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■15359 / inTopicNo.37)  Re[19]: アウグスティヌス
  
□投稿者/ 愛満開 -(2021/08/01(Sun) 09:33:23)
    knowing itselfさんおはようございます。

    私は、皆様にお詫びしなければならなくなりました。
    というのは、二重予定説は、お見込みの通り誤りであり、knowing itselfさんの
    仰る通りだと言う事が、遅まきながらようやく分かったからでした。
    聖書は、「見ても見えず、聞いても聞こえない」本当に難しいですね。


    私の書き込みに不快な思いをされた皆さん大変申し訳ありませんでした。

    今後は、、knowing itselfさんを見習いながら信仰の道を歩めたらと思っています。

引用返信/返信 削除キー/
■15357 / inTopicNo.38)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ knowing itself -(2021/08/01(Sun) 06:15:39)
    悪魔ちゃん いい質問ありがとうございます

    > キリストさんはマリアっていう女性から生まれたみたいだけど、
    > キリストさんはそのお母さんのおっぱいを吸って大きくなったの?

    まったくそのとおりです。100パーセント人間でもあるキリストは、「罪がない」以外のすべてにおいて、他のすべての人間とまったく同じ条件を生きた。
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■15356 / inTopicNo.39)  アウグスティヌス
□投稿者/ knowing itself -(2021/08/01(Sun) 06:10:59)
    アウグスティヌスについては、カトリックとルターやカルバンとは、解釈が違います。

    ルター派やカルバン派が自説の正当性を引っ張りだすために、なぜかアウグスティヌスを持ち出すことはよくみられますが、この掲示板でそれについての論争を蒸し返すつもりはまったくありません。

    基本的には、@神は人間に自由意思を与えた→Aアダムにおける自由意思の濫用による原罪→Bキリストの贖いにおいて、恵みによる人間の自由意思の回復→B恵み主導による、神と人間の共働。アウグスティヌスに限らず、カトリックはこの基本ライン。

    いえることは、自由意思否定の神の操り人間世界観とはまったく異質ということです。
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■15352 / inTopicNo.40)  Re[17]: キリストさん
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/31(Sat) 19:38:29)
    ■15350、あら?
    ■15349のわたしの問い、満開ちゃんは>可笑しな質問<って見たのね。
    こんなんじゃ、わたしの問いに、あんた、答えられないね。

    「パンとワイン」と「マリア(母)の乳」をわたし見てるのよ。
引用返信/返信 削除キー/
■15350 / inTopicNo.41)  Re[16]: キリストさん
□投稿者/ 愛満開 -(2021/07/31(Sat) 19:08:52)
    No15349に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ノーセルフさんはキリストさんについてよく知ってるようだから、ちょっと聞くね。
    >
    > キリストさんはマリアっていう女性から生まれたみたいだけど、
    > キリストさんはそのお母さんのおっぱいを吸って大きくなったの?

    神が予め選ばれ救済されたknowing itselfさんに対して可笑しな質問はやめて貰いたいです。こうした類なら私にどうぞ。

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■15349 / inTopicNo.42)  Re[15]: キリストさん
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/31(Sat) 18:47:42)
    ノーセルフさんはキリストさんについてよく知ってるようだから、ちょっと聞くね。

    キリストさんはマリアっていう女性から生まれたみたいだけど、
    キリストさんはそのお母さんのおっぱいを吸って大きくなったの?
引用返信/返信 削除キー/
■15348 / inTopicNo.43)  Re[15]: knowing itselfさんへ
□投稿者/ 愛満開 -(2021/07/31(Sat) 18:46:45)
    >ただ、そこまで凄い意味を読み込みながら、少数の選ばれたものに限定されることはありません。意志するのであれば、誰にでも門戸は開かれている。

    >恩寵と自由意志の両立です。

    自由意志は人間の堕落の結果失われたとするアウグスティヌスの主張に対し、正教は同意しないそうです。

    アウグスティヌスは罪を「無知」あるいは「無力」として捉え、人間には自由意志があっても善悪を判断する知識あるいは能力がないために、救いの根拠は「人間の」自由意志ではなく、「神の」自由な選びと「予定」であるとのことです。

    アウグスティヌスによれば、人間の自由意志はいわば悪の分銅によって傾けられた天秤のようなもので、悪へと向かう深刻な偏りが存するということで、予定説に立つ恩寵先行論に基づいて自由意志を否定的あるいは限定的に論じていたようです。

    つまり、人間の自由意志は罪によって破壊も排除もされていないが、罪によってゆがめられているために、その回復には神の恵み恩寵が必要不可欠なのだということでした。

    これに対して、東方正教会は、「共働(きょうどう)」と言って救いを、神の恩寵と、人の自由意志の共働であると捉えるとのことです。

    正教会は、罪深い堕落した状態にあってもなお、人には自由な選択の能力があると信じ、救いを、神の恩寵と人の自由意志の共働であると捉えるのだと。(Wikiより)

    堕落の結果、「正しい自由意志まで失われている」とするのアウグスティヌスの説を正教会は採らないそうです。

    そうすると、カトリックより東方正教会の方が、正しいと言う事なのでしょうか。
引用返信/返信 削除キー/
■15346 / inTopicNo.44)  Re[14]: knowing itselfさんへ
□投稿者/ 愛満開 -(2021/07/31(Sat) 18:20:54)
    knowing itselfさんまたまた専門的なレスありがとうございます

    >>鍵となるのは、予定と言うのは聖書的には神の恩寵を表しているという意味なので
    >>「なぜなら、神はあらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」と言っています。
    >>(ローマ書8章29−30節)
    >>
    >>これは、どういうことなのでしょうか。

    > ここはもしかしたら、カトリックとプロテスタントで分かれるところかもしれないです。
    > 原語としては、子なる神のかたちになるように、コンフォームされるやうに、トランスフォームされるように予定されていたという意味ですから、凄いことを言っているわけです。キリストと同じイメージ・形に変えられて、そのようになるように予定されていた。以前として憐れな罪人のまま、神に赦されるだけとは明らかに違うと。

    ここは、以前、解説戴いた聖体拝領によりイエス様を戴くことと何かリンクをしているのでしょうか。
    本当に聖書というのは、譬えや暗示が多くいったい何を書いているのか直ぐには
    分かりかねる記述が多いですね。
    聖書の御言葉や記述は、神を信じて聖霊様の力で読解すべく暗示され編み込まれているのかなと思うほど難しいです。

    > 憐れな罪人そのまま赦されるだけというより、キリストと同じレベルに最終的にはトランスフォームされていくとも解釈できるのです。カトリックの聖体の秘蹟は、おそらく、ここも踏まえていると思います。

    聖体拝領も、やはり、そうなのですね。

    > ただ、そこまで凄い意味を読み込みながら、少数の選ばれたものに限定されることはありません。意志するのであれば、誰にでも門戸は開かれている。
    >
    > 恩寵と自由意志の両立です。

    いや、まさに、そうあってほしいと思います。
    被造物の人間としては、絶対的権力者の神がお決めになられたのなら、本当にどうにもならない、何か無力感しか感じ得ない、仏教でいう四苦八苦のような気がして、諦めなければならないなあと思っていました。

    一人でも多くの人々が神を信じて救済されることを切に望みます。

    確かに、この辺が、愛の神なのに解せない点かなと。

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■15343 / inTopicNo.45)  Re[13]: knowing itselfさんへ
□投稿者/ knowing itself -(2021/07/31(Sat) 16:42:15)
    愛満開さん レスありがとうございます

    > 鍵となるのは、予定と言うのは聖書的には神の恩寵を表しているという意味なので
    > 「なぜなら、神はあらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」と言っています。
    > (ローマ書8章29−30節)
    >
    > これは、どういうことなのでしょうか。

    ここはもしかしたら、カトリックとプロテスタントで分かれるところかもしれないです。
    原語としては、子なる神のかたちになるように、コンフォームされるやうに、トランスフォームされるように予定されていたという意味ですから、凄いことを言っているわけです。キリストと同じイメージ・形に変えられて、そのようになるように予定されていた。以前として憐れな罪人のまま、神に赦されるだけとは明らかに違うと。

    憐れな罪人そのまま赦されるだけというより、キリストと同じレベルに最終的にはトランスフォームされていくとも解釈できるのです。カトリックの聖体の秘蹟は、おそらく、ここも踏まえていると思います。

    ただ、そこまで凄い意味を読み込みながら、少数の選ばれたものに限定されることはありません。意志するのであれば、誰にでも門戸は開かれている。

    恩寵と自由意志の両立です。
     


引用返信/返信 削除キー/
■15338 / inTopicNo.46)  Re[14]: 行為否定のキリスト教はない
□投稿者/ 愛満開 -(2021/07/31(Sat) 13:42:07)
    knowing itselfさんこんにちは。
    詳しい解説ありがとうございます。

    やっぱりイエス様を信じて救われている方の書き込みが違いますね。さすがです。

    > プロテスタントは善行を否定して他力信心でおしまいというのは、正しくないですよ。

    なるほど、実は、自分でも、これでいいのかなとは思っていました。
    この点を、とくに心に戒めて頑張って生きていきたいと思います。

    > 何にもしないで聖書という書物だけを信じ込んだ人の方が選ばれる、聖書を信じたもの勝ちなんて、誰も言っていないでしょう。

    ジャン・カルヴァンのような職業召命観で世俗的職業は神の栄光を実現するために人間が奉仕する場であるとして、より積極的に意義づけたと言うのも、それはそうかもしれないけど、隣人愛から言って救済とは違うような気がして疑問に思っています。

    > むしろ、変わらなきゃしょうがないというのがプロテスタントです。何にもせずに寝転がっていたのから、変わって動き出した。変わらせてくれたのが神だ、動いている主体は神だという言説で自身の信仰を正当化していますが、変わって動いていなければ始まらないとしているんです。この意味で、逆説的には、内面信仰限定は否定されています。

    なるほど、激しく同意です。
    他力信心に胡坐をかくのではなく、日々自分を戒める生活をしていかねば
    喝を入れられた思いがしました。

    やはり、自分は、まだまだダメだなあと反省しました。
    大変ありがとうございました。
引用返信/返信 削除キー/
■15337 / inTopicNo.47)  行為否定のキリスト教はない
□投稿者/ knowing itself -(2021/07/31(Sat) 13:21:09)
    プロテスタントは善行を否定して他力信心でおしまいというのは、正しくないですよ。

    何にもしないで聖書という書物だけを信じ込んだ人の方が選ばれる、聖書を信じたもの勝ちなんて、誰も言っていないでしょう。

    むしろ、変わらなきゃしょうがないというのがプロテスタントです。何にもせずに寝転がっていたのから、変わって動き出した。変わらせてくれたのが神だ、動いている主体は神だという言説で自身の信仰を正当化していますが、変わって動いていなければ始まらないとしているんです。この意味で、逆説的には、内面信仰限定は否定されています。
引用返信/返信 削除キー/
■15334 / inTopicNo.48)  自由意思
□投稿者/ knowing itself -(2021/07/31(Sat) 12:48:38)
    アウグスティヌスは時間は神が創造したという。逆にいうと、時間とともにある宇宙とは別に、超時間、非時間として存在するのが神。これはキリスト教の神がどういうものであるかの、基本に近いかなと。

    神は被造物と時間そのものを創造した、超時間的存在なので、宇宙のリニアーな時間の直線に対して等距離。すべてが一望・一瞬のもとに見えているという喩えも成り立ちうる。

    一方、人間は自由意思によって宇宙の現象に介入しながら行動していく。決して神の操り人間となって、予め作成されたプログラムに従って機械のように作動するのではない。これは、現代の地球における文明の複雑さをみれば納得できるかな。

    predestination と自由意思の完全なる両立とはそういうことだと思う。誰が神を受け入れ、誰が神を拒否するか、すべて完璧に被造物創造以前からの予めの計画どおり、プログラムどおり、よって自由意思などないという説は、採用できない。
引用返信/返信 削除キー/

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