| >ただ、そこまで凄い意味を読み込みながら、少数の選ばれたものに限定されることはありません。意志するのであれば、誰にでも門戸は開かれている。
>恩寵と自由意志の両立です。
自由意志は人間の堕落の結果失われたとするアウグスティヌスの主張に対し、正教は同意しないそうです。
アウグスティヌスは罪を「無知」あるいは「無力」として捉え、人間には自由意志があっても善悪を判断する知識あるいは能力がないために、救いの根拠は「人間の」自由意志ではなく、「神の」自由な選びと「予定」であるとのことです。
アウグスティヌスによれば、人間の自由意志はいわば悪の分銅によって傾けられた天秤のようなもので、悪へと向かう深刻な偏りが存するということで、予定説に立つ恩寵先行論に基づいて自由意志を否定的あるいは限定的に論じていたようです。
つまり、人間の自由意志は罪によって破壊も排除もされていないが、罪によってゆがめられているために、その回復には神の恵み恩寵が必要不可欠なのだということでした。
これに対して、東方正教会は、「共働(きょうどう)」と言って救いを、神の恩寵と、人の自由意志の共働であると捉えるとのことです。
正教会は、罪深い堕落した状態にあってもなお、人には自由な選択の能力があると信じ、救いを、神の恩寵と人の自由意志の共働であると捉えるのだと。(Wikiより)
堕落の結果、「正しい自由意志まで失われている」とするのアウグスティヌスの説を正教会は採らないそうです。
そうすると、カトリックより東方正教会の方が、正しいと言う事なのでしょうか。
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