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■14440 / inTopicNo.85)  Re[48]: 聖変化
  
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/25(Fri) 21:13:11)
    >真の神であると同時に真の人間である全キリストの実体に変わった。パンとワインの実体は跡形もなく、ひたすらキリストの実体(感覚的には不可知)だけがそこに現存する。

    人間からみると「聖体を食べる」ことは、神からみると「真の神であると同時に真の人間である全キリストの実体を与え尽くす」こと。これが新しい契約、新約になると思います。いや、これ以外に新約はない。けっして新約聖書という書物が新約ではないですね。このように捉えると、自分としては納得できます。
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■14449 / inTopicNo.86)  実体、物自体
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/26(Sat) 07:35:10)
    実体は、アリストテレス→トマスアクィナスへと展開していったもの。端的にいって、神のことですね。

    カントの「純粋理性批判」でいえば、物自体がそれに対応?ご存知のとおり、カントは物自体の認識可能性に否定的ですね。とはいえ、「実践理性批判」や「判断力批判」では神を前提にしているような。

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■14453 / inTopicNo.87)  Re[50]: 実体、物自体
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/26(Sat) 10:55:34)
    No14449に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 実体は、アリストテレス→トマスアクィナスへと展開していったもの。端的にいって、神のことですね。
    >
    > カントの「純粋理性批判」でいえば、物自体がそれに対応?ご存知のとおり、カントは物自体の認識可能性に否定的ですね。とはいえ、「実践理性批判」や「判断力批判」では神を前提にしているような。


    カントは、認識論的主観主義なので物自体の神を理論理性では認識出来なくても道徳的な実践理性によって弱肉強食などの動物的な自然のままの性質から自由になることで神を感じることが出来るのだと物凄い理論です。

    事物は個別実体と必然性に対する偶有性から成り立ち、偶有性は、形相と質料から合成される存在事物(感覚的個物)の在り方で、実体は偶有性を伴ってはじめて存在するということです。

    聖変化後のパンとワインは、偶有性の質料である外観や科学的な組成は変わらずとも、実体は概念なので変化したと考える訳ですね。
    これこそ、神業と言えると思います。

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■14454 / inTopicNo.88)  Re[51]: 実体、物自体
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/26(Sat) 11:10:03)
    つまり、形相と質料のうち形相が変化したのが、聖変化なのですね。
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■14463 / inTopicNo.89)  Re[52]: 実体、物自体
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/26(Sat) 19:40:47)
    聖書の御言葉と現実の生活。

    人が食べたり飲んだりしてこそ生きるように、

    イエスの肉を食べ血を飲んではじめて心から生きることが出来ます。

    ヨハネによる福音書4章13、14節には

    「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

    さらに、ヨハネによる福音書 6章35節 では

    「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」

    でも、残念ながら現実には、本当にお金が無くて食べたり飲んだり
    できない人たちもいます。

    それが教会員にもいると嘆く牧師先生がいました。

    生活保護を申請すれば、早いのでしょうが、躊躇している教会員。

    どんなに、神に祈ってもパンを与えられない教会員。

    これが、現実なのでしょうね。

    でも、たとえそうであったとしても、神が私たちを愛して十字架による贖いの死に
    よって救済されたことに感謝していきたいものです。


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■14477 / inTopicNo.90)  Re[51]: 実体、物自体
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/27(Sun) 14:51:01)
    愛満開さん レスありがとうございます


    > 事物は個別実体と必然性に対する偶有性から成り立ち、偶有性は、形相と質料から合成される存在事物(感覚的個物)の在り方で、実体は偶有性を伴ってはじめて存在するということです。
    >
    > 聖変化後のパンとワインは、偶有性の質料である外観や科学的な組成は変わらずとも、実体は概念なので変化したと考える訳ですね。

    相手がアリストテレスとトマスアクィナスなので極めて難解ですね。結論をごく大雑把に言うことしかできませんが、キリスト教の核心中の核心というべき、「キリスト両性論」を
    アリストテレス哲学を自家薬籠中のものにすることで鮮やかに提示したのだと思います。

    神という第一実体に、第二実体である人間本性が受容されたのがキリストのリアルプレゼンスということですね。聖変化とは、パンとワインが全キリストへと実体変化すること。第一実体に第二実体が受容され共存することで、一つの分離不能な実体キリストがそこに現存する。

    カトリックにあって、パンがシンボルどころの話ではないのはこういうことです。パンは外観だけで、その同じところに神が究極のリアリティそのままに現存している、それをパンといっているわけですね。
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■14480 / inTopicNo.91)  聖体=キリストの復活した体
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/27(Sun) 15:12:36)
    聖体はキリストの体とされますが、最も重要なのは、それがキリストの復活した体ということです。

    以前の壊れるべき死すべき人間の体ではなく、復活した神秘体。

    この意味でも、単なるシンボルに止まることはありません。
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■14481 / inTopicNo.92)  Re[53]: 聖体=キリストの復活した体
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/27(Sun) 15:24:02)
    knowing itselfさんこんにちは。

    それにしても、カトリックとプロテスタントで、どうしてこうも見解が異なるのでしょうね。

    自分自身は、プロテスタントなのですが、基本は、アリストテレスとトマスアクィナスの形而上学が好きなので、聖変化のロジックである形相と質料は、とても分かりやすく腑に落ちました。
    なので、個人的には、カトリック的見解が、断然、正しいと思います。
    決して、単なるシンボルとはとても思えません。

    > 聖体はキリストの体とされますが、最も重要なのは、それがキリストの復活した体ということです。
    >
    > 以前の壊れるべき死すべき人間の体ではなく、復活した神秘体。
    >
    > この意味でも、単なるシンボルに止まることはありません。

    仰る通りだと思います。
    ただ、このことを簡単に理解できず受け入れられないのでプロテスタントのシンボル論は、続いているのかなと思いました。
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■14514 / inTopicNo.93)  Re[54]: 聖体=キリストの復活した体
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/28(Mon) 18:56:43)
    愛満開さん こんばんは

    > それにしても、カトリックとプロテスタントで、どうしてこうも見解が異なるのでしょうね。

    聖書解釈や神学的な枠組みは、そんなに違わないかとも思いますが、聖体の意味についてはまるで違います。カトリックはこの一点に全重量が乗っているといって過言でなく、聖体を否定するなら、カトリックを解散するくらいでしょう。

    > 自分自身は、プロテスタントなのですが、基本は、アリストテレスとトマスアクィナスの形而上学が好きなので、聖変化のロジックである形相と質料は、とても分かりやすく腑に落ちました。
    > なので、個人的には、カトリック的見解が、断然、正しいと思います。
    > 決して、単なるシンボルとはとても思えません。

    ヨーロッパ的な形而上学がお好きであれば、カトリックとの相性はいいと思います。

    日本にこの部分はほとんど入ってこないというか、切り捨てられているといるというか。茂木健一郎氏も、形而上学はヨーロッパのもっとも美味しい部分で、ヨーロッパ的な天才が開花した土壌だとかいっていました。
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■14520 / inTopicNo.94)  Re[55]: 聖体=キリストの復活した体
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/28(Mon) 20:00:24)
    knowing itselfさんこんばんは。

    イエス様は、様々な譬えで御言葉を述べられていますが、以前にも書きましたが
    次の解釈でよろしいでしょうか。よろしくお願いします。

    「11:33 だれもあかりをともして、それを穴倉の中や枡の下に置くことはしない。むしろはいって来る人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の上におく。

    11:34 あなたの目は、からだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、目がわるければ、からだも暗い。

    11:35 だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。

    11:36 もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう」。

    (ルカによる福音書 11章33〜36節)

    この燭台の話は、何を仰っているのか。

    これは、民衆の目の前におられるイエス様自身のことで、早く神を信じるように述べているように思います。

    そして、「あなたの目は、からだのあかり」なので、何を見るのかが大切だと。

    ここでは、奇蹟や現世利益ではなく神の御言葉を見るように諭されていると思います。

    神の御言葉を見れば、体全体が明るくなるのだという事でしょうか。
    御言葉から離れると心も暗くなるのだと。


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■14545 / inTopicNo.95)  Re[56]: 聖体=キリストの復活した体
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/29(Tue) 18:53:25)
    愛満開さん こんばんは

    聖書の解釈は、キリストの神性(聖書が定義する意味での)と人性を否定するのでない限り、基本的に自由だと思います。自分にいま必要な解釈がどういうものであるかは、自分が一番わかっているのだと思います。

    > 「11:33 だれもあかりをともして、それを穴倉の中や枡の下に置くことはしない。むしろはいって来る人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の上におく。
    >
    > 11:34 あなたの目は、からだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、目がわるければ、からだも暗い。
    >
    > 11:35 だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。
    >
    > 11:36 もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう」。
    >
    > (ルカによる福音書 11章33〜36節)
    >
    > この燭台の話は、何を仰っているのか。
    >
    > これは、民衆の目の前におられるイエス様自身のことで、早く神を信じるように述べているように思います。
    >
    > そして、「あなたの目は、からだのあかり」なので、何を見るのかが大切だと。
    >
    > ここでは、奇蹟や現世利益ではなく神の御言葉を見るように諭されていると思います。
    >
    > 神の御言葉を見れば、体全体が明るくなるのだという事でしょうか。
    > 御言葉から離れると心も暗くなるのだと。

    聖体の話しが続いていたので関連づけますと、ルカ11・36などは端的に聖体を指し示していると考えます。御言葉を求めよというのは正にその通りですが、御言葉が人間になったそのままの「キリストの体」=聖体を食べたその状態が、ズバリ、「あなたの体全体が明るくて、暗い部分が少しもない」状態にあたる。

    聖書では、満たされていない、何かが欠けている状態がイエスによって示されます。まあ、それが罪であって、旧約と新約の全巻はそれを示す書物といっていい。その欠けを満たすのは、パンとワインから聖変化した「キリストの体」、それだけ、それ以外何もないというのがカトリックの立場です。単純明解ですね。
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■14546 / inTopicNo.96)  Re[49]: 聖変化
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/29(Tue) 19:02:14)
    No14440に返信(knowing itselfさんの記事)
    > >真の神であると同時に真の人間である全キリストの実体に変わった。パンとワインの実体は跡形もなく、ひたすらキリストの実体(感覚的には不可知)だけがそこに現存する。
    >
    > 人間からみると「聖体を食べる」ことは、神からみると「真の神であると同時に真の人間である全キリストの実体を与え尽くす」こと。これが新しい契約、新約になると思います。いや、これ以外に新約はない。けっして新約聖書という書物が新約ではないですね。

    キリストの実体がリアルに自分の中に現存するということは、父なる神から子なるキリストに注がれたのとまったく同じ、寸分も変わらず同じ愛が、自分の心と体にも注がれていることを含意します。これ以上のゴールはありません。
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