| つぶやきトピでのパニチェさんの御投稿からお借りしました。
****以下、大修館書店刊『ウィトゲンシュタイン全集1論理哲学論考』よりの引用****
「この書物は哲学的な諸問題を取り扱う。そして私の思うには、これらの問題提起が我々の言語の論理の誤解に基づいていることを、この書物は示している。 書物全体の意義は例えば次の言葉にまとめられよう。即ち、およそ語られうることは明晰に語られうる、そして話をするのが不可能なことについて人は沈黙せねばならない、と。(序文)」
3.03 我々は非論理的なことを思考できない。というのも仮に思考可能とすれば、その折には非論理的に思考せねばならなくなるからである。 3.031 神は全てのものを創造しうるが、しかし論理法則に反するものだけは例外である、とかつて語られた。というのも「非論理的な」世界についてはそれがどうみえるかを我々は語りえないからである。
3.221 私は対象を名指すことしかできない。記号がそれを代表する。私は対象について話をすることができるだけで、対象を表明することはできない。 命題は、ものがいかにあるかを語りうるだけで、それが何であるかを語りえない。
4.113 哲学は自然科学が論議可能な領域を限界づける。 4.114 哲学は思考可能なものを限界づけ、これにより思考不可能なものをも限界づけなければならない。 哲学は思考不可能なものを、内側から思考可能なものによって、限界づけねばならない。 4.115 哲学は語りうることを明晰に描出することによって、語りえぬことを意味するであろう。
4.1212 示されうることは、語られることができない。
*************** 引用終わり ***************
>3.221 私は対象を名指すことしかできない。記号がそれを代表する。私は対象について話をすることができるだけで、対象を表明することはできない。 命題は、ものがいかにあるかを語りうるだけで、それが何であるかを語りえない。<
この部分が、〈私〉は、言葉で表現しつくすことは不可能である、にも通ずるように感じました。
そして。 おそらくですが、〈私〉のみならず、世界のすべてのものについても同じように言えるのだろう、と考えます。
例えば、林檎、秋、テーブル、月・・・・こうした様々なものについても、 「○○がそこにある」のように会話したり、文章化したりはいくらでも可能だけれど、林檎、秋、テーブル、月・・・・このようなものについての本質を言語化することは不可能だと、そういうことなのではないか、と考えています。
パニチェさん、こういうので合ってますか?
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