| ■17400を見て、ふと、メルポンの、思い出した。
pipitさま、また来ちゃったよ〜。
【…主知主義のなかには、みずからの乗り越えるべき、〈経験主義〉のいくぶんかが、また、〈抑圧された経験主義〉のごときが残っている。したがって、物についてのわれわれの直接的経験の権利を回復するためには、一方の経験主義に対しては、物は感覚的顕現の彼岸にあるのだと主張しなくてはならず、また同時に、主知主義に対しては、物は判断の秩序に属する統一体ではなく、〈あらわれ〉そのものに〈受肉〉しているのだ、と主張しなければならない。素朴的経験においては、物がパースペクティヴ的存在であることになんの疑いもない。つまり、中間の媒体なしで呈示されながらも、少しづつしか開示されず、決して完全に開示されることはない、というのが、物にとっては同時に本質的なことなのである。 もちろん物は、パースペクティヴ的諸局面を媒介として現れるが、しかしここで問題となるのは、単なる〈論理的媒介〉ではない。なぜなら、その媒介によってわれわれは物の〈血肉をそなえた現実〉に到達するはずだからである。物の可能的諸局面のひとつにしかすぎないと、自分にもわかっているような〈パースペクティヴ的一局面〉の〈なかに〉、私は単なる局面を超越する〈物そのもの〉を捉えるのである。超越でありながらも私の認識に対して開かれている超越、これこそが素朴的意識によってめざされているがままの〈物〉の定義なのである。 このように記述される知覚がどんなに考えがたいものであろうとも、その困難はわれわれの甘受すべきものであり、事実そのようにしてわれ・われは知覚し、われわれの意識も物ので暮らしているのである。…】(『行動の構造』より)
っていうところ。
ふと、だけのでごめんね。 あれ?これ前に書いたかも?ま、いいよね。
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