うようになったのです。

    この本も入門書、哲学や論理学初心者向けの内容とはされていますが、やはり難しいです。
    でも、抽象的な文章だけでなく、ところどころに身近な具体的な物が例として出てくるのでそこを糸口として考えることは可能になっていると思います。
    (ほんとに理解できるか否かは別として。)

    なぜ読んでみたいのか、少しでも理解したいと思うのかというのには、崇高な思いとか一切なくて、ただおもしろそうだからです。(^▽^;)

    というわけで。
    一   世界は、成立している事柄の総体である。
    一・一 世界は事実の総体であり、物の総体ではない。

    最初の部分です。 不完全な理解のまま次に進んでいたのだけど、もしかしたらロムの方にもなにかしら参考になるかも、と思い(ぜんぜん解ってない私が書いてみることにより)改めて読み、そして文章化してみることにしました。


    ◎ 世界は成立している事柄の総体、つまり事実の総体であり、物の総体ではない。

    物の総体ではない、と言っていますね。
    え〜、だって世界にはいろんな物が溢れてるじゃない? とも思うのですが・・・。

    しかし。 仮に、ただただ世界に物だけが溢れているとしても、その物の名前や用途などが不明であれば、「ここに 椅子 があります。」と言うこともできません。
    椅子 とさえ言えない。あります も言えない。
    ちょうど、家の中に様々な物が溢れていても赤ちゃんはそれらについて何も言うことができない、説明できない、というのと同じようなことだと思います。
    これが「世界は物の総体ではない」の説明。


    では、「世界は成立している事柄の総体であり、事実の総体である」とは。

    例えば、椅子がダイニングにあります。
    という時、椅子というものの名前を知っているし、ダイニングという物の名前も知っている、最低限として名前については既知なはずです。
    それぞれの名前を知らなかったら、そもそも「ある」ということも言えません。

    何か物が世界に「ある」という時、その名前や形状、色、用途などの内の何かしらが把握され、それが言語表現される必要がある。
    例えば、「青い何かがある」とか、「三角形の何かがある」とかでも。

    私たち(言葉が理解できる)が世界と出会う時、ただ物が並んでいる物が溢れている場所として世界と出会うのではなく、その物の名前、用途、形状、色などの理解が先にあって出会うか、出会うこととそうしたものの理解が同時になされたりする。

    先に「イチゴ」と知っていれば、「皿の上に美味しそうなイチゴがある」となるし、
    名前を知らない機械に出会い、用途や名前を教えてもらう、など。
    こうした「事実」、「成立している事柄の総体」が世界であり、名もなき物がただ単に羅列されているのが世界ではない。

     (例については、本からの引用ではなく自分で考えてみました。)


    基本的に全然違うふうに理解しているみたいだよ、というのを私が書いているとしたら、遠慮なく、詳しい方、指摘していただけると助かります。

引用返信/返信 削除キー/
■23217 / inTopicNo.82)  永遠平和のために
□投稿者/ みのり -(2022/05/13(Fri) 09:29:28)
    NHK 100分de名著シリーズ『カント 永遠平和のために 悪を克服する哲学』
    萱野稔人 著 のまとめを引き続きします。

    今回も同書p106〜の第三章「人間の悪こそ平和の条件である」から。


    人間の利己心、自己保存の欲求により国家が形成され、法的な状態に入り、また、利己心は、商業の精神によって戦争を回避させるようになる。
    このようにカントは考えていたというのを前回までで見ました。

    では、自然にまかせておけば、人間は何もしなくても平和は訪れるとカントは考えたのでしょうか。
    どうもそうではないようです。

    ・・・・・
    さてここで永遠平和の意図にかかわる本質的な問題を考察しよう。
    自然は永遠平和を意図することで、人間自身の理性の働きでみずから義務とする目的を実現するために、すなわち人間の道徳的な意図を助けるだめに、何をするのだろうか。
    ・・・・・
    同書p127より引用 この部分、カント『永遠平和のために』中山元 訳から萱野さんが引用したもの。


    「自然」は「人間の道徳的な意図を助ける」とカントは言います。
    人間が理性の働きのもとで永遠平和を実現しようと努力するなら、それを「助け」てくれるような自然の働きがたしかに存在する。
    (p128まとめ)

    ここについて自分なりに考えてみました。
    国家が形成され、人々が法的な状態に入ったのも、自然の意図の働きによるものとカントは考えます。
    そうして形成された国家を、人々が安心して暮らせる大きな家のように考え、また、他の国家(大きな家)を尊重しようと各国家がしていけば、単純に考えればですが平和は訪れると思います。
    自然によって形成されてきたものをどのように使用していくか、扱っていくか、これは人間の理性の働きでの努力が必要なのだ、とカントは考えたのではないかな。



    今回で、永遠平和のために は終了にします。



引用返信/返信 削除キー/
■23192 / inTopicNo.83)  論理(自己レス)
□投稿者/ みのり -(2022/05/11(Wed) 08:15:45)
    No23178に返信(みのりさんの記事)

    『はじめてのウィトゲンシュタイン』古田徹也 著 から引用。
    >
    > p46に、
    >
    > ・・・・・・
    > ある記号列が現実の像(模型)であるためには、その記号列は何らかの秩序に従っているのでなければならない。
    > その秩序の最も普遍的なかたちを、『論考』のウィトゲンシュタインは論理と呼ぶ。
    > ・・・・・・

    ある記号列が現実の像(模型)である時、その記号列は何らかの秩序に従っている。
    その普遍的なかたちを『論考』のウィトゲンシュタインは論理と呼ぶ。

    論理とは、の再確認。

    >
    > 文法や文の結合の仕方を規定する秩序に従っている有意味な命題。
    > こうしたものを「論理」と呼んでいるというのが、同ページを読んで理解できました。

    ここは違うんだな。

    > 文法や文の結合の仕方を規定する秩序に従っている有意味な命題

    が、論理なのではなく、

    論理は、

    > 文法や文の結合の仕方を規定する秩序に従っている有意味な命題

    として示される。そして、論理そのものは語りえない。

     で、今度はあってると思う。


引用返信/返信 削除キー/
■23191 / inTopicNo.84)  Re[16]: 疑問
□投稿者/ みのり -(2022/05/11(Wed) 08:03:32)
    No23187に返信(エフニさんの記事)

    エフ二さん、レスありがとうございます。

    >>ただ。
    >>
    >>・・・・・・
    >>いずれにせよ、ウィトゲンシュタインによれば、有意味な命題がそのように各々の日常言語の間で原理的に翻訳可能であるのは、まさに、それらが共通の秩序 
    >>─ つまり、論理 ─ に従っているからに他ならない。
    >>そして、ここが『論考』の議論にとって肝心なのだが、そのような普遍的な秩序をそれとして明示することはできない。
    >>つまり、論理は語りえない、ということだ。
    >>・・・・・・
    >>と、同書p47にあって、
    >>
    >>
    >>「そのような普遍的な秩序をそれとして明示することはできない。
    >>つまり、論理は語りえない、ということだ。」
    >>
    >>ここです、この「 」内で言われていることが解らないのです。
    >>これ、どういう意味なんでしょう?
    >>
    >>どなたか教えていただけると、とても有難いです。
    >>
    >> 
    >
    >
    > 野球やテニス、サッカーなどのゲームは、それぞれの規則・ルールに則って行われます。
    >
    > 私達はそれらのゲームを観ても、その試合のなかには規則・ルールは説明されていません。
    >
    > プレイヤー達の振る舞いのなかに示されているだけです。
    >
    > また、言語の日常の使用において、未然形接続や命令形、仮定法などと文法(規則・ルール)が、明確に説明されているわけではありません。
    >
    > 文法は言語の使用のなかで、示されているだけです。
    >
    > そんな感じのことを言っているのです。
    >
    > つまり、論理にしろ、ゲームの規則・ルールにせよ、言語の文法にせよ、その形式のなかにいるときは、それを語り得ず、ただ示されるだけなのです。
    > パニさんだったら、もっと上手に説明して下さると思います。

    理解できたと思います。
    ありがとうございました。^^

    読んでいる本は、「はじめての」の言いながら難しいですが、なぜか読まずにいられないんですよね。
    なんとか読み進めたいです。

引用返信/返信 削除キー/

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