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■14224 / inTopicNo.61)  Re[33]: 信仰とは何か
  
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/17(Thu) 20:01:28)
    knowing itselfさんレスありがとうございます。

    >>イエス様が、「わたしの父は、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです」と言うと、それを聞いた人々は、「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」と言いました。この段階でも、彼らはイエス様が与えるパンは信仰によって与えられる霊的なパンであることを理解していませんでした。
    >>
    >>それに対して、主はこのように言われました。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6章34節35節)
    >>
    >>いずれにせよ、ヨハネ福音書にとって「イエスを信じること」と「聖体をいただくこと(イエスの肉を食べ、血を飲むこと)」は別々のことではなく、1つのことと考えられますね。
    >
    > そうだと思います。かのマルティンルターは、四つの福音書の中でもヨハネ福音書を重んじたとされていますが、それ以前に、ヨハネ福音書は全章がカトリック神学によって書かれているという評価も可能なほどですね。プロテスタントの方も、一度はカトリックを学んでみると、ヨハネ福音書について大きな発見があると思います。

    そうなのですね。
    私は、カトリックではないので詳細は分かりませんが、きっと「ヨハネ福音書について大きな発見がある」のだと思って今後も研鑽を続けていきたいと思います。

    なので、これからも、いろいろアドバイスをお願いしたいと思います。
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■14239 / inTopicNo.62)  Re[34]: 信仰とは何か
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/18(Fri) 19:38:21)
    愛満開さん こんばんは

    > >>いずれにせよ、ヨハネ福音書にとって「イエスを信じること」と「聖体をいただくこと(イエスの肉を食べ、血を飲むこと)」は別々のことではなく、1つのことと考えられますね。
    >>
    >>そうだと思います。かのマルティンルターは、四つの福音書の中でもヨハネ福音書を重んじたとされていますが、それ以前に、ヨハネ福音書は全章がカトリック神学によって書かれているという評価も可能なほどですね。プロテスタントの方も、一度はカトリックを学んでみると、ヨハネ福音書について大きな発見があると思います。
    >
    > そうなのですね。
    > 私は、カトリックではないので詳細は分かりませんが

    カトリックといえば、なぜ教皇が必要なのか意味がわからん、否定すべきだという人も多いかと思います。

    これも「聖体」=キリストのリアルプレゼンスから導かれますね。
    キリストがペトロに与えた自身の体、それとまったく同じキリストの体が二千年後の世界のどの国の信徒にも与えられる、そのことを保証するのが、ペトロの地位の継承者である教皇の存在であるという論理だと思います。教皇を権威として崇め奉るためというより、どの人間もキリストの前では、寸分も変わらずペトロと同じ位置・関係性にあることを保証するのが教皇制ですね。これほど確実な救済の保証もないともいえるわけですね。


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■14240 / inTopicNo.63)  Re[35]: 信仰とは何か
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/18(Fri) 20:13:25)
    knowing itselfさん こんばんは

    > カトリックといえば、なぜ教皇が必要なのか意味がわからん、否定すべきだという人も多いかと思います。
    >
    > これも「聖体」=キリストのリアルプレゼンスから導かれますね。
    > キリストがペトロに与えた自身の体、それとまったく同じキリストの体が二千年後の世界のどの国の信徒にも与えられる、そのことを保証するのが、ペトロの地位の継承者である教皇の存在であるという論理だと思います。教皇を権威として崇め奉るためというより、どの人間もキリストの前では、寸分も変わらずペトロと同じ位置・関係性にあることを保証するのが教皇制ですね。これほど確実な救済の保証もないともいえるわけですね。

    そうなんです。自分自身、なぜ教皇制度なんかあるのか意味が分かりませんでした。ローマ法王、教皇何て、まるで、悪魔の化身のように感じていました。

    でも、実際は、違っていたのですね。

    それと、私は、プロテスタントなので「信仰義認」説、こそが正しいと思っていて、これは、仏教でいえば、親鸞聖人の「悪人正機」説のような感じに思えて、道元禅師のような「行為義認」説のような善行や行為に重きを置くのが、ローマカトリックや東方正教会なのかなと思っていました。

    でも、きっと、違うのでしようね。
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■14242 / inTopicNo.64)  Re[36]: 信仰とは何か
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/06/18(Fri) 21:51:40)
    お邪魔するね。

    「信仰とは何か?」ね。

    で、

    〈他人に自分の生き方をまかせること〉

    っていうの、どうかしら。
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■14245 / inTopicNo.65)  復習
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/19(Sat) 06:30:47)
    実体がパンから聖体に聖変化するというとき、偶性や科学的組成は寸分もパンと変わらず、実体だけがキリストになる。キリストの神性(三位一体の第二のペルソナ)と人性(精神と身体どちらも)のすべての実体だけがそこに現存する。

    偶性と科学的組成はそのまんまパンだから、カニバリズムではありえない。

    無から宇宙を創造した、その同じ究極の創造作用が聖変化の作用として働いている。それが聖体の意味です。対象・オブジェとして崇拝盲信するのとは違う。

    キリストを対象として信仰するのではなく、キリスト「の」信仰をそのままインストールのが信仰。


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■14246 / inTopicNo.66)  「聖体」の創設
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/19(Sat) 07:32:39)
    最後の晩餐における「聖体」制定は、憲法の制定になぞらえられることもある。というか、憲法や憲法学にキリスト教神学の影響が濃厚だから、似ているのは当然です。

    国民主権の憲法が制定されたのは、国民という憲法制定権力の憲法創設行為によって。それなくして憲法は存在しなかった。憲法制定権力はそれ以後は表舞台に直接露出することは稀で、制定された憲法の枠内で国民主権は働いていく。

    聖書的世界観の場合は、全宇宙の主権者である神による「制定行為」としての「聖体」。聖体=キリスト。
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■14259 / inTopicNo.67)  宗教に易行はない
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/19(Sat) 18:37:32)
    浄土系仏教の人は同意しなくても、私は宗教には易行はないと思っています。悟りでも涅槃でも天国でも、必要なことは難しくてもクリアーしなければどうしようもない。
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■14300 / inTopicNo.68)  Re[40]: 宗教に易行はない
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/20(Sun) 20:52:08)
    knowing itselfさんこんばんは。

    東京2020五輪も近づいてきて、結局、開催するようですが、マスコミも観客をどうするかという人数に視点が移ってきたようです。
    せっかく、ライバルのイスタンブールを破って東京で開催されるのですから無事に有終の美を飾って貰いたいです。

    > 浄土系仏教の人は同意しなくても、私は宗教には易行はないと思っています。悟りでも涅槃でも天国でも、必要なことは難しくてもクリアーしなければどうしようもない。

    これは、「信仰義認」説ではなく、あくまで善行、行動が、救済には必要だという事なのでしょうか。

    それとも、イエス様を信じるほかになすべきことがあると言う事で律法学者のように、何か例えば十戒を守らなければだめだという事なのでしょうか。
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■14318 / inTopicNo.69)  Re[41]: 宗教に易行はない
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/21(Mon) 19:05:27)
    愛満開さん こんばんは

    >>浄土系仏教の人は同意しなくても、私は宗教には易行はないと思っています。悟りでも涅槃でも天国でも、必要なことは難しくてもクリアーしなければどうしようもない。
    >
    > これは、「信仰義認」説ではなく、あくまで善行、行動が、救済には必要だという事なのでしょうか。

    易行の意味、定義によりますが、簡易でラクな道はありえないと思っています。信仰義認のプロテスタントが易行かといえば、とんでもない話しです。一生をかけたサタンとの戦いです。悔い改めなしの他力本願とプロテスタントが、果たして同じようなものなのか。

    それから、坐禅は自力だからという批判は的はずれだと思います。坐禅は安楽の法門ともいわれ、他力の究極を体験できる道の一つでしょう。30分程度の坐禅にも耐えられないようでは、ちょっと軟弱すぎです。
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■14321 / inTopicNo.70)  宗教と戒
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/21(Mon) 19:44:23)
    無戒の仏教はありえないと思う。どうして仏教に戒があるかといえば、生きとし生けるものを傷つけてはいけないからで、自分だけ戒を破り放題をしておいて、平和で安らかでいたいといっても、それは無理。

    聖書で十戒があるのも、基本的には同じ。神の被造物を破壊し放題で、自分だけ永遠に生きようと思っても虫がよすぎ。

    自分は戒は守れないし、守るつもりもないが、他力本願してれば大丈夫という論理はないと思う。

    戒を破ってしまう自分に血の涙を流せる?
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■14323 / inTopicNo.71)  Re[38]: 復習
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/21(Mon) 21:34:44)
    No14245に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 実体がパンから聖体に聖変化するというとき、偶性や科学的組成は寸分もパンと変わらず、実体だけがキリストになる。キリストの神性(三位一体の第二のペルソナ)と人性(精神と身体どちらも)のすべての実体だけがそこに現存する。

    パン、パン、バン。パンにばかり目がいっては本当いうといけない。

    ちっちゃなパンは表。裏に含意されているのは、パンに相即して、パンを口に入れる人間の体が聖変化すること。真意はむしろこちら。人間といっても、二千年にわたって時空間を横断する膨大な人間たちだが、その人間の体が一つのキリストの体に聖変化する。人間たちの偶有性としての体の実体がキリストの体の実体に「なってしまう」。これが教会。教会とは人的組織、会合、権威的な集団ではなく、偶有性としての人間の生物的な身体が、全キリスト、神性と人性からなるキリストのすべてに実体変化した、そのキリストの体のことです。

引用返信/返信 削除キー/
■14343 / inTopicNo.72)  Re[39]: 復習
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/22(Tue) 19:58:26)
    knowing itselfさんこんばんは。

    > パン、パン、バン。パンにばかり目がいっては本当いうといけない。
    >
    > ちっちゃなパンは表。裏に含意されているのは、パンに相即して、パンを口に入れる人間の体が聖変化すること。真意はむしろこちら。人間といっても、二千年にわたって時空間を横断する膨大な人間たちだが、その人間の体が一つのキリストの体に聖変化する。人間たちの偶有性としての体の実体がキリストの体の実体に「なってしまう」。これが教会。教会とは人的組織、会合、権威的な集団ではなく、偶有性としての人間の生物的な身体が、全キリスト、神性と人性からなるキリストのすべてに実体変化した、そのキリストの体のことです。

    「人間の体が一つのキリストの体に聖変化」

    へえーっ、そういうことなんですね。
    そこまでは、考えが及びませんでした。

    これからも、いろいろ教えて下さいね。
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