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■13955 / inTopicNo.25)  聖書を読む目的
  
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/10(Thu) 19:35:47)
    プロテスタントと浄土系信心が似ていると評する人もいるが、ある点においては確実に違うかな。

    プロテスタントといえども、闇雲にイエスをひたすら信じればそれで終わりとはならない。

    何のために「聖書のみ」を過激に主張する?聖書に対する聖典信仰じゃない。それじゃ書物カルトになりかねない。聖書を徹底的に読みこみ、理解し、神との正しい関係に入ることを学ぶためでしょう。

    一冊の聖書は、仏教における全仏典にあたる。浄土系で全仏典を徹底的に読み込んで、理解しろとは言わない。そんなのはムリだから、六字の名号を賜ったとなる。六字の名号だけでいいんだと。

    イエスの名だけを絶えず唱えろとも、一回でも信仰心とともに唱えればそれで救いは確定だともならない。聖書を正しく読んで初めて信仰とは何かがわかるというのがキリスト教でしょう。キリストの名だけで十分とはならない。

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■13969 / inTopicNo.26)  「東洋」
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/11(Fri) 06:21:13)
    イラン王立研究所の教授もつとめた井筒俊彦は、東洋思想に通底する構造の研究で知られていますが、彼にとってヘブライの宗教や哲学は東洋に入ります。

    20世紀後半のフランスを代表するユダヤ系の哲学者ジャックデリダからは、巨匠と呼ばれて尊敬されていた井筒俊彦は、現代語でデリダと対話できるだけでなく、ヘブライ語、ギリシア語、ラテン語、サンスクリット語、パーリ語、中国語、アラビア語、すべてに堪能でした。
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■13990 / inTopicNo.27)  Re[14]: 聖書を読む目的
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/11(Fri) 19:33:07)
    knowing itselfさんこんばんは。

    > イエスの名だけを絶えず唱えろとも、一回でも信仰心とともに唱えればそれで救いは確定だともならない。聖書を正しく読んで初めて信仰とは何かがわかるというのがキリスト教でしょう。キリストの名だけで十分とはならない。

    神の御言葉が書かれているのが聖書であり、イエス様は、私の血を飲み肉を食べろとおっしゃいました。

    これは、聖書に書かれた御言葉なのではないか。
    それは、魂のご飯と同じで、食べなければ栄養失調で死んでしまう。
    なので、聖書の御言葉を日々読み続け(食べ続け)なければならないのかなと思っています。

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■13992 / inTopicNo.28)  Re[15]: 聖書を読む目的
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/11(Fri) 20:33:19)
    愛満開さん こんばんは

    >>イエスの名だけを絶えず唱えろとも、一回でも信仰心とともに唱えればそれで救いは確定だともならない。聖書を正しく読んで初めて信仰とは何かがわかるというのがキリスト教でしょう。キリストの名だけで十分とはならない。
    >
    > 神の御言葉が書かれているのが聖書であり、イエス様は、私の血を飲み肉を食べろとおっしゃいました。
    >
    > これは、聖書に書かれた御言葉なのではないか。
    > それは、魂のご飯と同じで、食べなければ栄養失調で死んでしまう。
    > なので、聖書の御言葉を日々読み続け(食べ続け)なければならないのかなと思っています。

    たしかに聖書は御言葉ですが、より正確には、聖書という書物、テキストとしての聖書が御言葉というより、御言葉を写し出したのが聖書、御言葉が刻印されているのが聖書でしょう。

    音楽の喩えをいうなら、生演奏を譜面起こしして記録したものが聖書という書物でしょう。生演奏で鳴る音楽そのものが御言葉になると思います。
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■13993 / inTopicNo.29)  Re[16]: 聖書を読む目的
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/11(Fri) 20:49:35)
    聖書は重要だとしても、聖書編纂以前に鳴っていた生演奏そのものの方がより本質的で、その生演奏がキリストの血と体なのだと思います。最後の晩餐で鳴っていたのと寸分も変わらない生演奏。
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■14003 / inTopicNo.30)  Re[17]: 聖書を読む目的
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/12(Sat) 06:14:53)
    No13993に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 聖書は重要だとしても、聖書編纂以前に鳴っていた生演奏そのものの方がより本質的で、その生演奏がキリストの血と体なのだと思います。最後の晩餐で鳴っていたのと寸分も変わらない生演奏。

    ペテロなどの弟子は新約聖書を読んでいませんね。聖母マリアとパウロは、福音書を読んでいません。生演奏は聴いています。

    生演奏を受動的に聴くというより、どんなに下手くそでも生演奏に参加することが救いになると思います。ここは、プロテスタントとカトリックで違いはないかな。カトリックはいうまでもなく、ミサにおけるキリストのリアルプレゼンスが生演奏の再現になる。

    あと、誤解があるようなのは、最後の審判で初めて生演奏を聴けるかのように、キリスト教を批判する人がいまだに絶えない。誰が、どの本が、どこのキリスト教が、最後の審判にそんな意味をもたせているのでしょう?

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■14024 / inTopicNo.31)  Re[17]: 聖書を読む目的
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/12(Sat) 13:15:24)
    knowing itselfさんお疲れ様です。

    > 聖書は重要だとしても、聖書編纂以前に鳴っていた生演奏そのものの方がより本質的で、その生演奏がキリストの血と体なのだと思います。最後の晩餐で鳴っていたのと寸分も変わらない生演奏。

    何かとても立体的な内容かなと思いました。

    「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。」(ルカ13章22−30節)

    主イエスには、何パーセントの人が救われるのかといったような単なる情報にはまったく関心を示されませんでした。

    そして、多くの人が救われていないと、主は言われたのです。

    それでも、常に、一人でも多くの人が神を信じて罪の裁きと罪の支配から解放されてほしいと言う願いをはっきりと持っておられたのだと思います。

    主イエスは言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
    (ヨハネの福音書14:6 )

    この狭き門は、イエス様を通した救いの門なのだと思うのですが如何でしょうか。


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■14027 / inTopicNo.32)  Re[18]: 聖書を読む目的
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/12(Sat) 15:44:12)
    愛満開さん レスありがとうございます

    >>聖書は重要だとしても、聖書編纂以前に鳴っていた生演奏そのものの方がより本質的で、その生演奏がキリストの血と体なのだと思います。最後の晩餐で鳴っていたのと寸分も変わらない生演奏。

    > 主イエスは言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
    > (ヨハネの福音書14:6 )

    ポイントは、イエスの教えが道であり、真理であり、いのちであるとは言っていないことだと思います。聖書の教えが道であり、真理であり、いのちであるとも言っていません。聖書の教えを守るようにでも、聖書の内容を信じろでもない。端的に、ストレートに、喩えではなく、わたしが道であり、真理であり、いのちである、と。

    これが、「生演奏」の中に直接参加せよという先のカキコに対応すると考えています。「生演奏」とはもちろん、リアルのキリストの体です。


    > この狭き門は、イエス様を通した救いの門なのだと思うのですが如何でしょうか。
    >
    >
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■14029 / inTopicNo.33)  Re[19]: 聖書を読む目的
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/12(Sat) 16:11:34)
    キリストの「生演奏」とは、聖書全巻の最初の一章で響いていた音楽、聖書以前に響いていた音楽、最後の審判後に響いている音楽、それらとまったく同じ音楽だということです。三位一体の音楽だから当然の帰結ですね。

    永劫回帰という考え方がありますが、ある意味ではそれに通じるところもあるかもしれません。
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■14057 / inTopicNo.34)  Re[20]: 聖書を読む目的
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/13(Sun) 09:43:50)
    knowing itselfさんおはようございます。

    > キリストの「生演奏」とは、聖書全巻の最初の一章で響いていた音楽、聖書以前に響いていた音楽、最後の審判後に響いている音楽、それらとまったく同じ音楽だということです。三位一体の音楽だから当然の帰結ですね。
    >
    > 永劫回帰という考え方がありますが、ある意味ではそれに通じるところもあるかもしれません。

    ここで、ニーチェにも通じると言う事でしょうか。

    それから、聖書を読んでいて疑問点がありました。

    「だれもあかりをともして、それを穴倉の中や枡の下に置くことはしない。むしろはいって来る人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の上におく。
    あなたの目は、からだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、目がわるければ、からだも暗い。
    だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。
    もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう」
    (ルカ福音書11章33節35節から36節)

    これは、どのような意味、解釈になるのでしょうか。
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■14058 / inTopicNo.35)  あなたの目は、からだのあかりである
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/13(Sun) 10:06:33)
    これは、その前に祈祷により悪霊を単に追い出してもっと悪くなる事があるので、神の言葉の大切さを述べているのかなと思います。それから、

    「イエス様のお母さんは何て恵まれていているか」なる声に対して

    「いや、めぐまれているのは、むしろ、神の言を聞いてそれを守る人たちである」

    という言葉があり、その後に、

    「この時代は邪悪な時代である。それはしるしを求めるが、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。」

    という系譜から考えると、神に対して奇蹟やしるし、いわゆる「御利益」を求めるのではなく、聖書にある「神の言葉」を求め、その愛の言葉の力で心身とも明るくすることの必要性を述べたのかなと思います。

    ここから

    「だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。
    もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、
    ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう」

    へと繋がっていくのかなと思います。
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■14064 / inTopicNo.36)  Re[22]: 目は、からだのあかりである
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/13(Sun) 14:35:35)
    「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。」(ヨハネによる福音書6章63節)

    この言葉は、ヨハネによる福音書6章53節からの言葉と対になっています。
    https://www.youtube.com/watch?v=iRUj_1x6ARM

    「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。
    54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。
    55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。
    56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。
    57 生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。」

    やはり、神の御言葉が聖霊であり、聖霊によって生かされることが永遠の命かなと思います。

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