| わたしが読んでる『論考』の中で、「私」って言う訳語が出てくるのは、 5・631 【「私が見出した世界」という本を私が書くとすれば、そこでは私の身体についても報告が為され、また、どの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか等が語られねばならないだろう。これはすなわち主体を孤立させる方法、というよりむしろある重要な意味において主体が存在しないことを示す方法である。つまり、この本の中で論じることのできない唯一のもの、それが主体なのである。】 と、 3・318 【私は――フレーゲやラッセルと同様――命題をそこに含まれている諸表現の関数として捉える。】
この二か所しか出てこない。 しかも、「私が」「私の」「私は」とかで、「私とは」についてじゃないよね。
「主体」とか「わたしたち」とか「自我」ってうのは出てくるけど、でもそれって「私」じゃないよね。「語」(名−単純記号−要素)が異なってるから。
3・201 その要素を私は「単純記号」と呼ぶ。そこにおいて命題は「完全に分析された」と言われる。 3・202 命題において用いられ他単純記号は名(15)と呼ばれる。 訳注(15)名――命題はただ名だけからなり、内外の構成要素をもたない。これは事実が対象だけからなり、対象以外の構成要素をもたないことに対応する。そして名は対象を指示する。ここでたとえば「a」が名であるとして、「aは赤い」と言う命題において「は赤い」という部分は名なのかという問題が生じる。これは先の訳注(7)で述べた、性質もまた対象なのかどうかという問題に重なる。これに対してどう答えるべきかは必ずしも明らかではないが、いずれにせよ、「赤い」という部分が命題を構成する名以外の要素であるという答えはありえない。命題の構成要素はすべて「名」っと呼ばれる。 3・203 名は対象を指示する。対象が名の意味である。 (「A」は〔それと別の個所に書かれた〕「A」と記号としては同一である。)
って、ウィットちゃんは言ってるよね。特に3・203。 おそらく、ことおりに『論考』は書かれてる”はず”よね。
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