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■18491 / inTopicNo.37)  Re[13]: 無我
  
□投稿者/ みのり -(2021/11/07(Sun) 13:27:25)
    2021/11/07(Sun) 13:31:29 編集(投稿者)
    No18485に返信(パニチェさんの記事)
    > 2021/11/07(Sun) 09:15:14 編集(投稿者)

    > ■No18482に返信(みのりさんの記事)
    > >>『論理哲学論考』の以下です。
    >
    > >>************************************
    > >>5.631 思考し表象する主体は存在しない。
    > >>もし私が「私が見出した世界」という本を書くとすれば、そこでは私の身体について報告がなされ、またどの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか、等が語られねばならないだろう。即ちこれが主体を孤立させる方法であり、むしろある重要な意味で主体は存在しないことを示す方法なのである。というのもこの本では主体だけが論じることのできないものとなるであろうからである。
    > >>5.632 主体は世界に属さない。それは世界の限界である。
    > >>************************************

    >>そういえば、ウィトゲンシュタインは生涯に自らでは、一冊しか書いていないんでしたね。
    >>それが引用いただいた『『論理哲学論考』になるのですね。
    >
    > そうです。

    はい。

    > >>もし私が「私が見出した世界」という本を書くとすれば、そこでは私の身体について報告がなされ、またどの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか、等が語られねばならないだろう。即ちこれが主体を孤立させる方法であり、むしろある重要な意味で主体は存在しないことを示す方法なのである。というのもこの本では主体だけが論じることのできないものとなるであろうからである。<
    >
    >>主体を孤立させる方法であり、同時に、主体は存在しないことを示す方法でもある、と読んだのですが、この二つが両立するとされるあたりが説明が難しいけど、おもしろく感じます。
    >
    > 言語で語れる私に関することを記述していけばいくほど(本に書いていけばいくほど)、語れない主体が孤立させる(語れるものから孤立し指し示す、即ち浮き上がらせる)方法と読解してます。

    言語で語れる私についてはいくらでも言語を用いて語ることはできる。
    しかし、語れない主体についてはいっこうに語ることはできない。
    ということでしょうか。

    ふと思ったのは、そもそも主体というのは人間独自の思考によって設定されているものであり、言わば人間の思考によってのみ(言語によってのみ)存在させられているものなので、主体の「本質」について語ろうとしても語れるものではないのではないか、ということ、それをウィトゲンシュタインは引用文で言おうとしているのかな、ということです。

    そして、

    >主体は世界に属さない。

    とは、「主体というのはそもそも存在しない」という意味? とも思いました。

    > 例のカニッツァの三角形みたいなイメージで捉えています。

    あの図というのは、ウィトゲンシュタインが考えたものなのでしたっけ?
    それともそれ以前からあるものでしたか?
    図自体は何度かパニチェさんに提示いただき拝見したのですが・・・
    既に教えていただいていた私が忘れたのだとしたらすみません。

    実はあの図。 これまでは拝見してもぴんと来なかったんですよ。
    でも今回は理解できた気がします。
    黒い三つの丸いパックマンみたいなのが、三人の人間。
    そして、対角線上のそれぞれの頂点が、それぞれの人間の主体になるんでしょうね。
    主体、〈私〉と言い換えてもパニチェさん的にはいいのだと思うのですが、それはそれぞれの本人にしか知りえない、というのを表している図なのかな、と。

    >>>またどの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか、
    >>これは、心臓の動きなどを自ら制御できないとか、そういうことを言ってるのかな、と考えました。
    >
    > 世界内に存在する身体性も含めた空間や物質に関して「私の意志に従う」ものが自であり、「従わないもの」が他であるというような自他の境界みたいなものだと私は読解しています。

    なるほど。 自分のものとされている例えば心臓は、自分では制御できない(しつこいな〜 (笑)んですが、それは「自」ですか、それとも「他」と考えられますか?

    >>何も読んでない私が、この部分だけを拝見していろいろ言えるものではないですけど、「超難解だろうけどおもしろそう」と思いました。
    >
    > 難解ですね。定まった読解もないと思います。
    > だから違う方が違う説明もあるかもしれないので、それも参考にして下さい。

    なんでウィトゲンシュタインは一冊しか書かなかったんでしょうね。
    哲学で大人気だし、たくさんの解説書も出されているほどなのに。
    ニーチェのように何冊も出していれば、言説がわかりやすかったのかもしれないですね。

    私自身に関しては、今、『ツァラトゥストラ』で一杯なので、ウィトゲンシュタインの解説書までは手が出せないし、なにしろ去年、永井さん解説のを買って少し読んだけど、わからなすぎで途中でやめてますからねぇ。。。(´;ω;`)ウッ…

    で、読んでもいないのに、興味本位に自由奔放にレスして、申し訳ない気持ちでもあります。。。
引用返信/返信 削除キー/
■18485 / inTopicNo.38)  Re[12]: 無我
□投稿者/ パニチェ -(2021/11/07(Sun) 09:13:40)
    2021/11/07(Sun) 09:15:14 編集(投稿者)

    レスありがとうございます。

    No18482に返信(みのりさんの記事)
    >>『論理哲学論考』の以下です。

    >>************************************
    >>5.631 思考し表象する主体は存在しない。
    >>もし私が「私が見出した世界」という本を書くとすれば、そこでは私の身体について報告がなされ、またどの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか、等が語られねばならないだろう。即ちこれが主体を孤立させる方法であり、むしろある重要な意味で主体は存在しないことを示す方法なのである。というのもこの本では主体だけが論じることのできないものとなるであろうからである。
    >>5.632 主体は世界に属さない。それは世界の限界である。
    >>************************************

    >>この後、眼で眼を見ることができない云々の言説が続きます。
    >>おそらくみのりさんにとって最も興味がわくところだと思いますし、仏教や気づきとも隣接するところだと思います。

    > パニチェさん、ありがとうございます。

    どういたしまして。

    > そういえば、ウィトゲンシュタインは生涯に自らでは、一冊しか書いていないんでしたね。
    > それが引用いただいた『『論理哲学論考』になるのですね。

    そうです。

    >>もし私が「私が見出した世界」という本を書くとすれば、そこでは私の身体について報告がなされ、またどの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか、等が語られねばならないだろう。即ちこれが主体を孤立させる方法であり、むしろある重要な意味で主体は存在しないことを示す方法なのである。というのもこの本では主体だけが論じることのできないものとなるであろうからである。<

    > 主体を孤立させる方法であり、同時に、主体は存在しないことを示す方法でもある、と読んだのですが、この二つが両立するとされるあたりが説明が難しいけど、おもしろく感じます。

    言語で語れる私に関することを記述していけばいくほど(本に書いていけばいくほど)、語れない主体が孤立させる(語れるものから孤立し指し示す、即ち浮き上がらせる)方法と読解してます。
    例のカニッツァの三角形みたいなイメージで捉えています。

    > >またどの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか、
    > これは、心臓の動きなどを自ら制御できないとか、そういうことを言ってるのかな、と考えました。

    世界内に存在する身体性も含めた空間や物質に関して「私の意志に従う」ものが自であり、「従わないもの」が他であるというような自他の境界みたいなものだと私は読解しています。

    > 何も読んでない私が、この部分だけを拝見していろいろ言えるものではないですけど、「超難解だろうけどおもしろそう」と思いました。

    難解ですね。定まった読解もないと思います。
    だから違う方が違う説明もあるかもしれないので、それも参考にして下さい。

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引用返信/返信 削除キー/
■18484 / inTopicNo.39)  Re[13]: ザビビのふくろうさんへ♪2
□投稿者/ pipit -(2021/11/07(Sun) 09:11:06)
    https://www.accesstoinsight.org/tipitaka/kn/snp/snp.4.14.than.html


    ブッダの答えの部分916の英訳です。
    "He should put an entire stop
    to the root of objectification-classifications:
    'I am the thinker.'〔1〕
    He should train, always mindful,
    to subdue any craving inside him.』

    せっかくなので、続くブッダの返答917-920も引用します。

    Whatever truth he may know,
    within or without,
    he shouldn't get entrenched
    in connection with it,
    for that isn't called
    Unbinding by the good.
    He shouldn't, because of it, think himself
    better,
    lower, or
    equal.

    Touched by contact in various ways,
    he shouldn't keep conjuring self.
    Stilled right within,
    a monk shouldn't seek peace from another
    from anything else.
    For one stilled right within,
    there's nothing embraced,
    so how rejected?[2]
    As in the middle of the sea
    it is still,
    with no waves upwelling,
    so the monk &#8212; unperturbed, still &#8212;
    should not swell himself
    anywhere."

    ※※※※

    これは、訳者の方の「'I am the thinker.'〔1〕」の脚注です。
    1.On objectification-classifications and their role in leading to conflict, see Sn 4.11 and the introduction to MN 18. The perception, "I am the thinker" lies at the root of these classifications in that it reads into the immediate present a set of distinctions &#8212; I/not-I; being/not-being; thinker/thought; identity/non-identity &#8212; that then can proliferate into mental and physical conflict. The conceit inherent in this perception thus forms a fetter on the mind. To become unbound, one must learn to examine these distinctions &#8212; which we all take for granted &#8212; to see that they are simply assumptions that are not inherent in experience, and that we would be better off to be able to drop them.
    (↓Google翻訳にかけたもの)
    客体化-分類と紛争につながるそれらの役割については、Sn4.11とMN18の紹介を参照してください。「私は思想家です」という認識は、現在の一連の区別を読み取るという点で、これらの分類の根底にあります。&#8212; I / not-I; 存在する/存在しない; 思想家/思想; アイデンティティ/非アイデンティティ&#8212;それはその後精神的および肉体的な葛藤に増殖する可能性があります。 したがって、この知覚に内在するうぬぼれは、心に束縛を形成します。 束縛を解くには、これらの違いを調べることを学ぶ必要があります。これは、私たち全員が当然のことと考えていますが、これらは経験
    に固有ではない単なる仮定であり、それらを削除できる方がよいことを確認するためです。

引用返信/返信 削除キー/
■18483 / inTopicNo.40)  ザビビのふくろうさんへ♪
□投稿者/ pipit -(2021/11/07(Sun) 09:01:18)
    ザビビのふくろうさん、こんにちは!

    No18470

    > 私がここでしゃべるのは目障りだと感じる人がいるかもしれないけど(笑)、まあ、関連することなので、ついでに、ここで書かせてもらいます。<

    pipitは、ふくろうさんの書き込みが読めると、すごーく嬉しいですよー
    (o^^o)♪♪♪
    純理トピはpipit自身はもちろんウエルカムな気持ちです(^ ^)v



    No18471
    > ニークラには仏教思想に詳しい人が多そうだけど、私にあまり知識がないので、そこに絡めて話ができないのが残念。
    上に述べたのは、多少とも仏教思想と関連ありそうなところです<

    pipitは大乗仏教のことは知らないも同然なのですが、賛否はあるだろうけど原始仏教と呼ばれることもあるパーリ三蔵が大好きで、と言っても、これも無知同然ですけど(汗)、スッタニパータという経典から偈を紹介させていただきます。(八なるもの第一四経・迅速より)

    915が対話者の質問
    916がブッダの返答です。
    正田大観さまの訳で、昔図書館でコピーさせてもらったものから引用させていただきます。

    『915 〔対話者が尋ねた〕「太陽の眷属にして偉大な聖賢である、あなた(ブッダ)に、遠離について、そして、寂静の境地について、尋ねます。
    比丘は、どのように見て、涅槃に到達するのですかーーー何であれ、世において、執取することなく」〔と〕。

    916 世尊は〔答えた〕「虚構(戯論:分別妄想)の名称(世界認識の道具として虚構された概念)の根元を、『〔わたしは〕存在する』という〔我執の〕一切を、智慮によって、破壊するように。
    何であれ、内に、諸々の渇愛〔の思い〕があるなら、それらを取り除くため、常に気づきあるものとして、〔怠ることなく〕学ぶように。』
    引用終了

    該当部分原文の英訳が自由に読めるページから、英訳をコピペして次の投稿で引用しようと思います。


引用返信/返信 削除キー/
■18482 / inTopicNo.41)  Re[11]: 無我
□投稿者/ みのり -(2021/11/07(Sun) 08:54:29)
    No18479に返信(パニチェさんの記事)
    > 2021/11/07(Sun) 08:38:49 編集(投稿者)
    >
    > おはようございます、みのりさん、横レス失礼します。
    >
    > ■No18476に返信(みのりさんの記事)
    >>■No18471に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    > >>「思考し表象する主体は存在しない」――ウィトゲンシュタイン
    >
    >>はじめまして。^^
    >
    >>このウィトゲンシュタインの言葉の出典を教えていただけますか。
    >
    >>私はウィトゲンシュタインについて何も知らないですし、議論に持ち込もう
    >>とかまったく思ってないです、という自己紹介です。^^
    >
    >>ただ、知りたいなと思ったのでよかったら教えてください。
    >
    > 『論理哲学論考』の以下です。
    >
    > ************************************
    > 5.631 思考し表象する主体は存在しない。
    > もし私が「私が見出した世界」という本を書くとすれば、そこでは私の身体について報告がなされ、またどの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか、等が語られねばならないだろう。即ちこれが主体を孤立させる方法であり、むしろある重要な意味で主体は存在しないことを示す方法なのである。というのもこの本では主体だけが論じることのできないものとなるであろうからである。
    > 5.632 主体は世界に属さない。それは世界の限界である。
    > ************************************
    >
    > この後、眼で眼を見ることができない云々の言説が続きます。
    > おそらくみのりさんにとって最も興味がわくところだと思いますし、仏教や気づきとも隣接するところだと思います。

    パニチェさん、ありがとうございます。

    そういえば、ウィトゲンシュタインは生涯に自らでは、一冊しか書いていないんでしたね。
    それが引用いただいた『『論理哲学論考』になるのですね。

    > もし私が「私が見出した世界」という本を書くとすれば、そこでは私の身体について報告がなされ、またどの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか、等が語られねばならないだろう。即ちこれが主体を孤立させる方法であり、むしろある重要な意味で主体は存在しないことを示す方法なのである。というのもこの本では主体だけが論じることのできないものとなるであろうからである。<

    主体を孤立させる方法であり、同時に、主体は存在しないことを示す方法でもある、と読んだのですが、この二つが両立するとされるあたりが説明が難しいけど、おもしろく感じます。

    >またどの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか、

    これは、心臓の動きなどを自ら制御できないとか、そういうことを言ってるのかな、と考えました。

    何も読んでない私が、この部分だけを拝見していろいろ言えるものではないですけど、「超難解だろうけどおもしろそう」と思いました。
引用返信/返信 削除キー/
■18479 / inTopicNo.42)  Re[10]: 無我
□投稿者/ パニチェ -(2021/11/07(Sun) 08:35:13)
    2021/11/07(Sun) 08:38:49 編集(投稿者)

    おはようございます、みのりさん、横レス失礼します。

    No18476に返信(みのりさんの記事)
    > ■No18471に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    >>「思考し表象する主体は存在しない」――ウィトゲンシュタイン

    > はじめまして。^^

    > このウィトゲンシュタインの言葉の出典を教えていただけますか。

    > 私はウィトゲンシュタインについて何も知らないですし、議論に持ち込もう
    > とかまったく思ってないです、という自己紹介です。^^

    > ただ、知りたいなと思ったのでよかったら教えてください。

    『論理哲学論考』の以下です。

    ************************************
    5.631 思考し表象する主体は存在しない。
    もし私が「私が見出した世界」という本を書くとすれば、そこでは私の身体について報告がなされ、またどの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか、等が語られねばならないだろう。即ちこれが主体を孤立させる方法であり、むしろある重要な意味で主体は存在しないことを示す方法なのである。というのもこの本では主体だけが論じることのできないものとなるであろうからである。
    5.632 主体は世界に属さない。それは世界の限界である。
    ************************************

    この後、眼で眼を見ることができない云々の言説が続きます。
    おそらくみのりさんにとって最も興味がわくところだと思いますし、仏教や気づきとも隣接するところだと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■18476 / inTopicNo.43)  Re[9]: 無我
□投稿者/ みのり -(2021/11/07(Sun) 08:19:52)
    No18471に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    > 「思考し表象する主体は存在しない」――ウィトゲンシュタイン

    はじめまして。^^

    このウィトゲンシュタインの言葉の出典を教えていただけますか。

    私はウィトゲンシュタインについて何も知らないですし、議論に持ち込もう
    とかまったく思ってないです、という自己紹介です。^^

    ただ、知りたいなと思ったのでよかったら教えてください。


引用返信/返信 削除キー/
■18474 / inTopicNo.44)  ウィトゲンシュタイン解説書からの引用
□投稿者/ パニチェ -(2021/11/07(Sun) 08:07:03)
    2021/11/07(Sun) 12:20:26 編集(投稿者)

    ひきずり男でございますぅ〜〜♪

    以下はウィトゲンシュタイン解説書からの引用
    永井均氏以外のウィトゲンシュタイン解説書の著者が「私」や「形而上学」「形而上学的主体」についてどのように述べているかを引用する。

    まずは永井均氏の論敵というか好敵手でもある入不二基義氏
    【そして言語の内において、その多様な「異なる表現様式」の可能性のどこにも表れえないものとして、隣接項を持たない「私」は、消し込まれることになる。『論考』に続いてここでも再び、独我論的な「私」は、言語の内から消し去られる。(入不二基義著『ウィトゲンシュタイン「私」は消去できるかP.87』より)】
    前期写像理論でも後期言語ゲームでも「私」は言語の内にないということ。

    【「これ」によって「私」が意味するものの中に、ある特別なものがあり、それは何らかの内在的な理由によって他者には決して伝達できない,という思考である。我々が目の前の物体やその形や色を「これ」として名指そうとするとき、こうした伝達不可能性は生じない。それに対して、「私」が感じている何か、しかも「私」だけが感じていると考えている何かを「これ」によって名指そうとするとき、それが他者には伝達不可能であるという可能性が開かれる。しかもこの「何か」は経験的理由(たとえば「私」だけが特異な感覚能力を持っているといった)によってではなく、内在的で原理的な理由によって伝達不可能なのである。それはそもそも伝達不可能な何かであり、いかなる条件下でも伝達不可能なのである(鬼界彰夫著『ウィトゲンシュタインはこう考えたP.167〜P.168』より)】

    次は野矢茂樹氏。野矢氏も永井氏の論敵ではるが永井氏は「論敵たりえない」と言うかも。。。w
    【こうして『論考』は、論理や自我、あるいはまた価値について、それを語ることを禁じ、しかも語りえぬとして排除しようとしたのではなく、むしろ鎮められた沈黙のうちに、それらを受け入れようとした。(『東大駒場〈哲学・宗教・芸術〉連続講義「語りえぬもの」からの問いかけ 野矢茂樹 P.23』より)】

    【ウィトゲンシュタインの考えでは、倫理的、宗教的にたいせつなことがらは、みずからを示すものである。決して語られるものではない。(A・C・グレーリング著『ウィトゲンシュタイン P.67』より)】

    最後にウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』の締めとして語られている言説
    ************************************
    6.53 本来哲学の正しい方法は、語られうること、従って自然科学の命題、従って哲学とは何の関係もないこと、これ以外は何も語らない、というものである。そして他の人が形而上学的なことを語ろうとする時はいつも、彼が自分の命題の或る記号に何の意味も与えていないのを、彼に指摘してやる、というものである。この方法は彼には不満足であろう。彼は我々が哲学を教えているという感情を抱かないであろう。しかしこの方法が唯一厳密に正しい方法なのである。
    6.54 私の命題は、私を理解する人がそれを通り、それの上に立ち、それをのり越えていく時に、最後にそれが無意味であると認識することによって、解明の役割を果たすのである。(彼は梯子をのり越えてしまった後には、それをいわば投げ棄てねばならない。)彼はこれらの命題を克服せねばならない。その時彼は世界を正しく見てとるであろう。
    7 話をするのが不可能なことについては、人は沈黙せねばならない。
    (大修館書店『ウィトゲンシュタイン全集1 論理哲学論考』より)
    ************************************

    上記の主張は後期の言語ゲームによって上書きされるが、科学の前提が自然の斉一性であり、科学の対象を計測可能なもの、再現性のあるものとするなら、「私」は科学的言説では語れないというのはその通り。おくたがわさんにも質問した「意識の難問」は解決できるかどうかはともかく脳科学の俎上に載るが、「意識の超難問」で問われている対象は上記を科学の前提や対象とする限りにおいて俎上に載せることができない。
    さらに以下の断片も「私は私の言語世界である」と論考を読解した者にとっては読み取ることはできないだろう。

    ************************************
    私はこう言おう。「正直なところを言えば、たしかに、私には他の誰にもない何かがあると言わねばならない」、と。──だが、その私とは誰だ。──くそっ。私の言い方はまずいがそこに何かがあるんだ!君だって私の個人的な経験というものがあり、またそれには最も重要な意味での隣人というものがないことを否定すまい。──だが君はそれがたまたま孤独だと言うつもりではないだろう。君の言いたいのはその何かの文法上の位置が隣人のない場所にあるということだろう。「しかしどうしたわけか我々の言語には、そこに他と比べることのできない何か、すなわち真に現前している経験、があるということがあらわれてはこないのだ。私はそのことに甘んずるべきだと君は言いたいのか。」(おかしいことに、日常生活で日常言語を使っていて何かに甘んじなければならないと我々が感じることはまったくない。)ウィトゲンシュタイン全集6『「個人的経験」および「感覚与件」について P.323』より
    ************************************

    「私は私の言語世界である」「私が存在するとき、常に既に、言語が存在する」なんてことはウィトゲンシュタインは論考で述べてないし、ウィトゲンシュタイン解説書の著者も誰一人として述べていない。著書の共通している読解は「形而上学的主体は示すことはできても語りえない」ということ。

    少なくとも私の知る限りで「私は私の言語世界である」「私が存在するとき、常に既に、言語が存在する」と論考を読解している者は一人だけである。

    「私が存在するとき、常に既に、言語が存在する」をウィトゲンシュタインとは無関係の哲学と考えれば(同意はできないが)何の問題もない(誤読ではないという意)が、これをウィトゲンシュタインの論考の読解として同意できる人なんておるかぁ?

    そんなヤツおらんやろぉ〜。チッチキチ〜やで♪

引用返信/返信 削除キー/
■18473 / inTopicNo.45)  Re[9]: 無我
□投稿者/ 田秋 -(2021/11/07(Sun) 08:03:52)
    ザビビのふくろうさん、初めまして。ここでお世話になっている田秋と申します。
    長年クラシック音楽に携わってきましたが今では一線から退いています。また哲学については全くの門外漢です。

    ボクはパニチェさんの言う<私>については理解できていませんし、今のところ別のアプローチで自分を探求(ってほどでもありませんが)しています。しかし多分パニチェさんの言うところの世界もあるんだろうなあとも想像しています。それはそれがわからないとわからないのだろうと考えています。

    今書いたことは理詰めの考え方ではありません。漠然とそう思うだけです。
引用返信/返信 削除キー/
■18471 / inTopicNo.46)  無我
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/11/07(Sun) 00:21:42)
    「思考し表象する主体は存在しない」――ウィトゲンシュタイン

    風は吹く。
    しかし、風は吹く主体(実体)ではない。
    風とは、吹くことそのものである。

    炎は燃える。
    しかし、炎は燃える主体(実体)ではない。
    炎とは、燃えることそのものである。

    私は語る。
    しかし、私は語る主体(実体)ではない。
    私とは、語りそのものである。
    私は私の言葉である。

    *******************
    ニークラには仏教思想に詳しい人が多そうだけど、私にあまり知識がないので、そこに絡めて話ができないのが残念。
    上に述べたのは、多少とも仏教思想と関連ありそうなところです。

引用返信/返信 削除キー/
■18470 / inTopicNo.47)  絶対的自己意識世界
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/11/07(Sun) 00:18:04)
    私がここでしゃべるのは目障りだと感じる人がいるかもしれないけど(笑)、まあ、関連することなので、ついでに、ここで書かせてもらいます。

    今ここにある私(私=私の意識世界)は,いかに記憶をさかのぼって,どんなに過去を思い出し表象しようと,それは言葉をもつこの私の表象である。
    したがって,表象される世界は,常に既に言葉によって分節・意味づけられている。
    私の思考はこの意味で,言葉の世界の外に出ることは不可能である。つまり,私が内省的に幾ら記憶の限り過去へとさかのぼっても,それが私の表象世界である限り,私の世界は言葉をもつ私の表象世界でしかありえない。

    しかしその一方で,言葉を持たない私を想像することは簡単である。
    私を対象化し,いわば私の現在の写真から,だんだん過去の写真にさかのぼり,赤ん坊写真までさかのぼって並べれば,それは私が言葉を有する以前の主体であったときの像である。
    このような形で私を対象化するのであれば,言語を持たない私を表象するのは簡単である。
    発達心理学を含む自然科学的な自我の考察方法はこういうものだ。
    しかし,この思考可能な,言葉を未だ有さない私は,あくまで対象化された私の表象世界内の一存在者であり,他の数多くの他者とともに時間空間内に存在する存在者である。一言でいえば、科学は私を特別扱いなどしない、ということ。
    それゆえ,存在論的に扱う場合、私=私の意識世界(表象世界・直接経験の世界)であるような私とは,べつものとして扱う必要がある。
    詳しくは述べないが、ラフに言ってしまえば、二世界説は、これらの混同がある、というのが私の診断。

    とはいえ、言語以前のいわゆる無分別相としての世界、すなわち絶対的自己意識世界(直接経験世界)を超越するいわばカオス的世界――カント的物自体世界のヴァリエーション――を想定する二元論的世界観も、今でもポピュラーな世界観ではある(たぶん)。
    日本では、例えば井筒俊彦の言語思想や丸山圭三郎の言語哲学などがそうだろう(古いか?(笑))。
    現象学派で言えば、サルトルの世界観(即自存在としてのマロニエ)などもそう言えるかもしれない。

    しかし、分析哲学系で言えば、中性的一元論を採って以降のラッセルやウィトゲンシュタイン、方法論的独我論をとっていた論理実証主義のカルナップなどは、それぞれもちろん違いはあっても、現象主義的な一元論と言ってよいと思われる。日本では大森荘蔵が有名だ。
    また、現代英米系言語哲学の重鎮であったD.デヴィッドソンなどはこういった二元論を「経験論の第三のドグマ」として徹底的に批判した。
    まあ、現代の分析哲学系は自然主義がポピュラーだから、基本的には一元論なのはその意味では当たり前かもしれないけど。
    確か、西田幾多郎の純粋経験は、ある意味意外なことに言語対象化以前の世界ではあっても、無分別世界ではない、という解釈を読んだことがあるように思う。うろ覚えだが、むしろ、ウィリアム・ジェームズの純粋経験のほうがそんな感じであったと記憶している。

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■18461 / inTopicNo.48)  ひきずり女でございます(返信不要w!)
□投稿者/ パニチェ -(2021/11/06(Sat) 21:03:47)
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