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■14132 / inTopicNo.49)  Re[28]: 行い否定の信仰のみは極論です。
  
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/15(Tue) 19:51:15)
    knowing itselfさんの仰ることも分かります。

    > 行い否定の信仰のみ言説は極論だと思います。
    >
    > 第一、マタイ福音書で行いの要素がたくさんあることをどうやって解釈するのでしょうか。
    >
    > 行いを条件として恵みが与えられるという主張をするキリスト教宗派などほとんどないのに?カトリック叩きの、ルターによる藁人形論法にすぎないと思います。
    >
    > 悔い改めだって、ある種の行いじゃないですか。
    >
    > 信仰で救われたとしても、以後、何の行いもせずに内面信仰だけで行くんですか。

    当然、信仰すれば、それ相当の行動が自然に伴っていくというか、そうしなければいけないのではないのなと思います。

    救われているのならば、悪いことは出来ない。
    だからこそ、カルバンも職業召命観を持ったのではないのかなと思います。
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■14133 / inTopicNo.50)  Re[28]: 行い否定の信仰のみは極論です。
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/15(Tue) 19:55:47)
    「よく言っておく、この最も小さな者の一人にしなかったのは、すなわち、私にしなかったのである」(マタイ福音書25・45)

    これなどは、行いを要求していると読んでもおかしくない。病人、貧窮者、弱者の中にキリストをみて、具体的に仕えなさい。内面で聖書とキリストを信仰するより、弱者への具体的な奉仕が最後の審判での基準になるという文脈。
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■14137 / inTopicNo.51)  Re[29]: 行い否定の信仰のみは極論です。
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/15(Tue) 20:20:11)
    knowing itselfさんの仰る通りだと思います。

    > 「よく言っておく、この最も小さな者の一人にしなかったのは、すなわち、私にしなかったのである」(マタイ福音書25・45)
    >
    > これなどは、行いを要求していると読んでもおかしくない。病人、貧窮者、弱者の中にキリストをみて、具体的に仕えなさい。内面で聖書とキリストを信仰するより、弱者への具体的な奉仕が最後の審判での基準になるという文脈。

    そうですね。
    よくよく、自分自身、戒めにしていきたいと思いました。
    ありがとうございました。
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■14183 / inTopicNo.52)  信仰とは何か
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/16(Wed) 19:25:34)
    日本語で信仰というと、どうしても外にあるものを遠く仰ぎ見るという意味になる。キリストを仰ぎ見て、ひれ伏す、キリストの奴隷になる。キリストを信仰する。

    キリスト教の信仰は、そうではなく、キリストの信仰、キリストが持つ信仰、キリストにおける信仰。もっと言えば、キリストそのものが信仰、キリストイコール信仰。その信仰をそのままインストールすることが、キリスト教の信仰の核心かと思う。
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■14184 / inTopicNo.53)  火を投げ込むために来た
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/16(Wed) 19:28:06)
    knowing itselfさん こんばんは

    またまた、疑問の個所が出てきたのですが、これは、どんな意味なのでしょうか。

    「49 わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか。
    50 しかし、わたしには受けねばならないバプテスマがある。そして、それを受けてしまうまでは、わたしはどんなにか苦しい思いをすることであろう。
    51 あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である。
    52 というのは、今から後は、一家の内で五人が相分れて、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、
    53 また父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに、対立するであろう」。(ルカの福音書12章49節〜)

    イエス様は、家内安全ではなく家内喧嘩?をもちこんだのでしょうか。
    また、その本旨は、どこにあるのでしょうか。
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■14185 / inTopicNo.54)  Re[30]: 火を投げ込むために来た
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/16(Wed) 19:40:45)
    愛満開さん こんばんは

    > またまた、疑問の個所が出てきたのですが、これは、どんな意味なのでしょうか。
    >
    > 「49 わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか。
    > 50 しかし、わたしには受けねばならないバプテスマがある。そして、それを受けてしまうまでは、わたしはどんなにか苦しい思いをすることであろう。
    > 51 あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である。
    > 52 というのは、今から後は、一家の内で五人が相分れて、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、
    > 53 また父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに、対立するであろう」。(ルカの福音書12章49節〜)
    >
    > イエス様は、家内安全ではなく家内喧嘩?をもちこんだのでしょうか。
    > また、その本旨は、どこにあるのでしょうか。

    いま浮かんだ私見にすぎませんが、表面を取り繕っていても実は対立し分裂し喧嘩していることが明るみになるという意味でしょうか。真の平和と一致に根本から変えるには、イエスを中心におくしかないと。
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■14187 / inTopicNo.55)  Re[30]: 信仰とは何か
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/16(Wed) 20:31:09)
    道元禅師は、弁道話で

    「口声ひまなくせる、春の田の蛙の昼夜に鳴くがごとし。ついにまた益なし」
    と述べています。

    これは、ただ無内容に坐って、何もすることのない坐禅が、何で悟りの手がかりとなるのだろうかという質問に念仏批判で応えました。

    ただ、舌を動かし声をはりあげるのが功徳だと思っているとは、本当にたよりないことで、ひっきりなしに口をうごかし唱えごとをするのは、春の田んぼの中で蛙が夜も昼も鳴くようなものであり、結局、何の利益もないと言われました。

    まあ、それは、そうでしょうけど、坐禅の効能は、まず脳波が安定すること、丹田呼吸法などでセロトニン活性化が大きく関わり30分程度の坐禅でも終わった後には一抹の爽快感が得られるという事です。

    それに対して批判された念仏、題目についてですが、私は、「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」どちらも毎日、チョッとしたときに唱えています。
    すると、お腹のあたりが温かくなり、落ち着いた気持になります。
    これは、坐禅と同様の効能が得られると言う事かもしれません。

    調べてみたら「南無阿弥陀仏」と称える念仏も3拍子のリズム運動であり、呼吸法なのだとか。

    だから、自律神経が落ち着いて幸福感が得られるのかな。
    だとすれば、坐禅も念仏、題目も同様に幸福因子セロトニンを出してくれる素敵な修行法なのかもしれませんね。






    と述べて、念仏を唱えるような人々は、春の田んぼの蛙に譬えるほど甲斐のないことだとしています。
引用返信/返信 削除キー/
■14188 / inTopicNo.56)  Re[31]: 火を投げ込むために来た
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/16(Wed) 20:48:06)
    knowing itselfさんレスありがとうございます。

    >>「49 わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか。
    >>50 しかし、わたしには受けねばならないバプテスマがある。そして、それを受けてしまうまでは、わたしはどんなにか苦しい思いをすることであろう。
    >>51 あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である。
    >>52 というのは、今から後は、一家の内で五人が相分れて、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、
    >>53 また父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに、対立するであろう」。(ルカの福音書12章49節〜)
    >>
    >>イエス様は、家内安全ではなく家内喧嘩?をもちこんだのでしょうか。
    >>また、その本旨は、どこにあるのでしょうか。
    >
    > いま浮かんだ私見にすぎませんが、表面を取り繕っていても実は対立し分裂し喧嘩していることが明るみになるという意味でしょうか。真の平和と一致に根本から変えるには、イエスを中心におくしかないと。

    なるほど、もともと表面的な対応、付き合いから人の本心を明るみに出させるということですね。
    素晴らしいひらめきだと思います。
    そこで、争いを経て本当の仲間になる。
    「雨降って地固まる」ということでしょうか。

    私は、この箇所は、

    「わたしは、火を地上に投じるためにきた」

    とイエス様が述べた「火」とは「聖霊」のことなのかなと思いました。

    火のバプテスマによって、素晴らしい聖霊の働きが始まったんだと。

    この世では、聖霊に満たされることによって、いろんな現象が起きるのであり、この投げ込まれた火の聖霊によって「雨降って地固まる」のような真の友を見つけ、
    自分自身より信仰の炎が燃えていくようにしたいと思います。




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■14189 / inTopicNo.57)  Re[30]: 信仰とは何か
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/16(Wed) 21:01:56)
    No14183に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 日本語で信仰というと、どうしても外にあるものを遠く仰ぎ見るという意味になる。キリストを仰ぎ見て、ひれ伏す、キリストの奴隷になる。キリストを信仰する。
    >
    > キリスト教の信仰は、そうではなく、キリストの信仰、キリストが持つ信仰、キリストにおける信仰。もっと言えば、キリストそのものが信仰、キリストイコール信仰。その信仰をそのままインストールすることが、キリスト教の信仰の核心かと思う。

    「かと思う」じゃ言い方が弱いね。もっと断言調でいくべきか。上記でピンとこない、意外だと思うなら、その人がキリスト教をわかっていないと断言しておきます。今までさんざん語ってきたヨハネ6章の「パン」の意味はそういうこと。



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■14209 / inTopicNo.58)  道元禅師の誤り
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/17(Thu) 12:31:23)
    我が家は、曹洞宗なのですが、道元禅師の念仏批判は戴けません。

    なぜ、あのような天才の方が念仏を誤ったのか信じられない気がします。
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■14221 / inTopicNo.59)  Re[31]: 信仰とは何か
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/17(Thu) 19:29:46)
    knowing itselfさんこんばんは。

    いつも、信仰の糧になる書き込みありがとうございます。

    > ■No14183に返信(knowing itselfさんの記事)
    >>日本語で信仰というと、どうしても外にあるものを遠く仰ぎ見るという意味になる。キリストを仰ぎ見て、ひれ伏す、キリストの奴隷になる。キリストを信仰する。
    >>
    >>キリスト教の信仰は、そうではなく、キリストの信仰、キリストが持つ信仰、キリストにおける信仰。もっと言えば、キリストそのものが信仰、キリストイコール信仰。その信仰をそのままインストールすることが、キリスト教の信仰の核心かと思う。
    >
    > 「かと思う」じゃ言い方が弱いね。もっと断言調でいくべきか。上記でピンとこない、意外だと思うなら、その人がキリスト教をわかっていないと断言しておきます。今までさんざん語ってきたヨハネ6章の「パン」の意味はそういうこと。

    では、そのパンとは何でしょうか。それはイエス・キリストですね。

    イエス様が、「わたしの父は、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです」と言うと、それを聞いた人々は、「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」と言いました。この段階でも、彼らはイエス様が与えるパンは信仰によって与えられる霊的なパンであることを理解していませんでした。

    それに対して、主はこのように言われました。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6章34節35節)

    いずれにせよ、ヨハネ福音書にとって「イエスを信じること」と「聖体をいただくこと(イエスの肉を食べ、血を飲むこと)」は別々のことではなく、1つのことと考えられますね。

引用返信/返信 削除キー/
■14222 / inTopicNo.60)  Re[32]: 信仰とは何か
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/17(Thu) 19:39:19)
    愛満開さん レスありがとうございます

    > いつも、信仰の糧になる書き込みありがとうございます。
    >
    >>■No14183に返信(knowing itselfさんの記事)
    > >>日本語で信仰というと、どうしても外にあるものを遠く仰ぎ見るという意味になる。キリストを仰ぎ見て、ひれ伏す、キリストの奴隷になる。キリストを信仰する。
    > >>
    > >>キリスト教の信仰は、そうではなく、キリストの信仰、キリストが持つ信仰、キリストにおける信仰。もっと言えば、キリストそのものが信仰、キリストイコール信仰。その信仰をそのままインストールすることが、キリスト教の信仰の核心かと思う。
    >>
    >>「かと思う」じゃ言い方が弱いね。もっと断言調でいくべきか。上記でピンとこない、意外だと思うなら、その人がキリスト教をわかっていないと断言しておきます。今までさんざん語ってきたヨハネ6章の「パン」の意味はそういうこと。
    >
    > では、そのパンとは何でしょうか。それはイエス・キリストですね。
    >
    > イエス様が、「わたしの父は、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです」と言うと、それを聞いた人々は、「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」と言いました。この段階でも、彼らはイエス様が与えるパンは信仰によって与えられる霊的なパンであることを理解していませんでした。
    >
    > それに対して、主はこのように言われました。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6章34節35節)
    >
    > いずれにせよ、ヨハネ福音書にとって「イエスを信じること」と「聖体をいただくこと(イエスの肉を食べ、血を飲むこと)」は別々のことではなく、1つのことと考えられますね。

    そうだと思います。かのマルティンルターは、四つの福音書の中でもヨハネ福音書を重んじたとされていますが、それ以前に、ヨハネ福音書は全章がカトリック神学によって書かれているという評価も可能なほどですね。プロテスタントの方も、一度はカトリックを学んでみると、ヨハネ福音書について大きな発見があると思います。
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