| knowing itselfさんの仰ることも分かります。
> 行い否定の信仰のみ言説は極論だと思います。 > > 第一、マタイ福音書で行いの要素がたくさんあることをどうやって解釈するのでしょうか。 > > 行いを条件として恵みが与えられるという主張をするキリスト教宗派などほとんどないのに?カトリック叩きの、ルターによる藁人形論法にすぎないと思います。 > > 悔い改めだって、ある種の行いじゃないですか。 > > 信仰で救われたとしても、以後、何の行いもせずに内面信仰だけで行くんですか。
当然、信仰すれば、それ相当の行動が自然に伴っていくというか、そうしなければいけないのではないのなと思います。
救われているのならば、悪いことは出来ない。 だからこそ、カルバンも職業召命観を持ったのではないのかなと思います。
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