| 『シーシュポスの神話』(カミュ著 新潮文庫)より引用
人生に意義を拒むことは、人生は生きるに値しないと宣言することに必然的に到るのだと思うふりをしてきたのは、むだではなかった。じつはこのふたつの判断のあいだには、いやおうなし両者を結びつけなければならなくなるような尺度などすこしもないのだ。……人生が生きるに値しないから人は自殺する、なるほどこれは真理かもしれない―――だが、これは自明の理というかたちの論理なのだから真理とはいっても不毛な真理である。とはいえこのような生存を侮辱し、このような否認のなかへと投げ込んでしまうのは、生存にはいささかの意義もないということから由来するのか。(pp.20-21)
しかし、ひとを圧し潰す真理は認識されることによって滅びる。(p.214)
生存本能はカントによれば自然因果性であり、決定論的に動くのでそれに逆らって自殺するということは自由因果性の証拠であり、自由の存在を示すことになる。ただそれは可能性の段階にとどめるべきだろう。人生に意味がない、という意味を造り出すのは人間の主体性である。その証拠に辞書のあらゆる語に意味をつくりだしているのは人間であって人間の存在意義は意味の創作者であって根源的には存在に意味はない。自殺も選択肢だが生きて意味を造り出していくのも選択肢だ。絶望したら自殺するのも選択肢だが人に連帯の救いを求めるのも選択肢だ。 私の人生の意味は石っころとおなじだな、と思うことがある。つまり意味がないということだ。偶然生まれ、必然的に死んでいく。なにかしなくちゃ。
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