| パニチェさん貴重なレスありがとうございます。です・ます調でいくと遠慮深くなり思考を狭める結果になりがちです。そこでである調で思考を自由にしたいので読みづらいとは思いますがご了承お願いします。 ウィトゲンの「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とは世界の外である自己=主体は語り得ぬゆえに存在感が与えられる。カント的には世界の実体である表象としての世界の外は認識できないからこそ物自体として存在感が与えられる。わからないものは存在感がある。わかってしまうと存在感が薄れる。プライバシーの価値も自己の存在感に由来する。プライバシーが崩壊すると存在感が薄れ苦しくなる。科学もそうだ。物質の本質を認識すればするほど物質の存在感が薄れてくる。するとリアルな感覚がなくなり、空想的になってくる。科学の陥穽だと思う。 私もマトリックスの映画をみた。カント的には超越論的主観性が世界を構成しているので単純に世界を主観とみなせばマトリックス的世界になる。しかしカントは実体の世界も想定していて不可知論的物自体としている。ウィトゲン的独我論とは一線を画しているようだ。 私の立場はどうかといえば観念論と唯物論の統合をめざしているので、物質の素粒子レベルでは粒子と波の二重性から物質の本質を波エネルギーとしてとらえ、津波の性質は破壊的エネルギーであることから、主観上の怒りや憎しみといった破壊的感情と同一ではないかと考えるようになってきた。つまりマトリックスの世界を実在論的世界でも可能とする考え方だ。 自己とは何かというと老子・荘子の無の考え方に近い。付け加えると「無」は形のない「有」であり有の性質をもった実体であるといえる。その有の性質が自己を形成し言語を駆使する思考の主体だと考える。そして感情的エネルギーも動力源として形成される。
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