| 愛満開さんへ
> 「だれもあかりをともして、それを穴倉の中や枡の下に置くことはしない。むしろはいって来る人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の上におく。 > あなたの目は、からだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、目がわるければ、からだも暗い。 > だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。 > もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう」 > (ルカ福音書11章33節35節から36節) > > これは、どのような意味、解釈になるのでしょうか。
まず、並行箇所であるマタイ五15 マタイ六22-23などを参考にして統一的に読むのがいいと思います。 内なる光が明るいか暗いかというのは、基本的には、神の恵みに向かっているか、罪や肉の欲望に向かっているかだと思います。後者なら暗い。明るいか暗いかは、体に反映されるのではっきりかわかる。ごまかしがきかない。霊と体の二元性を主張するグノーシスにはならないという意味もあると思います。
福音を伝えるには、内なる光が体全体から放射されるくらいでないと難しいという意味もあるでしょう。悔い改めて神に意識が向かえば、隠されていない、周りに伝播する。
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