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■20488 / inTopicNo.49)  Re[20]: 観察者
  
□投稿者/ pipit -(2022/01/21(Fri) 19:02:49)
    No20487に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > 「オートポイエーシス」ってなあに?

    pipitの感覚

    わたし、というシステムの働き方、の見方の一つ。

    悪魔ちゃん、「現象学」ってなあに ?
引用返信/返信 削除キー/
■20487 / inTopicNo.50)  Re[19]: 観察者
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/21(Fri) 18:16:04)
    「オートポイエーシス」ってなあに?
引用返信/返信 削除キー/
■20486 / inTopicNo.51)  観察者
□投稿者/ pipit -(2022/01/21(Fri) 17:09:02)
    みなさま、こんにちは。

    No20485
    山下先生の言う「観察者」とは、何者でしょうか?

    https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/24254/1/Yamashita.pdf
    『システム論的自我論 ―カントとオートポイエーシス―』
    山下和也先生
    に、以下の記述があり、ここから考えていきます。

    引用開始
    『先にシステムの自己はシステムの外から観察できないと述べた。
    先に挙げた例では、 化学反応そのものは我々には見えず、見えるのは産出される化学物質だけである。
    そ れではオートポイエーシス論はいかにして論じることができるのだろうか。
    簡単に言 えば、システム自身の視点を取り、システムの作動を「それ自体で内的に直観するよ うに」xi描き出すのである。
    マトゥラーナはしばしばオートポイエーシス・システムを 潜水艦に喩える。
    潜水艦の中で起きていることは、潜水艦の外から見たこととは、ま ったく異なっている。外から見れば、潜水艦の乗員は潜水艦を操縦しているのだが、 潜水艦の乗員自身はそこにある装置を一定の手順で操作しているに過ぎない。このよ うにシステムの内部の、システムにとっての視点から、システムの作動をいわば追体 験するように記述していくのがオートポイエーシス論なのである。』
    引用終了


    上記引用文の例で言えば、
    【潜水艦を外から見てる者】が、観察者ではないかと、pipitは思いました。
    ※オートポイエーシス論自体は、『システムの内部の、システムにとっての視点から、システムの作動をいわば追体 験するように記述していくのがオートポイエーシス論』がメインとなるのかもですが。

    No20485に戻りまして、
    >p37
    山下和也先生『カントとオートポイエーシス』より引用

    『上述した認識システムが観察者であり、その認識表象における現れの産出が観察である。
    観察の対象とは現れである何かを指す。
    具体的には見えているリンゴであったり、本であったりするわけである。
    つまり、対象もまた認識表象において存する。
    したがって、観察は認識表象の内部で完結している。』
    引用終了<

    これがわかるようでいまいちわからない。

    あ、
    ちょっと、つながっていくかも?、、、

    No20430
    >純粋理性が純粋理性を超越論的に反省する、とするとき、
    この反省する、は、
    純理で言われる『認識』ではない。 
    認識するシステムの認識システムそのものにとっての視点となる。。。
    ん?
    山下先生の文章を引用します。
    『『純粋理性批判』が何をしているかをオートポイエーシス論的に言うなば、認識システムがシステムそのものにとっての視点から認識表象の産出という自身の作動形式を記述している、ということになる。
    『純粋理性批判』の言う直観と概念による認識は、オートポイエーシス論の術語で言えば観察に相当する。
    認識システムによる、何かの現れを現す認識表象の産出である。』p47
    ↑多分だけど、一行目と二行目は視点の位置が異なってるって言ってるんだと思っています。<

    んー、p47かぁ、まだ先だなぁ。

    純理においては、認識には感性も悟性も両方必要、ってことになってると思うけど、
    それは、観察者にとっての認識の条件ということで、
    純理の記述自体は純理の視点からの記述になってて、
    その区別を頭に置いて、カントの文章を読んでみると、わかりやすくなるってかんじなのかな??

    とりあえず『観察者』についての記述続きます。p38より

引用返信/返信 削除キー/
■20485 / inTopicNo.52)  Re[17]: 第三章 批判と二つの視点
□投稿者/ pipit -(2022/01/21(Fri) 07:07:48)
    p37
    山下和也先生『カントとオートポイエーシス』より引用

    『上述した認識システムが観察者であり、その認識表象における現れの産出が観察である。
    観察の対象とは現れである何かを指す。
    具体的には見えているリンゴであったり、本であったりするわけである。
    つまり、対象もまた認識表象において存する。
    したがって、観察は認識表象の内部で完結している。』
    引用終了

    ===========

    上記引用文を解読していくため、山下先生流「認識システム」の復習を。。。

    山下先生的には、
    認識システムは理性能力システムと捉えてるのではないかとpipitは思っています。
    (生命システムは感性能力、意識システムは悟性能力)

    カントが狭義の理性を「原理の能力」(B356)と定義してることに絡めて、山下先生の解釈として、理性と認識システムを関連させている箇所を同本p31、32より引用します。


    『(略)、原理とは言わば、多様な規則がそこから導かれる上位の規則と言うことができよう。
    理性とはすなわち、規則の上位規則を導く能力である。
     これはオートポイエーシスの言葉で言うなら、理性とは、意識システムのコードに言及し、複数のコードを俯瞰的により上位のコードに包摂する能力ということになる。
    それはすなわち、意識システムに言及する認識システムの働きに他ならない。
    認識システムは同時にコード表象である記号を産出できるから、概念に名前を与えることができるのもこのシステムである。
    無論この際、意識システムの作動は自己言及を通じて繰り上がり、認識システムが概念コードによって認識表象を産出しているのであるが。
    言い換えると、我々がそれぞれに名前をつけて概念と読んでいるものは認識システムの概念コードであり、これによって初めて記号による思惟、したがって言語による思惟も可能になる。
    端的に言えば、理性とは認識システムであり、それゆえカントの言う「感性的存在者」、すなわち生物では人間のみがもつとされるのである。
    この意識システムと認識システムの区別は、現代の認知科学では「二重過程理論(dual process theory)」に対応するであろう。
    これは、
    推論には高速かつ並列的で自動的である潜在的な過程と、
    低速かつ継時的で注意を要する代わりに抽象的思考を可能にする顕在的過程
    の二段階がある、とするものである。
    言うまでもなく、
    潜在的過程が意識システムのレベル、
    顕在的過程が認識システムのレベルになる。』
    引用終了

    =============

    認識システムの復習が終わったところで、
    p37に戻ります!(予定)
引用返信/返信 削除キー/
■20484 / inTopicNo.53)  Re[16]: 第三章 批判と二つの視点
□投稿者/ pipit -(2022/01/20(Thu) 21:28:07)
    こんじょおーー

    『カントとオートポイエーシス』p35より、
    オートポイエーシス論にとっての
    ★二つの視点とは、
    @システムそのものにとっての視点
    A観察者にとっての視点

    @ for itself
    A For us

    ・・・・・・・・・・・

    と書いていこうかと思ったのですが、
    山下先生の論文がネットにあって、
    https://aichiu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=4094&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1
    『超越論的観念論再考 ―カントとオートポイエーシス―』

    そこに、山下先生の考えを知るために参考になりそうな記述があったので、引用します。

    『システムそのものにとっ ての視点には、その都度のシステムの作動し か現れてこない。これは、観察者の視点に現 れてくるものとはまったく異なっており、そ のあいだには変換関係すらないのである。』

    『我々が認識と 呼んでいるものは、この観察者の視点から見 たものに他ならず、したがって常に観察者に よる区別に基づいている。
    しかも、観察者の 目には、システムの構造の外部がシステムの 環境であるように見えてしまう。』

    『まず、 現象が表象であるとは、観察において他者言 及へと区分された、つまり対象として構成さ れたものであり、観察や認識そのものの内に 閉ざされていることと解釈できる』

    『ルーマ ンの言う思惟がカントの表象に相当し、認識 を含むそれらを意識あるいは心の自己変容と 解するのも共通である。ルーマンの言う言及 はカントでは綜合に相当する』

    『そして、物 自体を 認識するシステムの環境と考えれば、 システムは相互浸透以外に環境との接触をも たないので、これが認識されえないことも、 しかしながら、その存在を疑いえないことも わかるであろう。
    認識されえないが、自分が 自分をそこから区別することで自分となった ものである以上、存在することはわかるもの、 それがシステムの環境に他ならない。
    そのた め、認識はできなくても、環境について語る ことはでき、上述のトリレンマは回避されて いる。 』

    『ルーマンで言 えば感覚は環境からの撹乱による思惟の産出 に相当するから。』

    『また、カン トが感覚の起源についてごくあいまいに触発 という言葉を使い、現象による触発か、物自 体による触発かが明確でないのは、システム 自身にとっての視点と観察者の視点の区別が 理論化されていないためと言えるであろう。』

    『物自体による触発は環境からシステムへの撹乱に、現象による触発は観察者の見た認識における他者言及への区分に相当する37。
    カントはこれを明確に区別して記述できるだけの概念装置をもっていなかった。
    これがおそらくは、『純粋理性批判』における「こうした著作においてはじめはほと
    んど避けがたい難解さ」と「外見上の矛盾」
    の一つの理由である(BXLIV)。
    もう一つの
    理由としては、カント自身が超越論的観念論
    にかけた野心が考えられるであろう。「私
    はしたがって、神、自由と不死を、我々の理
    性の必然的な実践的使用のために仮定するこ とすらできない、私が同時に思弁的理性から
    途方もない洞察というその越権を奪っておく のでなければ」(BXXIXf.)。
    認識するシステ ムの環境が不可知であるからといって、それ を神、自由、不死の概念の仮定根拠としての 可想界と見なそうという議論は強引すぎる。』

    以上、山下和也先生の論文より抜粋引用でした。

    、ということで、p37から見ていこうと思います。

    予想なんですけど、、、

    あ!あのフレーズが、読解していく上で、注意喚起してくれるフレーズになるかも??

    『「いわれたことのすべてには、それをいった誰かがいる」』
    『知恵の樹』マトゥラーナ、バレーラ著、p29より引用
引用返信/返信 削除キー/
■20480 / inTopicNo.54)  日記
□投稿者/ pipit -(2022/01/20(Thu) 16:54:16)
    https://youtu.be/BCt9lS_Uv_Y
    ヨルシカ さん
    ♪ 靴の花火

    コメント欄にて、今年の共通テストによだかの星が出たことを知るの巻
引用返信/返信 削除キー/
■20478 / inTopicNo.55)  第三章 批判と二つの視点
□投稿者/ pipit -(2022/01/19(Wed) 23:39:29)
    No20430
    この箇所を新たに読もうと思います!

    おやすみなさーい ☆彡
引用返信/返信 削除キー/
■20476 / inTopicNo.56)  気になる文章
□投稿者/ pipit -(2022/01/19(Wed) 23:28:55)
    p26-33
    細かいところでわからないのは多々あるものの、
    最後で『次章から、この枠組みを用いて認識論の各論に踏み込んで行く。』p33とあるので、私もそのまま読み進めようと思います。

    『純理』の時から、よくわからないなーと思ってたカントの表現があるのですが、

    『カントはここで直観を「表象の無限の多様をそれ自身の内に含む」(B40)表象と規定している。』p27

    どう言う意味で言ってるのか、わたしにはわからない。

    山下先生の感性論を読むうちに、ヒントを得られることがでてくるかな??

    ということで、次は、『第三章 批判と二つの視点』!p35

    あれ?わたし、もともと、ここを読もうと、もう書き込みしてたような?

引用返信/返信 削除キー/
■20473 / inTopicNo.57)  Re[13]: 認識システムにおける用語
□投稿者/ pipit -(2022/01/19(Wed) 18:53:37)
    みなさまこんばんは☆彡
    No20468の続きです。

    『カントとオートポイエーシス』山下和也先生、p26より引用開始
    『さらに、概念コードはネットワーク状をしているので大枠と細部があり、認識システムはこれに従って、コード表象間に包摂関係を表象することができる。
    つまり、複数のコード表象がその下に位置づけられる、より普遍的な上位コード表象を産出することができるのである。
    言うまでもなく、このコード表象をもつ概念コードが通常概念と呼ばれるものに他ならない。』
    引用終了

    (pipitの読解)
    概念コードが通常概念と呼ばれ、その概念に対応する表象をコード表象と呼ぶ。

    ハシゴコードが通常概念と呼ばれ、その通常概念(ハシゴコード)に対応する表象をコード表象と呼び、この場合のコード表象は【ハシゴ】。

    再び続きを引用開始
    『例えばリンゴという概念は、それによって産出されるべき認識表象における現れを規定する。』
    引用終了

    (pipit読解)
    規定するものが、概念コード。

    続き引用
    『そして、リンゴという概念は果実という上位概念に包摂され、果実はさらに食品や植物といったさらなる上位概念に包摂される。』
    引用終了

    (pipit読解)
    冒頭での引用
    >さらに、概念コードはネットワーク状をしているので大枠と細部があり、認識システムはこれに従って、コード表象間に包摂関係を表象することができる。
    つまり、複数のコード表象がその下に位置づけられる、より普遍的な上位コード表象を産出することができるのである。<

    、、、ハシゴで考えてみるか。
    ある生じた感覚→ハシゴ
    ある生じた感覚→物体→道具→ハシゴ

    実際にどうなってるかはわからないけど、
    →の指示書(生産品は、表象/イメージ)
    に、位置関係をみることが可能ということかな。

    再び続きを引用
    『その上、コード表象はその産出に際して一定の規則、すなわちコードをもつことができる。
    コード表象のあり方を決めるコードを「表象化コード」と呼ぶ。
    表象化コードも規則であるから反復可能で、同形のコード表象を繰り返し産出可能である。
    このように表象化コードによってコード化されて産出されるコード表象が、すなわち「記号」である。
    言語記号は記号の代表例になる。』
    p26より引用終了。

    (pipit読解)
    > その上、コード表象はその産出に際して一定の規則、すなわちコードをもつことができる。<

    概念コードに対応するコード表象を作成するのに、コードをもつことが可能。

    >コード表象のあり方を決めるコードを「表象化コード」と呼ぶ。<

    表象化コードにより、概念コードからコード表象が産出される事態となる記述を山下先生はされているのかな。

    > このように表象化コードによってコード化されて産出されるコード表象が、すなわち「記号」である。<

    コード表象とは、私たちが「記号」と呼ぶもののことだ、と。

    > 言語記号は記号の代表例になる。<

    うん、なんとかこの箇所の山下先生の文意はわかったかな????

    デカルト先生ー
    困難は分割せよ、は、わたしには超お助けフレーズだよー
    感謝ー(^人^)

    次はp26から読んで、わかるか試してみよう!
    (おそらくわからないでしょう (・Д・) 。。。)


引用返信/返信 削除キー/
■20470 / inTopicNo.58)  読解途中の思考
□投稿者/ pipit -(2022/01/19(Wed) 10:29:55)
    ハシゴ、がわかりやすいかも???

    手持ちの材料を、ある指令書通りに出来上がったものがあるとして、

    出来上がったもの(個物)に対応してハシゴとなづけてるのではなく、

    指令書や指示書のようなコードに、『ハシゴ』という名前を対応させる。

    だから、あのハシゴ、このハシゴ、という個別を、『ハシゴ』という普遍?に対応させることができる。

    全然理解の方向性違ってたらすみません!

引用返信/返信 削除キー/
■20469 / inTopicNo.59)  Re[13]: 認識システムにおける用語
□投稿者/ pipit -(2022/01/19(Wed) 10:22:28)
    No20468
    ちょっと反則的に思考します。

    (pipitの書き込み)
    > @ 概念コード(A)にしたがって、認識表象(B)が産出される。
    A @の作動((A)→(B))への自己言及の結果として、概念コード(A)にコード表象(C)を対応させることができる。<


    手元の材料を、ある指令書(A)通りに作って、小船と呼ばれるようなもの(B)が出来たとして、
    その指令書全体(A)を、『C』という表象で表す。


    (山下先生の文章の引用)
    > それだけではなく、認識システムはみずからの自己言及を介して、概念コードに表象を対応させることができる。
    この表象を「コード表象」と名付ける。
    それは言わば概念コードの名前である。<

    この続きの文章も、今の段階のわたしにはよくわからないのですが、続きの読解にチャレンジしようと思っています。


引用返信/返信 削除キー/
■20468 / inTopicNo.60)  認識システムにおける用語
□投稿者/ pipit -(2022/01/19(Wed) 09:58:20)
    2022/01/19(Wed) 10:00:23 編集(投稿者)

    わかり難い。。。
    意味が把握できない。。。

    『カントとオートポイエーシス』山下和也先生、p25、26より引用
    『知覚や思考、想起や空想なども、本来の意味では認識システムの作動である。
    (略)
    そして認識システムもオートポイエーシス・システムであるから、そのコードをもっている。
    これを「概念コード」と呼んでおく。
    概念コードは認識表象のタイプと連鎖を決める規則であり、全体がネットワーク状に連鎖している。
    規則であるから普遍性をもち、反復されることができる。
    全ての認識表象は、そこにおける現れもろとも、概念コードに従って産出されるのである。
    ダマシオの言う、心的イメージに基づく熟考から生じる「二次の情動」(ダマシオ:二一五以下)は、このレベルの認識表象に生じる攪乱と考えることができる。
     それだけではなく、認識システムはみずからの自己言及を介して、概念コードに表象を対応させることができる。
    この表象を「コード表象」と名付ける。
    それは言わば概念コードの名前である。』
    引用終了

    自分の中で整理します。(勘違いしてるかもだけど)

    @ 概念コード(A)にしたがって、認識表象(B)が産出される。

    A @の作動((A)→(B))への自己言及の結果として、概念コード(A)にコード表象(C)を対応させることができる。

    、、、、
    仮に思考します。変更可能性大ありです。

    意識システムで生じるものが、色や音、触覚がまだ対象としての形になってないものとしたら、
    その混沌とした感じられたものが、概念コード(A)にしたがい、ある一つの対象物(B)としてシステムに認められる(認識表象の産出)。

    このときその作動(自己)を知る主体(自己)が、

    概念コード(A)に表象(C)を対応させた場合の、この表象(C)を、コード表象(C)と山下先生は名付ける。

    この続き、(p26六行目から)は、また後ほど。。。

    (・Д・)。。。。


引用返信/返信 削除キー/

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