□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/11/07(Sun) 00:18:04)
| 私がここでしゃべるのは目障りだと感じる人がいるかもしれないけど(笑)、まあ、関連することなので、ついでに、ここで書かせてもらいます。
今ここにある私(私=私の意識世界)は,いかに記憶をさかのぼって,どんなに過去を思い出し表象しようと,それは言葉をもつこの私の表象である。 したがって,表象される世界は,常に既に言葉によって分節・意味づけられている。 私の思考はこの意味で,言葉の世界の外に出ることは不可能である。つまり,私が内省的に幾ら記憶の限り過去へとさかのぼっても,それが私の表象世界である限り,私の世界は言葉をもつ私の表象世界でしかありえない。
しかしその一方で,言葉を持たない私を想像することは簡単である。 私を対象化し,いわば私の現在の写真から,だんだん過去の写真にさかのぼり,赤ん坊写真までさかのぼって並べれば,それは私が言葉を有する以前の主体であったときの像である。 このような形で私を対象化するのであれば,言語を持たない私を表象するのは簡単である。 発達心理学を含む自然科学的な自我の考察方法はこういうものだ。 しかし,この思考可能な,言葉を未だ有さない私は,あくまで対象化された私の表象世界内の一存在者であり,他の数多くの他者とともに時間空間内に存在する存在者である。一言でいえば、科学は私を特別扱いなどしない、ということ。 それゆえ,存在論的に扱う場合、私=私の意識世界(表象世界・直接経験の世界)であるような私とは,べつものとして扱う必要がある。 詳しくは述べないが、ラフに言ってしまえば、二世界説は、これらの混同がある、というのが私の診断。
とはいえ、言語以前のいわゆる無分別相としての世界、すなわち絶対的自己意識世界(直接経験世界)を超越するいわばカオス的世界――カント的物自体世界のヴァリエーション――を想定する二元論的世界観も、今でもポピュラーな世界観ではある(たぶん)。 日本では、例えば井筒俊彦の言語思想や丸山圭三郎の言語哲学などがそうだろう(古いか?(笑))。 現象学派で言えば、サルトルの世界観(即自存在としてのマロニエ)などもそう言えるかもしれない。
しかし、分析哲学系で言えば、中性的一元論を採って以降のラッセルやウィトゲンシュタイン、方法論的独我論をとっていた論理実証主義のカルナップなどは、それぞれもちろん違いはあっても、現象主義的な一元論と言ってよいと思われる。日本では大森荘蔵が有名だ。 また、現代英米系言語哲学の重鎮であったD.デヴィッドソンなどはこういった二元論を「経験論の第三のドグマ」として徹底的に批判した。 まあ、現代の分析哲学系は自然主義がポピュラーだから、基本的には一元論なのはその意味では当たり前かもしれないけど。 確か、西田幾多郎の純粋経験は、ある意味意外なことに言語対象化以前の世界ではあっても、無分別世界ではない、という解釈を読んだことがあるように思う。うろ覚えだが、むしろ、ウィリアム・ジェームズの純粋経験のほうがそんな感じであったと記憶している。
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