□投稿者/ パニチェ -(2021/11/07(Sun) 09:13:40)
| 2021/11/07(Sun) 09:15:14 編集(投稿者)
レスありがとうございます。
■No18482に返信(みのりさんの記事) >>『論理哲学論考』の以下です。
>>************************************ >>5.631 思考し表象する主体は存在しない。 >>もし私が「私が見出した世界」という本を書くとすれば、そこでは私の身体について報告がなされ、またどの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか、等が語られねばならないだろう。即ちこれが主体を孤立させる方法であり、むしろある重要な意味で主体は存在しないことを示す方法なのである。というのもこの本では主体だけが論じることのできないものとなるであろうからである。 >>5.632 主体は世界に属さない。それは世界の限界である。 >>************************************
>>この後、眼で眼を見ることができない云々の言説が続きます。 >>おそらくみのりさんにとって最も興味がわくところだと思いますし、仏教や気づきとも隣接するところだと思います。
> パニチェさん、ありがとうございます。
どういたしまして。
> そういえば、ウィトゲンシュタインは生涯に自らでは、一冊しか書いていないんでしたね。 > それが引用いただいた『『論理哲学論考』になるのですね。
そうです。
>>もし私が「私が見出した世界」という本を書くとすれば、そこでは私の身体について報告がなされ、またどの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか、等が語られねばならないだろう。即ちこれが主体を孤立させる方法であり、むしろある重要な意味で主体は存在しないことを示す方法なのである。というのもこの本では主体だけが論じることのできないものとなるであろうからである。<
> 主体を孤立させる方法であり、同時に、主体は存在しないことを示す方法でもある、と読んだのですが、この二つが両立するとされるあたりが説明が難しいけど、おもしろく感じます。
言語で語れる私に関することを記述していけばいくほど(本に書いていけばいくほど)、語れない主体が孤立させる(語れるものから孤立し指し示す、即ち浮き上がらせる)方法と読解してます。 例のカニッツァの三角形みたいなイメージで捉えています。
> >またどの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか、 > これは、心臓の動きなどを自ら制御できないとか、そういうことを言ってるのかな、と考えました。
世界内に存在する身体性も含めた空間や物質に関して「私の意志に従う」ものが自であり、「従わないもの」が他であるというような自他の境界みたいなものだと私は読解しています。
> 何も読んでない私が、この部分だけを拝見していろいろ言えるものではないですけど、「超難解だろうけどおもしろそう」と思いました。
難解ですね。定まった読解もないと思います。 だから違う方が違う説明もあるかもしれないので、それも参考にして下さい。
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