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■12395 / inTopicNo.85)  おくたがわさん、うましかさんへ
  
□投稿者/ pipit -(2021/05/05(Wed) 11:13:11)
    こんにちは、書き込みありがとうございます!

    また後ほど、楽しみにゆっくり読ませていただきますね。嬉しいなぁ♪

    今日はもともとの休みで、休日楽しんでまーす。
    読みたい本や、見たいYouTubeはいっぱいあるけど、あっという間に時間過ぎるなぁ(^^;

    おつかれさまです、みんなそれぞれによい一日になりますように☆彡
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■12411 / inTopicNo.86)  おくたがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/05/05(Wed) 17:33:28)
    おくたがわさん、こんばんは!
    書き込みありがとうございます(^_^)

    No12391に返信(おくたがわさんの記事)

    > //中山元さんの『まず対象と直接にかかわる像が存在し、その上位に〜』の部分がかなり違いますが、英文ではそう読めず、原文がそうなのか元さんの意訳なのか(意訳としては適切かも)<

    わたしもはっきりとはわからないのですが、
    中山先生訳の102前半で出てくる、カントが概念を生む知性の機能について述べる文章で、

    『わたしがこの〈機能〉という語で意味しているものは、心に思い描かれたさまざまな像を一つの共通な像のもとに秩序づける行為の統一的な作用のことである。』
    『純粋理性批判2』カント、中山元訳、光文社古典新訳文庫、p50より引用

    とあって、

    J. M. D. Meiklejohnさんが、

    『By the word function I understand the unity of the act of arranging diverse representations under one common representation.』

    と訳されてますね。
    https://www.gutenberg.org/files/4280/4280-h/4280-h.htm#chap33
    『The Critique of Pure Reason
    By Immanuel Kant

    Translated by J. M. D. Meiklejohn』より引用


    【under】one common representation.
    と訳されてるので、もしかしたら、カント自身も、上下をイメージする言葉を、別の箇所で使っている可能性もあるのかな、と、妄想しました。
    もちろん、おっしゃるように中山先生の意訳かもしれませんね。
    原文を、し、し、調べた方がいい時は、おっしゃってくださあ〜い _(┐「ε:)_

    ここまでをいったん投稿します〜
引用返信/返信 削除キー/
■12416 / inTopicNo.87)  Re[25]: おくたがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/05/05(Wed) 18:09:01)
    難問!!!

    ちょっと考えてみます〜

    きちんと考えるキッカケを作ってもらって、ほんとに嬉しいです。ありがとうございます!

    とりあえず、夕食テイクアウトなのだ〜うふふふ〜(サボり)
    いってきま〜ふ(^o^)/
引用返信/返信 削除キー/
■12429 / inTopicNo.88)  おくたがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/05/05(Wed) 23:35:54)
    こんばんは!
    No.12391

    >すなわち、直接の像に代わって、その像や他の様々な像を含むより高次の像が、我々が対象を認識するために利用され、それによって多数の可能な認識が一つにまとめられるのである。/拙訳ここまで/

    //中山元さんの『まず対象と直接にかかわる像が存在し、その上位に〜』の部分がかなり違いますが、英文ではそう読めず、原文がそうなのか元さんの意訳なのか(意訳としては適切かも)<

    原文、気になったので調べてみました。
    https://www.gutenberg.org/cache/epub/6343/pg6343.html.utf8
    The Project Gutenberg EBook of Kritik der reinen Vernunft (2nd Edition) by Immanuel Kantによると、

    (カントの原文)※ドイツ語の記号?は入力できてません。
    『Alle Urteile sind demnach Funktionen der Einheit unter unseren Vorstellungen, da namlich statt einer unmittelbaren Vorstellung eine hohere, die diese und mehrere unter sich begreift, zur Erkenntnis des Gegenstandes gebraucht, und viel mogliche Erkenntnisse dadurch in einer zusammengezogen werden. 』
    みたいです。

    Google翻訳にかけた結果は
    (Google翻訳の日本語訳)
    『したがって、すべての判断は私たちの表現間の統一の機能です。なぜなら、直接的な表現の代わりに、これらといくつかを理解するより高いものがオブジェクトを認識するために使用され、それによって多くの可能な認識が1つにまとめられるからです。』
    (Google翻訳の英語訳)
    『Accordingly, all judgments are functions of the unity among our representations, since instead of a direct representation a higher one, which understands these and several among themselves, is used to cognize the object, and many possible cognitions are thereby brought together into one.』

    でした。
    翻訳結果から推測するに、中山先生の日本語訳は、中山先生による説明が補足的に入った、意訳、なのかな?と思いました。
引用返信/返信 削除キー/
■12430 / inTopicNo.89)  おくたがわさんへ Re[23]: 知性と判断
□投稿者/ pipit -(2021/05/05(Wed) 23:58:01)
    2021/05/06(Thu) 00:21:33 編集(投稿者)

    No12391に返信
    > ****
    > 現段階での自分の理解
    > 「分割できる」という高次の概念は、様々な概念や像に適用できるが、「すべての物体は分割できる」という判断では「物体」という概念に適用されている。また物体という概念は、リンゴ・UFO・パソコンなど様々な対象に適用できるが、これらは最終的に個々のリンゴ・パソコンなど我々が直接に経験できる(UFO?)対象に結びつく。「すべての物体は分割できる」という判断によって、(個々の)リンゴ・UFOなどが分割できるということも間接的に示される。
    >
    > (高次)「分割できるもの」⊃「物体」⊃「リンゴ」∋このリンゴ(最終的に対象と直接かかわる像)
    >
    > 『(判断に含まれる概念は)対象と直接にかかわるような一つの与えられた像を含んでいる』の部分(中山さん『像が含まれている』)、含むという言葉を使っているのは上記の包含関係を示しているのでは。
    > 英文において「判断が像を含む」ではなく「概念が像を含む」となっているため、このように解釈しています。<

    カントは、論理学の講義もしてたようですから、おくたがわさんのおっしゃるような発想をしてたかもしれませんね。



    > 「クジラは哺乳類である」という判断ならば
    > 哺乳類⊃クジラ⊃シロナガス∋目の前のシロナガス
    >
    > 『それによって多数の可能な認識が一つにまとめられる』『この高次の像において、ほかのさまざまな可能的な認識が、一つにまとめられる。』は、おそらくですが
    > クジラについて「海にいる」「大きい」「食べられる」「食べてはいけない」「分割できる」などなど様々な概念による可能的認識を考え得るが、その中で、「クジラは哺乳類である」という判断においては「哺乳類」という概念を適用してまとめている。<

    この判断(クジラは哺乳類である。)のまとめ型は、全称判断であり、肯定判断であり、断言判断であり、でいいのでしょうか?


    > ここは、感性による直観は受容的だが、概念による認識・思考は自発的という件と関係するかも。
    > 対象から触発されて受容的に発生する像とは違って、どのような概念を当てはめるかによって判断の内容が変わってくる(非受容的)
    > 「リンゴ」に対して「果物」「食べられる」を適用するか「落ちる」を適用するか。<

    『概念の営みは、思考の自発性に根拠づけられているのである。』
    『純粋理性批判2』カント、中山元先生訳、光文社古典新訳文庫p50より引用

    とありますもんね。

    非・受容的、というおくたがわさんの表現がおもしろかったです。
    論理ですね〜、人間の思考はおもしろいですね、人間すごいなー
    でも、ワンくんも、非◯◯という考え方、してるかもですもんね。

    生命はいろいろ不思議 !



引用返信/返信 削除キー/
■12431 / inTopicNo.90)  うましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/05/06(Thu) 00:17:51)
    No.12392
    うましかさん、こんばんは〜(^o^)/

    充実のまとめ作業、完了しましたね!
    わたしはいつも一日坊主みたいなかんじなので、継続して最後まで完了できることを、尊敬します!
    おつかれさまです(^_^)♪

    >帰ってきたロシュフコーさん、ありがとうございました!m(__)m
    動画を視ながら楽しく学習できました <

    帰ってきたロシュフコーさんの動画、とても整理されてましたよね。
    わたしも楽しく勉強になりました。
    帰ってきたロシュフコーさんとうましかさんに感謝です (^人^)


    うましかさんやみんなの今日が心地よい日となるといいな☆彡

    おやすみなさーい


引用返信/返信 削除キー/
■12438 / inTopicNo.91)  Re[22]: :動画でおべんきょう終了!
□投稿者/ エフニ -(2021/05/06(Thu) 20:42:13)
    No12392に返信(うましかさんの記事)
    > おはようございます。pipitさん。
    > おじゃまします。
    >
    > *******
    >
    > 今回は、超越論的原理論>超越論的論理論>超越論弁証論
    >
    > 『純粋理性批判』
    > 序論 ← 済
    >  超越論的原理論
    >      超越論的感性論 ← 済
    >      超越論的論理論
    >          超越論的分析論
    >              概念の分析論 ← 済
    >              原則の分析論 ← 前回済
    >          超越論的弁証論 ← 今回
    >  超越論的方法論
    >
    > これまで人間の認識の仕組みとして感性と悟性が説明された。しかしあとひとつ理性がのこっている。帰ってきたロシュフコーさんの説明によれば、理性とは「悟性の判断を総合的に関係づける推理の能力」である。たとえば三段論法がそれである。
    >
    > 続く説明には、さきの純粋悟性概念を、帰ってきたロシュフコーさん曰く「添加物ゼロみたいなノリで、経験的なものがゼロで、こねくり回してできた」とされる、「純粋理性概念」(簡単には「理念」とも)が登場する。
    >
    > 今回とりあげたパート、「超越論的弁証論」は、この純粋理性概念がどんな知識をもたらすかという議論。
    >
    > さて知識は経験によって得られる。だが経験を超えたことがら、たとえば神とか世界とかについてはどうなのか?先に結論をいえば、純粋理性概念によってもこれらは知ることはできない。なぜか?理性の推論の能力を用いてこれらを知ろうとしてもアンチノミー(二律背反)に陥ってしまうからである。
    >
    > アンチノミーとは、たとえば「世界に始まりがある」と「世界に始まりはない」という、相反する命題のどちらもが言えてしまう状態。カントによれば純粋理性概念は以下の4つのアンチノミーを生み出す。これらは片方の命題からもう片方の命題が証明できるが、そうすると両方の命題が証明できることとなり、よって両方の命題が否定されることになる。
    >
    > アンチノミー@ 
    >   世界には時間空間的に始まりがある × 世界には時間空間的に始まりはない
    > アンチノミーA 
    >   世界にあるものはすべて単純なものからなる × 世界にあるものはすべて複合的である
    > アンチノミーB 
    >   世界には自由による原因性がある × 世界には自然法則がある
    > アンチノミーC 
    >   神という必然的存在がある × 神は存在せず、世界は偶然的である
    >
    > こうして神とか世界とか自由とかいう形而上学的なことについては純粋理性を用いても知りえないことがわかった。理性の能力を駆使してもアンチノミーという壁にぶちあたるため、人間がその外なる「世界の本体(物自体)」の正しい認識に達することはない。これがカントが『純粋理性批判』でしめした人間の知性の限界である。
    >
    > おしまい〜\(^^)/
    > 壁にぶちあたった理性の別の使い道は『実践理性批判』にて!
    >
    > <付記>
    > 帰ってきたロシュフコーさん、ありがとうございました!m(__)m
    > 動画を視ながら楽しく学習できました。
    > 私のメモ・まとめは、帰ってきたロシュフコーさんの動画を視聴し参考にしながら私が作成したものなので誤りがふくまれていても動画のせいではありません。あしからず。
    >
    > *******
    >
    > 私はこの動画で学んでいます。
    > https://www.youtube.com/watch?v=YE7d-fFT72c
    >


    うましかさん、お疲れ様でした。

    ありがとうございました。
    m(__)m
引用返信/返信 削除キー/
■12463 / inTopicNo.92)  エフニさんへ
□投稿者/ うましか -(2021/05/08(Sat) 03:54:05)
    こんばんは。エフニさん。

    連休おわってしまいましたね。
    でもまあ、なんとか自分なりにまとめ作業がやりきれてよかったです。


    >うましかさん、お疲れ様でした。

    >ありがとうございました。
    m(__)m


    こちらこそ、声をかけていただきましてありがとうございました!
    はげみになりました。

    (^^)/





引用返信/返信 削除キー/
■12465 / inTopicNo.93)  pipitさんへ
□投稿者/ うましか -(2021/05/08(Sat) 04:20:47)
    こんぱんは。pipitさん。
    おじゃまします。

    >わたしはいつも一日坊主みたいなかんじなので、継続して最後まで完了できることを、尊敬します!
    >おつかれさまです(^_^)♪

    ありがとうございます!

    『純粋理性批判』をひらいてみると日ごろ使わない言葉が多く、それらを駆使して理屈が構築されているので、文字だけだとなかなかあたまに入ってこないですが、言葉をかぎって動画で視覚的に図示されると、雰囲気だけでもあたまに入ってくる感じがえられるので、やる気がそれほど低下せず助かりました。

    今後は『純粋理性批判』そのものにチャレンジしていきたいとおもいます。
引用返信/返信 削除キー/
■12503 / inTopicNo.94)  うましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/05/08(Sat) 21:11:08)
    No12465に返信
    > こんぱんは。<

    か、かわいい響きの言葉です、、、こんぱんは。



    > 今後は『純粋理性批判』そのものにチャレンジしていきたいとおもいます。<

    やった〜\(^^)/ どうぞよろしくお願いします!
引用返信/返信 削除キー/
■12505 / inTopicNo.95)  個人的感想/カント
□投稿者/ pipit -(2021/05/08(Sat) 21:16:50)
    まぁ、ちょっと、底なし沼だったらヤバいなと思いはじめてますが。。。

    わたしのせいだとは思うものの、、、

    カントマジック、、、、

    _(┐「ε:)_
引用返信/返信 削除キー/
■12524 / inTopicNo.96)  うましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/05/09(Sun) 14:32:13)
    No12521に返信(うましかさんの記事)
    > こんにちは。pipitさん。
    > おじゃまします。
    >
    > 動画メモのまとめ作業がおわりましたので、pipitさんの問い「形而上学的演繹と超越論的演繹の位置関係」(■12322 / inTopicNo.26)をきっかけに本文にふれることをはじめていきたいとおもいます。<

    ありがとうございます!
    嬉しいです(^_^)♪


    > *******
    >
    > あらためて中山元訳から引用。
    > ※今後引用文については、行間隔をあけ、'>'(引用文始め)、'<'(引用文終わり)で区切るようにします。引用元は続けて'→'の後に提示します。
    >
    > >[純粋な知性の]"形而上学的な根拠づけ"において、思考の一般的な論理的な機能とカテゴリーの機能が完全に一致することで、カテゴリー一般のアプリオリな起源が明示された。これにたいして"超越論的な根拠づけ"では、カテゴリーが直観の対象一般についてのアプリオリな認識をもたらす可能性が明示されたのであった(第二十項と第二十一項参照)<
    > →カント『純粋理性批判2』中山元訳、p.161
    >
    > 上の引用について切り口をこう考えてみました。
    > ◇ 「形而上学的〜」と「超越論的〜」のカントの用法の対比と両者の関連
    > ◇それらにおいて、各々なにが行われた(行われていた)か
    >
    > まず引用文を整頓。
    > @ 形而上学的な根拠づけ
    > 思考の一般的な論理的な機能とカテゴリーの機能が完全に一致することで、
    > カテゴリー一般のアプリオリな起源が明示された<


    これ、アプリオリな起源、というのは、
    知性そのものが起源、ということかな?
    と、わたしは今のところ思いました。
    違うかなぁ。



    > A 超越論的な根拠づけ
    > カテゴリーが直観の対象一般についてのアプリオリな認識をもたらす可能性が明示された<


    『直観の』とあるじゃないですか、そこがミソになるのかなぁ、という感じがしてます。

    もともと、演繹は、直観の対象に人間が対応・呼応させる概念の正当性についての主張だと、今のところ思っているのですが、

    直観の対象一般についてのアプリオリな認識をもたらす可能性、とは、
    直観が感性的には時間・空間の形式上に現れると表現できるように、
    直観として私たちが認識するとき、もう、カテゴリーの形式下に直観が従っている可能性についてを述べてるのかな、と、思ってます。
    ここらへんは、読んでいかなくては、と、思ってますが(><)

    『純粋理性批判2』カント、中山元先生訳、p134 では、カントの小タイトルの訳として、
    『第ニ〇項 すべての感覚的な直観はカテゴリーにしたがう。カテゴリーは、多様なものそのものが意識のうちにまとまることができるための唯一の条件である』
    とありますね。

    直観を、対象としての直観と知るには、カテゴリーがアプリオリに既に仕組まれている、
    そんなイメージを持っています。

    そういうことを述べたのが

    > A 超越論的な根拠づけ
    > カテゴリーが直観の対象一般についてのアプリオリな認識をもたらす可能性が明示された<

    と、うましかさんがまとめてくださった、超越論的演繹ではないかと。
    もちろん、勘違いしまくってるかもです。m(_ _)m


    > 引用箇所の原文はどうなっているのか気になります。ネット文献から該当箇所を引用。
    >
    > >In der metaphysischen Deduktion wurde der Ursprung der Kategorien a priori ueberhaupt durch ihre voellige Zusammentreffung mit den allgemeinen logischen Funktionen des Denkens dargetan, in der transzendentalen aber die Moeglichkeit derselben als Erkenntnisse a priori von Gegenstaenden einer Anschauung ueberhaupt (§§ 20, 21) dargestellt.<
    > →https://www.gutenberg.org/cache/epub/6343/pg6343.html
    >
    > ※ウムラウトは文字化けしてしまうので代用表記。
    > ※私はドイツ語、英語ともに読み書きできず、外国語は辞書などで調べる程度の力しかありません。あしからず。<

    おぉ、ウムラウトというのですね!勉強になりました(^_^)


    > 引用文と原文をみくらべると、中山元訳2の、@「明示」はdartun、A「明示」はdarstellenを訳したものとおもわれます。中山は両者の区別を意識していないのかな…たしか原佑訳はちがう訳だった気がしますね。
    >
    > ところで「超越論的な根拠づけ」についてカントはつぎのように述べています。
    >
    > >だからわたしは、これらの概念が対象とどのようにアプリオリにかかわるのかを説明する作業を、超越論的な根拠づけと呼んで、経験的な根拠づけと区別することにする。<
    > →カント中山元訳2、p.93
    >
    > この引用文を理解するためには、まずその前にのべられた「根拠づけ」(演繹)の定義をおさえておく必要がありますね。法学書において権限と越権について論ずるさい“何が合法的に認められているか“という「権利問題」と“事実はどうであるか“という「事実問題」について区別しそれぞれ証明をもとめるが、権利問題について権限や権利要求を証明するdartunことを「根拠づけ」とよび、カントの「根拠づけ」は、これに由来するようです。(中山元訳2、p.91-92参照)
    >
    > *******<

    なんとなくですが、dartunのことを、証明書、みたいなイメージで考えたらどうかな?と、自分では思いました。

    うましかさん、おつかれさま、ありがとうです!!


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