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■14065 / inTopicNo.37)  Re[21]: 聖書を読む目的
  
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/13(Sun) 16:03:50)
    愛満開さんへ

    > 「だれもあかりをともして、それを穴倉の中や枡の下に置くことはしない。むしろはいって来る人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の上におく。
    > あなたの目は、からだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、目がわるければ、からだも暗い。
    > だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。
    > もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう」
    > (ルカ福音書11章33節35節から36節)
    >
    > これは、どのような意味、解釈になるのでしょうか。

    まず、並行箇所であるマタイ五15 マタイ六22-23などを参考にして統一的に読むのがいいと思います。

    内なる光が明るいか暗いかというのは、基本的には、神の恵みに向かっているか、罪や肉の欲望に向かっているかだと思います。後者なら暗い。明るいか暗いかは、体に反映されるのではっきりかわかる。ごまかしがきかない。霊と体の二元性を主張するグノーシスにはならないという意味もあると思います。

    福音を伝えるには、内なる光が体全体から放射されるくらいでないと難しいという意味もあるでしょう。悔い改めて神に意識が向かえば、隠されていない、周りに伝播する。





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■14066 / inTopicNo.38)  Re[22]: 聖書を読む目的
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/13(Sun) 17:03:19)
    knowing itselfさんこんばんは。
    レスありがとうございます。

    >>「だれもあかりをともして、それを穴倉の中や枡の下に置くことはしない。むしろはいって来る人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の上におく。
    >>あなたの目は、からだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、目がわるければ、からだも暗い。
    >>だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。
    >>もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう」
    >>(ルカ福音書11章33節35節から36節)
    >>
    >>これは、どのような意味、解釈になるのでしょうか。
    >
    > まず、並行箇所であるマタイ五15 マタイ六22-23などを参考にして統一的に読むのがいいと思います。

    そうですね。
    ただ、マタイとルカでは、その言われている背景というかコンテキスト、文脈が違うように思えます。

    マタイでは、神と富とに兼ね仕えることはできない点を述べていて、ルカでは、しるしや奇蹟あるいは御利益と神の御言葉との違いを述べているように感じますが、いかがでしょうか。

    > 内なる光が明るいか暗いかというのは、基本的には、神の恵みに向かっているか、罪や肉の欲望に向かっているかだと思います。後者なら暗い。明るいか暗いかは、体に反映されるのではっきりかわかる。ごまかしがきかない。霊と体の二元性を主張するグノーシスにはならないという意味もあると思います。

    仰る通りだと思います。

    > 福音を伝えるには、内なる光が体全体から放射されるくらいでないと難しいという意味もあるでしょう。悔い改めて神に意識が向かえば、隠されていない、周りに伝播する。

    とても興味深い表現だと思いました。
    このくらいにならないと伝導は難しいのかなと思ったりしました。

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■14090 / inTopicNo.39)  Re[23]: 聖書を読む目的
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/14(Mon) 18:53:35)
    愛満開さん こんばんは

    > >>「だれもあかりをともして、それを穴倉の中や枡の下に置くことはしない。むしろはいって来る人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の上におく。
    > >>あなたの目は、からだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、目がわるければ、からだも暗い。
    > >>だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。
    > >>もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう」
    > >>(ルカ福音書11章33節35節から36節)

    「光」というのは、当然のことながら、ヨハネ福音書1章1ー5を受けているはずです。

    >>まず、並行箇所であるマタイ五15 マタイ六22-23などを参考にして統一的に読むのがいいと思います。
    >
    > そうですね。
    > ただ、マタイとルカでは、その言われている背景というかコンテキスト、文脈が違うように思えます。
    >
    > マタイでは、神と富とに兼ね仕えることはできない点を述べていて、ルカでは、しるしや奇蹟あるいは御利益と神の御言葉との違いを述べているように感じますが、いかがでしょうか。

    マタイでもしるしは問題にされてましたからね。しるしを求めることが悪いのでなく、イエスがしるしだということがわからなかったことを問題にしているわけですね。イエスの生涯それ自体がしるしで、そのことの決定的な証しが十字架と復活ということだと思います。

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■14091 / inTopicNo.40)  Re[24]: 聖書を読む目的
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/14(Mon) 19:07:24)
    >「だれもあかりをともして、それを穴倉の中や枡の下に置くことはしない。むしろはいって来る人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の上におく。
    >あなたの目は、からだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、目がわるければ、からだも暗い。
    >だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。
    >もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう」
    >(ルカ福音書11章33節35節から36節)

    ここはマタイ福音書25のタラントンのたとえの箇所とも響きあうように思います。タラントンのたとえは、利子の推奨や世俗的才能の活用を直接説いているはずもなく、キリスト再臨の前の行動準則を示しているとしか読めません。その行動準則とは、福音のリリース、拡散以外のものではない。こういうときは、隠しておくことやしみったれて自分だけのために取っておくことを酷く嫌う。灯りは燭台の上におけ、隠しておくな。





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■14094 / inTopicNo.41)  自己レス
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/14(Mon) 19:28:31)
    > 内なる光が明るいか暗いかというのは、基本的には、神の恵みに向かっているか、罪や肉の欲望に向かっているかだと思います。

    自己レスによる注釈。ここは信じるか信じないかという白黒二元より(これはカルトの危険)、はるかに奥が深い。人間の霊性のスペクトルが余すところなくすべて含まれているというべき。仏教瞑想なら、凡夫から仏陀の最終的な悟りの境地まで非常に幅があるのと一緒です。福音では自分が霊性スペクトルのどこにあるかは問題ではなく、光源だけが問題。
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■14096 / inTopicNo.42)  Re[24]: 聖書を読む目的
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/14(Mon) 19:41:27)
    knowing itselfさんこんばんは

    > マタイでもしるしは問題にされてましたからね。しるしを求めることが悪いのでなく、イエスがしるしだということがわからなかったことを問題にしているわけですね。イエスの生涯それ自体がしるしで、そのことの決定的な証しが十字架と復活ということだと思います。

    ああ、なるほど、そういう事なのですね。

    「イエスの生涯それ自体がしるし」

    とかく、自分自身、当時の民衆と同じで、神仏には、どうしても、しるしというか、御利益を求めてしまいます。

    なので、それを改め、仰るような視点で生きていきたいと思います。

    ありがとうございました。

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■14105 / inTopicNo.43)  らくだが針の穴を通る
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/14(Mon) 20:57:10)
    マルコの福音書10章17節から

    針の穴に糸を通すの大変ですよね?
    ましてやらくだなんかが通るのはなおさらでしょう。
    つまり、らくだは針の穴を通ることはできませんね。


    「17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄り、みまえにひざまずいて尋ねた、「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」。
    18 イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。
    19 いましめはあなたの知っているとおりである。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。欺き取るな。父と母とを敬え』」。
    20 すると、彼は言った、「先生、それらの事はみな、小さい時から守っております」。
    21 イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた、「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
    22 すると、彼はこの言葉を聞いて、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。
    23 それから、イエスは見まわして、弟子たちに言われた、「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」。
    24 弟子たちはこの言葉に驚き怪しんだ。イエスは更に言われた、「子たちよ、神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう。
    25 富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
    26 すると彼らはますます驚いて、互に言った、「それでは、だれが救われることができるのだろう」。
    27 イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」

    これって、どういう意味なのでしょうか。

    神の国に入るのは、自分の行い自力によってでは無理で、あくまで神の恵み、信仰こそが大切だという事のように思えるのですが如何でしょうか。
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■14115 / inTopicNo.44)  Re[24]: らくだが針の穴を通る
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/15(Tue) 08:00:56)
    続きです。

    それに、そのお金持ちの青年が、イエス様の仰ったとおりに、全財産を処分して貧しい人に分け与えたとして、果たしてイエス様は、天国行きの合格にしてくれるでしょうか。

    チョッと、無理な気がします。

    結局、信仰が足りないからだと思います。

引用返信/返信 削除キー/
■14128 / inTopicNo.45)  Re[25]: らくだが針の穴を通る
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/15(Tue) 19:13:55)
    愛満開さん こんばんは
    > 続きです。
    >
    > それに、そのお金持ちの青年が、イエス様の仰ったとおりに、全財産を処分して貧しい人に分け与えたとして、果たしてイエス様は、天国行きの合格にしてくれるでしょうか。
    >
    > チョッと、無理な気がします。
    >
    > 結局、信仰が足りないからだと思います。

    全財産を処分したのに、信仰が足りないからという理由で地獄行きですか?容赦なく、白黒二元の裁きですか?

    それではカルト的な宗教といっていいのではないですか。

    それはないと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■14129 / inTopicNo.46)  Re[26]: らくだが針の穴を通る
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/15(Tue) 19:28:55)
    キリスト教にあって天国とは、どういうところかわからないが死後に約束されるご褒美というのとは違う。スポーツや試験のように、勝ち負け、合否の判定をして、合格なら幸福、失格なら不幸というのとは違う。

    天国とは、三位一体の神の交わりに入ること。それ以外にはない。永遠にその交わりにあることをおいて、他に、キリスト教の天国などありえません。この世の財産と三位一体の神の交わりのどちらを選ぶかで、全財産より三位一体の神の交わりを選ぶ人間を、情け容赦なく捨てるその理由は?思い浮かびません。福音書では、財産を選んでキリストから離れていきますが。

    信仰はある(?)けど財産にしがみつく人間が天国に行くこともあるとして、それは激しく悔い改める場合。悔い改めもなし、財産にしがみつき、それても認められる信仰とは?
引用返信/返信 削除キー/
■14130 / inTopicNo.47)  Re[26]: らくだが針の穴を通る
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/15(Tue) 19:31:56)
    knowing itselfさん こんばんは


    >>それに、そのお金持ちの青年が、イエス様の仰ったとおりに、全財産を処分して貧しい人に分け与えたとして、果たしてイエス様は、天国行きの合格にしてくれるでしょうか。
    >>
    >>チョッと、無理な気がします。
    >>
    >>結局、信仰が足りないからだと思います。
    >
    > 全財産を処分したのに、信仰が足りないからという理由で地獄行きですか?容赦なく、白黒二元の裁きですか?
    >
    > それではカルト的な宗教といっていいのではないですか。
    >
    > それはないと思います。

    ああ、そう言う解釈もあるのですね。
    聖書は、人それぞれにいろんな面を見せてくれるのではないで使用か。

    私は、教会とは関係なく個人的に神の信仰が必要なのではないのかなと思った次第です。
    ネットでも似た意見の牧師様がいましたので上げておきます。

    https://www.youtube.com/watch?v=4tjx4bNJk5Y
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■14131 / inTopicNo.48)  行い否定の信仰のみは極論です。
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/15(Tue) 19:43:16)
    行い否定の信仰のみ言説は極論だと思います。

    第一、マタイ福音書で行いの要素がたくさんあることをどうやって解釈するのでしょうか。

    行いを条件として恵みが与えられるという主張をするキリスト教宗派などほとんどないのに?カトリック叩きの、ルターによる藁人形論法にすぎないと思います。

    悔い改めだって、ある種の行いじゃないですか。

    信仰で救われたとしても、以後、何の行いもせずに内面信仰だけで行くんですか。
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