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■13683 / inTopicNo.73)  Re[41]: つぶやき
  
□投稿者/ パニチェ -(2021/06/06(Sun) 19:45:02)
    こんばんは&こんにちは、フローラさん

    No13682に返信(floraさんの記事)
    > >ニーチェはシャーペンハウワーを通じて仏教やシャンカラを学んでますので、読んだ書籍も偏っていることもあり、少し仏教を誤解しているところがあるように思います。少なくともキリスト教よりは現実的だと好意的には捉えていたようですが。。。

    > サンスクリット/ラテン語辞典や、サンスクリット/ドイツ語辞典等、準じてサンスクリットで記された法典等の翻訳は当時どれほど出回っていたのでしょうか?

    どれくらい出回っていたのかは私は知りませんが。。。
    ニーチェが読んだとされる仏教書は(理想社刊 新田章著「ヨーロッパの仏陀─ニーチェの問い─」によれば)ケッペン著「仏陀の宗教」、英訳本「スッタニパータ」、オルデンベルグ著「仏陀──その生涯、教説、教団」、ヴァッカーナーゲルの論文「バラモンの起源について」との事でした。

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■13688 / inTopicNo.74)  Re[42]: つぶやき
□投稿者/ flora -(2021/06/06(Sun) 23:00:55)
    No13683に返信(パニチェさんの記事)

    こんにち/こんばんは〜パニチェさん

    > ■No13682に返信(floraさんの記事)
    >>>ニーチェはシャーペンハウワーを通じて仏教やシャンカラを学んでますので、読んだ書籍も偏っていることもあり、少し仏教を誤解しているところがあるように思います。少なくともキリスト教よりは現実的だと好意的には捉えていたようですが。。。
    >
    >>サンスクリット/ラテン語辞典や、サンスクリット/ドイツ語辞典等、準じてサンスクリットで記された法典等の翻訳は当時どれほど出回っていたのでしょうか?
    >
    > どれくらい出回っていたのかは私は知りませんが。。。
    > ニーチェが読んだとされる仏教書は(理想社刊 新田章著「ヨーロッパの仏陀─ニーチェの問い─」によれば)ケッペン著「仏陀の宗教」、英訳本「スッタニパータ」、オルデンベルグ著「仏陀──その生涯、教説、教団」、ヴァッカーナーゲルの論文「バラモンの起源について」との事でした。

    どうもありがとうございました。英訳本「スッタニパータ」を除いては当時の専門家たちが書いた、仏教やバラモン教に関する説明/解説書を読まれていたのですね。

    ちなみに
    オルデンベルグ著「仏陀──その生涯、教説、教団」のドイツ語版は1881年に出版され、またヴァッカーナーゲルの論文「バラモンの起源について」は1876年に出版されてようです。

    全く分かりませんが、ニーチェは30代の中頃から、興味を持たれたのでしょうか・・・

    なおオルデンベルグ著「仏陀──その生涯、教説、教団」は翌年の1882年にすでに英語に訳されているようです。当時は仏教やバラモン教に興味を持たれた人々が多かったのでしょね・・

    どうもありがとうございました。
    >
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■13698 / inTopicNo.75)  ニーチェ 4.
□投稿者/ みのり -(2021/06/07(Mon) 15:13:28)
    『生きるための哲学 ニーチェ[超]入門』白取春彦 著 を参考にさせていただいて
    ニーチェの哲学についてまとめていく、の4回目。

    〈ニヒリズムとニーチェ〉

    「この世界というものはいったい何か、人はいろいろと解釈してきた。いつも人間の願望とその都度の必要性にしたがって、つごうのいいように解釈してきたのだ。
    しかし、そうして手に入れたもっとも確かなものは、この世界は実はわれわれが過去の時代でさまざまに信じてきたほどの価値など持っていないということではないか。かつては、いくばくかの尊敬の念をもって世界は眺められてきたものだ。そして、人はこの世界に安住してきた(つもりな)のだ。けれどももはや疑念だらけだ。
    疑いは濃い。あらゆる価値に根拠がなくなった今としてみれば、世界は最初からまったく無価値かもしれない。それがわかった時、われわれは世界への尊敬の念を捨てるのか。あるいは、疑惑を持った自分自身を捨てるのか。どちらを選ぶにしても、結局はニヒリズムではないだろうか。」(まとめ的な意訳)
    ・・・・・同書 P62〜p63より引用

    (上記は、ニーチェ『悦ばしき知識』346 を白取さんがまとめられたもの。)


    ニーチェにとってニヒリズムとは。
    信じられてきた価値や意味がもともと存在しなかったとわかった時に生まれる
    精神状態のこと。
    哲学においてもさまざまな問いが繰り返されてきたが、決定的な真理は見出されることはなかった。

    現実世界の背後という虚構を考えることをニーチェは「背後世界」と呼んだ。
    そして、宗教は人々がニヒリズムに陥らないためのごまかしだと考えた。

    自分の認識においてのみ、その世界がそのような顔でそこにある。
    世界とは、とりもなおさず人間自身のこと。


    (感想)

    ニーチェにとってニヒリズムとは、悲観や虚無を表すものではなく、恐れるものでもなく、そこからのスタートを表すものと言えるのかもしれない。
    与えられてきた価値観や意味に盲従するのではなく、自らが世界に色付けをしていっていいのだ、と。

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■13699 / inTopicNo.76)  アラベスク
□投稿者/ みのり -(2021/06/07(Mon) 15:31:29)
    ドヴュッシーのアラベスク、いいな〜☆


    https://www.youtube.com/watch?v=onFXuiY4Vf4


    7月の湿度の低い晴天の日に。
    水底にある綺麗なたくさんのガラスに光が反射して揺れ動いている。
    私のなかではそんなイメージ。
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■13702 / inTopicNo.77)  Re[40]: つぶやき
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/07(Mon) 19:19:39)
    パニチェさん こんばんは

    > パルジファルのあらすじをいくつか読みましたが、この物語の意味するところがよく分かりませんでした。
    > これだけ評価が高い理由はどこにあるのか、単なる興味本位だけで恐縮ですがよかったら教えて下さい(もちろんスルーでも結構です)。

    https://youtu.be/HKAls5l6o2c

    まず、音楽そのものが美しく感動的だからだと思います。ワーグナーというとうるさい、攻撃的だといって敬遠する人もいますが、パルジファルは透明で耽美的な音楽がずっと続く感じです。ドビュッシーなどにも通ずる、繊細で色彩的なハーモニーの魅力もあります。

    貼った動画は、4時間にもなる全曲のクライマックスですが、ここまで聴いて、禅の見性やアドバイタ体験、その他の神秘体験などに匹敵する、一生に何回かの圧倒的な体験をした人は、少なくないと思います。多いとはいえないでしょうけどね。

    といっても、クラシック音楽ファンでも、パルジファルはどこがいいのかわからない、退屈だという人も少なくないでしょうね。



    >>もっとも、ワーグナーやニーチェ、シャーペンハウワーたちが仏教の影響を受けたというのは、額面通りには受け取れないと思います。やはり、当時のヨーロッパの文化人による仏教理解という限界はあるでしょう。やはりわれわれ日本人の方が、彼らよりは仏教の本質がわかっていると思います。
    >
    > 同意です。
    > ニーチェはシャーペンハウワーを通じて仏教やシャンカラを学んでますので、読んだ書籍も偏っていることもあり、少し仏教を誤解しているところがあるように思います。少なくともキリスト教よりは現実的だと好意的には捉えていたようですが。。

    読んだ仏教書も少なすぎるのではないでしょうか。しかも19世紀までのヨーロッパ人の書いた本?いくら天才でも、それだけでは仏教の本質に分け入るのは難しいかなと。


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■13703 / inTopicNo.78)  聖金曜日の音楽
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/07(Mon) 19:22:05)
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■13758 / inTopicNo.79)  Re[43]: つぶやき
□投稿者/ パニチェ -(2021/06/08(Tue) 20:18:48)
    こんばんは、フローラさん。

    No13688に返信(floraさんの記事)
    > どうもありがとうございました。英訳本「スッタニパータ」を除いては当時の専門家たちが書いた、仏教やバラモン教に関する説明/解説書を読まれていたのですね。
    > ちなみに
    > オルデンベルグ著「仏陀──その生涯、教説、教団」のドイツ語版は1881年に出版され、またヴァッカーナーゲルの論文「バラモンの起源について」は1876年に出版されてようです。
    > 全く分かりませんが、ニーチェは30代の中頃から、興味を持たれたのでしょうか・・・
    > なおオルデンベルグ著「仏陀──その生涯、教説、教団」は翌年の1882年にすでに英語に訳されているようです。当時は仏教やバラモン教に興味を持たれた人々が多かったのでしょね・・

    気づきませんでした。確かに出版年からするとそういうことになりますね。
    初版で読んだとしても「バラモンの起源について」は「反時代的考察」を書いた頃の32歳、「仏陀──その生涯、教説、教団」は「悦ばしき知識」を書いた37歳ってことになりますね。
    ショーペンハウアーに衝撃を受けたのが21歳ですから、随分時間が経ってからってことになりますね。これは収穫でした。^^

    > どうもありがとうございました。

    どういたしまして。

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■13765 / inTopicNo.80)  パルジファル
□投稿者/ パニチェ -(2021/06/08(Tue) 20:56:16)
    こんばんは、knowing itselfさん。レスありがとうございます。

    No13702に返信(knowing itselfさんの記事)
    > まず、音楽そのものが美しく感動的だからだと思います。ワーグナーというとうるさい、攻撃的だといって敬遠する人もいますが、パルジファルは透明で耽美的な音楽がずっと続く感じです。ドビュッシーなどにも通ずる、繊細で色彩的なハーモニーの魅力もあります。

    なるほど。

    > 貼った動画は、4時間にもなる全曲のクライマックスですが、ここまで聴いて、禅の見性やアドバイタ体験、その他の神秘体験などに匹敵する、一生に何回かの圧倒的な体験をした人は、少なくないと思います。多いとはいえないでしょうけどね。

    https://www.youtube.com/watch?v=3hCkOAbPLaw

    上記の動画でよろしかったでしょうか。
    そうなんですね。禅の見性やアドバイタ体験、その他の神秘体験などに匹敵する。。。。やっぱ全曲聴かないと分からないんでしょうね。
    私はクラシックに関して耳が痩せているどころか餓死寸前なので、全曲聴いても何も感じないなんてこともありそうなのでやめときますが。。。^^

    > といっても、クラシック音楽ファンでも、パルジファルはどこがいいのかわからない、退屈だという人も少なくないでしょうね。

    人それぞれなんですね。

    > 読んだ仏教書も少なすぎるのではないでしょうか。しかも19世紀までのヨーロッパ人の書いた本?いくら天才でも、それだけでは仏教の本質に分け入るのは難しいかなと。

    knowing itselfさんは優しいですね。好意的に考えればそうですね。^^
    ニーチェに「力への意志」に近しい中論の「相依性縁起」や仏教版君主道徳「自洲・法洲(自灯明・法灯明)」、「無垢なる遊戯」に相通じる華厳の「事事無礙」などを知ってもらいたかったってのはありますが。。。

引用返信/返信 削除キー/
■13767 / inTopicNo.81)  Re[44]: ニーチェ 4.
□投稿者/ パニチェ -(2021/06/08(Tue) 21:10:29)
    No13698に返信(みのりさんの記事)

    > 「この世界というものはいったい何か、人はいろいろと解釈してきた。いつも人間の願望とその都度の必要性にしたがって、つごうのいいように解釈してきたのだ。
    > しかし、そうして手に入れたもっとも確かなものは、この世界は実はわれわれが過去の時代でさまざまに信じてきたほどの価値など持っていないということではないか。かつては、いくばくかの尊敬の念をもって世界は眺められてきたものだ。そして、人はこの世界に安住してきた(つもりな)のだ。けれどももはや疑念だらけだ。
    > 疑いは濃い。あらゆる価値に根拠がなくなった今としてみれば、世界は最初からまったく無価値かもしれない。それがわかった時、われわれは世界への尊敬の念を捨てるのか。あるいは、疑惑を持った自分自身を捨てるのか。どちらを選ぶにしても、結局はニヒリズムではないだろうか。」(まとめ的な意訳)
    > ・・・・・同書 P62〜p63より引用

    > (上記は、ニーチェ『悦ばしき知識』346 を白取さんがまとめられたもの。)

    う〜〜むむむ。。。。
    白取氏の解釈でありニーチェではなく白取氏の言葉ですね。

    「悦ばしき知識第346番」はニーチェ哲学にとっても重要なアフォリズムだと私は考えています。それだけにどうも。。。

    今度の土日で全文引用するかもしれませんが、(長いので)しないかもしれません(笑)。

    みのりさんの感想には同意です。^^





引用返信/返信 削除キー/
■13774 / inTopicNo.82)  Re[44]: つぶやき
□投稿者/ flora -(2021/06/08(Tue) 23:47:02)
    No13758に返信(パニチェさんの記事)

    パニチェさん、こんにちは

    > ■No13688に返信(floraさんの記事)
    >>どうもありがとうございました。英訳本「スッタニパータ」を除いては当時の専門家たちが書いた、仏教やバラモン教に関する説明/解説書を読まれていたのですね。
    >>ちなみに
    >>オルデンベルグ著「仏陀──その生涯、教説、教団」のドイツ語版は1881年に出版され、またヴァッカーナーゲルの論文「バラモンの起源について」は1876年に出版されてようです。
    >>全く分かりませんが、ニーチェは30代の中頃から、興味を持たれたのでしょうか・・・
    >>なおオルデンベルグ著「仏陀──その生涯、教説、教団」は翌年の1882年にすでに英語に訳されているようです。当時は仏教やバラモン教に興味を持たれた人々が多かったのでしょね・・
    >
    > 気づきませんでした。確かに出版年からするとそういうことになりますね。
    > 初版で読んだとしても「バラモンの起源について」は「反時代的考察」を書いた頃の32歳、「仏陀──その生涯、教説、教団」は「悦ばしき知識」を書いた37歳ってことになりますね。
    > ショーペンハウアーに衝撃を受けたのが21歳ですから、随分時間が経ってからってことになりますね。これは収穫でした。^^

    そうするとニーチェはショウペンハウアーの読んだと思われる参考文献等は読まなかったということになるのでしょうか・・・ 唯一の可能性は英訳本「スッタニパータ」ですが、あまりにも漠然としていて翻訳書を割り出すことはできませんでした・・・

    興味があるのですが、ショウペンハウアーの参考にしたと思われる文献はおわかりになりますか?

引用返信/返信 削除キー/
■13784 / inTopicNo.83)  Re[45]: ニーチェ 4.
□投稿者/ みのり -(2021/06/09(Wed) 07:28:17)
    パニチェさん、ありがとうございます。


    No13767に返信(パニチェさんの記事)
    > ■No13698に返信(みのりさんの記事)
    >
    >>「この世界というものはいったい何か、人はいろいろと解釈してきた。いつも人間の願望とその都度の必要性にしたがって、つごうのいいように解釈してきたのだ。
    >>しかし、そうして手に入れたもっとも確かなものは、この世界は実はわれわれが過去の時代でさまざまに信じてきたほどの価値など持っていないということではないか。かつては、いくばくかの尊敬の念をもって世界は眺められてきたものだ。そして、人はこの世界に安住してきた(つもりな)のだ。けれどももはや疑念だらけだ。
    >>疑いは濃い。あらゆる価値に根拠がなくなった今としてみれば、世界は最初からまったく無価値かもしれない。それがわかった時、われわれは世界への尊敬の念を捨てるのか。あるいは、疑惑を持った自分自身を捨てるのか。どちらを選ぶにしても、結局はニヒリズムではないだろうか。」(まとめ的な意訳)
    >>・・・・・同書 P62〜p63より引用
    >
    >>(上記は、ニーチェ『悦ばしき知識』346 を白取さんがまとめられたもの。)
    >
    > う〜〜むむむ。。。。
    > 白取氏の解釈でありニーチェではなく白取氏の言葉ですね。
    >
    > 「悦ばしき知識第346番」はニーチェ哲学にとっても重要なアフォリズムだと私は考えています。それだけにどうも。。。

    そうなんですか。^^  入門書なので解りやすい言葉にしてくださった部分が
    あるのかな、とは思うのですが、詳しい方には「違うな。」となってるのですね。


    > 今度の土日で全文引用するかもしれませんが、(長いので)しないかもしれません(笑)。

    無理はなさらないでくださいね。^^
    『悦ばしき知識』は主にどういった内容なのか、だけ教えていただけると有難いです。
    そのうち訳本を読みたいので、何が良さそうかな、と。

    > みのりさんの感想には同意です。^^

    ありがとうございます。

引用返信/返信 削除キー/
■13820 / inTopicNo.84)  悦ばしき知識 第346番
□投稿者/ パニチェ -(2021/06/09(Wed) 22:08:39)
    > 「この世界というものはいったい何か、人はいろいろと解釈してきた。いつも人間の願望とその都度の必要性にしたがって、つごうのいいように解釈してきたのだ。
    > しかし、そうして手に入れたもっとも確かなものは、この世界は実はわれわれが過去の時代でさまざまに信じてきたほどの価値など持っていないということではないか。かつては、いくばくかの尊敬の念をもって世界は眺められてきたものだ。そして、人はこの世界に安住してきた(つもりな)のだ。けれどももはや疑念だらけだ。
    > 疑いは濃い。あらゆる価値に根拠がなくなった今としてみれば、世界は最初からまったく無価値かもしれない。それがわかった時、われわれは世界への尊敬の念を捨てるのか。あるいは、疑惑を持った自分自身を捨てるのか。どちらを選ぶにしても、結局はニヒリズムではないだろうか。」(まとめ的な意訳)
    > ・・・・・同書 P62〜p63より引用

    > (上記は、ニーチェ『悦ばしき知識』346 を白取さんがまとめられたもの。)


    *** 以下、ちくま学芸文庫「ニーチェ全集第8巻 悦ばしき知識 第346番」からの引用 ***

    われわれの疑問符。──だがしかし、諸君にはそれが解らないのか?全くのところ、われわれを理解するには骨が折れるだろう。われわれは言葉を探しているし、おそらく聴く耳をも探している。さもあれ、われわれは何者であろうか?われわれが自らを、単純的に、古めかかしい表現でもって、背信の徒とか不信心者とか背徳者(インモラリスト)とか呼んだにしても、それでわれわれを言い当てたとは、とてもまだまだ信じられない。われわれときたら、あまりにも末期の段階における、これら三者の統合物なのだ、──誰にしろ、わが穿鑿ずきの紳士達である諸君にしろ、こんな境位にある者の心境のどんなだかは、とても理解しかねるほどに、それほど末期的な段階にあるわれわれなのだ。そうだ!われわれはもはや、自分の不信仰からなおも一つの信仰、一つの目的、殉教すらも調達せずにおれないような離脱者の気難しさも激情も持ってはいない!

    世界が神的な経過を辿りなど決してしない、いな、人間的な物差しで測ったにしろ世界は理性的とか慈悲深いとか公正とかの経過を辿りなど決してしない、という洞察で煮沸されてしまったわれわれは、さらにその洞察ゆえに冷たく硬くなっている。われわれの住むこの世界が無神的で、無道徳で、「非人間的」であるということを、われわれは知っている。

    ──われわれは、この世界を、あまりにも永い間、欺き偽って、だがしかしわれわれが持つ尊敬の願望と意志とに従って、つまり必要というものに従って解釈してきていた。それというのも、人間は尊敬する動物であるからなのだ!だが人間は疑い深い動物である。

    そして、世界はわれわれが信じたほどの価値を有(も)たないということこそ、われわれの疑い深さが結局のところ手に入れた最確実なものだと言ってよかろう。疑い深ければ深いだけ、それだけ哲学がある。世界の価値が減少したなどと言わぬよう、われわれは十分に気を付けよう。

    人間が、現実世界の価値を凌ぐような諸価値を考案しようなどと願うなら、今日のわれわれには笑止千万なこととさえ思われる、──まさにそうしたところから、つまり永い間それとは見抜かれずにいた人間的な虚栄と背理の常軌を逸した昏迷から、われわれは立ち戻ってきたのだ。こうした昏迷は、近代ペシミズムのうちにその最後の表現を、また、仏陀の教説のうちにその一そう古く強烈な表現を、得ていた。だが、キリスト教もまたこの昏迷を保有している。──もちろん、一そう訝(いぶか)しい曖昧なかたちをとってではあるが、だからとて誘惑的である度合いがすくないとはいえぬ。「世界に対する人間」だとか、「世界を否定する」原理としての人間だとかとか、事物の価値基準としての人間だとか、結局においては現存在そのものをさえ自分の秤(はか)りにかけてこれを軽すぎると断定する世界審判者としての人間だとか、といったような態度の一切──こういう態度の途方もない愚劣さは、その正体がわれわれに悟られてしまって、われわれに嫌悪させるのだ。──「人間と世界」が、「と」(und)という微々たる一語の尊大な不遜に隔てられながら併称されるのを聴くやいなや、われわれは笑い出してしまう!

    だが、どうだ?まさにそうすることによって、われわれは、笑う者として、人間軽蔑の点で一歩を進めただけのことではないのか?まさにそのことによって、われわれは、これまでわれわれを自分らの尊敬の念をもって──これがあるゆえにわれわれは恐らく生き堪えられたのだが──安住してきた世界と、われわれそれ自身である他の世界との矛盾対立に、その矛盾対立の疑念に、とりこめられたのではないのか?それはわれわれ自身に仮借ない、根本的な、徹底的な疑念、われわれヨーロッパ人をいよいよますます層一層に手ひどく支配し、にべもなく来るべき世代を次のような恐るべき「あれか──これか」(二者択一)に直面せしめる疑念なのだ、すなわち「君たちの尊敬の念を棄て去るか、それとも──君たち自身をか!」、という二者択一に直面させるものだ。後者はニヒリズムであるだろう。だが、前者だって──ニヒリズムではないだろうか?──これこそがわれわれの疑問符なのだ。

    *************** 引用終わり ***************

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